「リモート授業」なるもので、今どきの高校生活を垣間見る。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

「リモート授業」なるもので、今どきの高校生活を垣間見る。

緊急事態宣言下の福岡県。期限が9月末まで延長となりました。この4月から高校生の息子、夏休み明けは「リモート授業(オンライン授業)」がはじまるということで、授業に使うアプリの設定からスタート。

我が家はデスクトップのパソコンがあるので、授業も受けやすい方だと思いますが、これは極少数派。ほとんどの生徒はスマホの小さい画面を通して授業を受けるということで、たいへんだなぁと思いましたが、スマホを使い慣れている子どもたちにとっては、さほど苦痛ではないようです。「スマホスタンドが必要」ということぐらいでしょうか。

昨年来、Zoomでの双方向ミーティングは親子ともに慣れてきましたが、学校で使うのは「グーグルクラスルーム」という学校向けの仕組みと、グーグルミートの組み合わせ。こちらは初体験です。が、学校から持ち帰った簡単な(超簡単な!)説明書きに従ってアカウントを設定し、開いて進んで行くと、あっという間に設定完了。スムーズなものですね。このような仕組みを提供するグーグルはやっぱりすごいと、単純に関心。

実際に授業が始まると、出欠確認の際だけカメラをオンにするということで、上衣だけは制服着用、下は半ズボンの息子。そういえば昨年来、在宅ワークでそんなファッション(?)をあちこちで見かけました…大人も子どもも考えることは同じですね。画面の向こうから「キンコーン」と懐かしい学校の始業の音が聞こえます。

授業を担当する先生方のアプローチも、それぞれに面白く。課題問題を投げかけ、授業時間のほとんどを考える時間(自習)にして、時間が来たら解説してお終いの先生。リモート用にパワーポイント的な資料をつくって画面共有して、講義をする先生。最初に課題の目的を説明し、関連するYoutube動画のアドレスを添付し、見た後の感想提出を宿題とする先生。黒板を使って説明し、手を上げての発言を促しと、ふつうに授業をする先生…。

実にさまざまで、面白いなぁと思いました。一方で生徒たちはと言えば、グーグルミートとLINEの画面を行ったり来たり(笑)。なにしろ初のリモート授業とあって、「今回は初めてなのでうまく行くかわかりませんが…」とおっしゃる先生が少なくないなか、ちょっとしたわからないことは、LINE上で生徒たち同士でその場でアドバイスし合って解決しながら、授業を受けています。これはこれで、すごい。今どきの高校生たちのユーモア感覚と柔軟性が垣間見えました。

コロナ禍で、スタートは「苦し紛れのