梅仕事2020♪

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

梅仕事2020♪

今年は梅摘みに行くのが難しいかな…とあきらめかけていましたが、緊急事態宣言が解除。5月29日に福岡県から発表された6月1日以降の行動指針で、県をまたぐ移動が可能になり、今年も無事に梅を収穫してくることができました。

梅雨入り前の快晴。年明けからずっと気になっていた佐賀・花祭へ、ようやく出かけることができました。青空の下、道路に出ている枝を切ったり、草刈りをしたり、梅を摘んだり。木も草もどんどん伸びていて、近いうちにまた足を運ばないと、手入れがまったく行き届きません。

梅は今年は数はたくさんついていませんでしたが、その代わりといいましょうか、ひとつひとつの梅はいつもより少し大きめに育っていました。収穫前に風雨の強い日がそれほど無かったので、皆つやつやときれいです。

どんどん上に伸びていく我が家の梅の木。「桜切るバカ、梅切らぬバカ」の言葉が頭に浮かび、そろそろプロにお願いして切って整えてあげた方が良いのかも、などと考えつつ。

ともあれ、あきらめかけていた梅仕事。もちろん市場には梅は出ているのですが、「自分のところの梅を採ってきて漬ける」喜びです。毎年あたりまえに行ってきたことができるありがたさを、ここでも感じました。

続・読書『色の秘密』(文春文庫PLUS)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

続・読書『色の秘密』(文春文庫PLUS)野村順一 著

昨日、読書『色の秘密』(文春文庫PLUS)のブログを書いたところでしたが、本日はその内容備忘メモ。


  • 生命は色彩である
  • 「肌で感じる」
  • 目とか心とかで判断する以前に、皮膚が識別する。
  • 色には感情がある
  • 味は視覚で決まる
  • 色彩呼吸法
  • 色聴
  • 音楽を色彩に翻訳
  • 色をして語らしめよ
  • 何よりも太陽光線
  • (色彩の)面積配分による快い芸術的な効果
  • 私たちの目は無意識のうちに、色彩や形態を単純化して見てとろうとする。
  • 生活空間のリズムを、視空間のなかの五パーセントの小さな面積が作り出す。場所は一か所に限定するものではない。
  • 緑色は名医だ。
  • “皿まで食う”
  • 食器の優劣で料理の味は、ものの見事に大差がついてしまう。
  • (味覚は)自らの視覚経験や味覚記憶によって条件づけられている
  • 成人の視覚は観察と観念の累積
  • 「捨て色」の美学
  • 日本人は色を見るための色を使う。
  • 思考などはこわれやすいのに、シンボルはこわれにくい。
  • 色は形よりもずっと容易に記憶される
  • 生命あるものは震動で形成されている
  • 人間は「見る」ことに慣れるにしたがって、「見えないもの」に対する感覚を鈍らせてしまった。

『色の秘密』(文春文庫PLUS)野村順一 著より


第4章「IV社会を動かす色彩術」で茶道の話が出てきます。今回十数年ぶりに読み直して、そのなかにわたしの入門する南方流の『南方録』からの引用があったことに気づき、思いがけず嬉しかったです。この本を手に入れ最初に読んだときには、南方流の存在も知らず、目に留まらなかったのですから、面白いものです。

こどもの日。→こどもの月。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

こどもの日。→こどもの月。

5月5日は子どもの日。花祭窯の玄関先には、恒例となった「鯛の豆皿で見立てた鯉のぼり」を飾っています。

鯛の豆皿 藤吉憲典

津屋崎に工房を移してすぐのころでした。藤吉憲典の定番ロングセラーのひとつである鯛の豆皿を「子どもの日に孫にお祝いで贈りたい」とお買い求めになったご婦人から、ヒントを頂戴した「鯛のぼり」。

今年は緊急事態宣言下であることから、5月10日(日)の母の日を、拡大して「5月は母の月」にして祝おう!という流れがあります。毎年母の日前後は、贈りもの需要で宅急便などの物流は大忙し。これを「母の日」→「母の月」にすることによって、少しでも荷物の集配を分散しましょう!ということのようです。

理由はどうあれ「お母さんに感謝する日」が1日から1か月間に広がるのは、とっても好いこと。ならば「こどもの日」だって「こどもの月」でよいのではないか!?と思ったのでした。じゃあ、6月の父の日は…ということで、6月は「父の月」でしょうか。

ともあれ、感謝したり祝ったりという気持ちは笑顔を呼びます。ならばこの際「○○の日」→「○○の月」とする動きを、個人的に加速していってみよう!と決定した、子どもの日の朝(笑)。

ご近所さん。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

ご近所さん。

に、支えられています。写真は、昨日ご近所さんからお裾分けいただいた、タケノコ。

「タケノコ要るね?」と言われ、「はい!食べます!欲しいです!」と答えたら、土間にタケノコが。我が家で茹でるタケノコは、これが初もの。「そろそろタケノコ出始めてるよね」と話していた矢先で、感激至極。

そろそろ散りはじめの桜も、我が家の裏手のご近所さんの桜を堪能いたしました。例年愉しみなのですが、今年は咲きはじめてから強風や雨の日が少なかったので、いつにも増して眼福の日々。

ご近所さんの桜

玄関前を掃除しようと出てみれば、葉っぱ一枚落ちていないこともあって、「ああ、うちの方まで掃除してくださったんだ」とありがたくなること多々。家の前にある駐車場では、気がつけばご利用者のお一人がいつも草刈りを済ませてくださっています。

向こう三軒両隣。それ以上のご近所さんたちにさりげなく支えられていることをあらためて実感する今日この頃です。

呑んべえの器。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

呑んべえの器。

ダンナ・磁器作家藤吉憲典は、このところ食器づくりに勤しんでいます。アート作品と、用途美の器。この両翼があることが、創造・制作に好い刺激になっていることを、傍で見ていて感じます。アートが器から学ぶこともあれば、器がアートから学ぶこともあるのだなぁ、と。

久しぶりに食器ばかり作っているわけですが、その出来上がりを見ていると、ちゃんと「食べる」「飲む」「手に取って使う」への心配りが、なされていて安心します。そんなのは当たり前!の筈とはいえ、作家ものでもそのイメージが出来ていないと感じられる器は少なくありません。

器を見ると、そのつくり手が、ふだんから家で自分の器や、他の作家さんの器を使っているかどうかがわかります。それは、そもそもつくり手自身が「いい器で、食べたり、飲んだりする時間を楽しみたい!」と思っているかどうか、にも通じるように思います。

そういう意味では、一番わかりやすいのは、酒器かもしれません。本人が酒を愛する呑んべえかどうかで、出来上がりがかなり違ってくるのを感じます。実際に我が家にあるぐい呑みコレクションを眺めてみると、作家さんは、皆さん呑んべえ(笑)

そして、たいていの呑んべえは「食べる」ことも好きで、男女問わず自らお料理をする方も少なくありません。すると、やっぱり食器の作り方も違ってくるのです。意図せずとも、「家呑み」の効用がつくりに反映されるのですね。

そんなわけで、わたしは呑んべえのつくる器をお勧めします^^

小皿の新作。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

小皿の新作。

先週末に「新作が生まれるワクワク感。」なるタイトルでブログを書いておりました。今朝、赤絵窯が上がって、出てきた新作が上の写真の面々。

六角の亀甲型に三つ足の高台。ものすごく丁寧な作りです。カタチが出来上がった時点で「いいねぇ、どんな絵がつくのか、出来上がりが楽しみだねぇ」と言っていた六角小皿。ようやく完成形で目の前に現れました。

サンプルの段階なので、同じ形にいろいろな絵が載っています。実際にこうして出来上がりを見てみてから、定番化するものと、そうでないものとが出てきます。

つくり手のイメージ通り、イメージ以上にあがってくるものがある一方で、そうでないものも出てくるのが、新作制作の常。20年以上のキャリアを積んだ昨今は、イメージから大きく外れることは少なくなってきているようですが、それでも「窯を開けてみないとわからない」のです。

ともあれ、新作の誕生はワクワクがいっぱい。染付の山水文もいいし、赤絵万暦もいいなぁ、と、感想を述べるばかりのわたしは呑気なものです(笑)

ご近所で社会科見学。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

ご近所で社会科見学。

ここ津屋崎千軒に工房兼住居を移転してきて、もうすぐ丸八年です。江戸末期から昭和初期にかけて、塩田と港による交易で隆盛したといわれる津屋崎千軒には、往時の面影がしのばれるスポットが点在しています。

お天気の良い週末、そんなご近所をあらためてじっくり拝見する機会をいただきました。国登録有形文化財である藍の家と、そのお隣の豊村酒蔵。写真は豊村酒蔵さんの、今はもう使われていない煙突を見上げたところ。

ふだんからしょっちゅう前を通っていても、やはり見応えがありますし、説明を伺えば新しい発見もたくさんあります。古いものが残ってきた歴史には、その時々のエピソードが伴うものですね。「ちょっとそこまで」の感覚で、このような社会科見学ができる贅沢に感謝です。

そうそう、福岡界隈にお住まいの方にはご存知、地域情報誌の『シティ情報ふくおか』2020年4月号には、福津市内のスポットを紹介する「福津市観光ブックレット」がついています。よかったら、手に取ってみてくださいね♪

春のお彼岸だったので、

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

春のお彼岸だったので、

ぼた餅つくろう!と最初は思ったのですが、ヨモギ餅が食べたいな、とヨモギを準備。にもかかわらず投入しそびれて、結局ふつうのあんこ餅になりました。こうなると、まったく「春のお彼岸」っぽくは無いのですが(笑)

まずは朝から自転車で餡やさんへ。まだほんのり温かい、出来たての粒あんをゲット。最近マイブームの「ホームベーカリーでお餅」です。もち米4合分が1時間ほどでつきあがる手軽さが、気に入っています。

もち米4合で、丸餅が約20個出来上がります。大きさ・カタチがまちまちなのはご愛敬。何の理由も無くてもあんこ餅をつくってよいのはもちろんだけれど、理由がある方が「つくろう!」というモチベーションが上がります。和の暦は「つくる理由」の強い味方。

「ヨモギを入れそびれた!」と気づいたのは、お餅がつきあがる10分前。今から入れても、ちゃんと混ざらないよなぁ…と思い断念しました。ともあれ、出来たてのあんこ餅を頬張るしあわせ。まだヨモギの季節は続くので、次のお楽しみです^^

ご飯を食べに行く。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

ご飯を食べに行く。

我が家は外食頻度が低いです。出張でもなければ、朝昼晩と一日三食、職場兼自宅で食べるのがあたりまえ。ここ津屋崎から宗像にかけてのエリアは、魚はもちろん、野菜、お肉や卵も新鮮でおいしい地元のものを調達しやすく、「おうちご飯」に最適な恵まれた環境です。

そんな日々のなか、藤吉の器を使ってくださっている料理人さんのところに食事をしに行くのは、この仕事をしている自分たちへのたまのご褒美であり、大きな楽しみです。昨日おじゃましたのは、北九州小倉の木”山(ぎやまん)さん。上の写真は、お食事に大満足した帰り道に撮った小倉城。

お店を独立なさる前に、ご主人の南さんと奥さま、お二人で花祭窯までお越しくださったのでした。お店を持って四年になるということ。やっと訪問できました。

飲食店が密集する夜の繁華街、競争が激しいであろうエリア。一歩店内に入ると外の喧騒が嘘のようでした。カウンター5席に4名個室ひとつのコンパクトな空間。徹底的に無駄がそぎ落とされたなかに、掛けられた花やさりげなく置かれた干支の香合、カウンター越しに見える道具の数々も美しく、とても気持ちのよい空間でした。

お料理を口に運ぶたび、美味しくて嬉しくて、自然と笑みがこみ上げます。うつわ使いも素敵で楽しく、ダンナは食べ終わる傍から器を撫でまわし、背面や裏を確認。無粋とは思いつつ、気持ちは分かるので、放置(笑)。そんな景色に、嫌な顔をするどころか「見る用」に器を出してくださるご主人の気さくな心遣い。

お料理が出るたびに、旬の食材を地元で調達なさっていることがわかりました。昨日は特にタケノコがよかったです。うつわも、現代ものはできるだけ北九州から近い作家さんのものを、と考えておられるようでした。古いものとの組み合わせが絶妙でした。個人的には、ガラスの器使いに惚れ惚れ。

お店を出るころには3時間近くが経っていました。ゆっくり、時間をかけてお食事をする贅沢。堪能しました。ありがとうございました。

北九州小倉の木”山(ぎやまん)さん。完全予約制です。直前では予約を取りにくくなっているようですので、お早目のご予約をお勧めいたします。

声に出してお経を読む。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

声に出してお経を読む。

先行きが見通せない状況で、メンタルをいかに強くしなやかに保つかが問われているなぁ、と感じる今日この頃。発想を転換して新しい習慣をとりいれるタイミングなのかもしれません。仕事においても私生活においても。

わたくしごとではありますが、自分をニュートラルに保つ工夫の「自分一人でいつでもできること」として、「お経を唱える」がじわじわ効いているように思います。実のところ日ごろ仏教徒であるという自覚はほとんどありませんが、信仰に関わらず、読経も写経も座禅も、開かれているもの、良いものは、誰でもどんどん取り入れたらよいと思っています。そういえば、欧米のビジネスエリートの間で流行っているという瞑想などは、その最たるものかもしれませんね。

「声に出しての音読が脳に良い影響を与えるらしい」のは、以前に『脳と音読』という本もご紹介しました。では、声に出して何を読むか。たとえば論語でも、詩でも、絵本のお話でも、好きなものなら何でも良いのだと思います。その選択肢のひとつに、お経もあるよ、と。

わたしがお経の音読が気に入っているのは、読んでいて、さっぱりことばの意味がわからないから。もちろん、お経の言葉(文字)自体には、意味はありますが。そして、音の流れの調子が、心地よいから。もちろん、すらすらと読めるようにならないと、心地よい調子にはならないのですが(笑)。

意味を考えずにただ音として読む。ふだんの会話で使う言葉ではなく、読み慣れない音なので、そこに集中せざるを得ません。結果として、余計なことに頭を働かせることがなくなります。なるほど没頭とはこういうことかと思いつつ。

お経は実は生きている人たちのためのもの。「平らかな心」を保つことこそが「禍」を乗り越えるのに役立つということ。これらを会得するために、般若心経を唱えることが必ず力になるということ。…というのは、ダライ・ラマ14世の講話の受け売りですが。 なにかやってみようと思っている方、試しにお経を読んでみませんか。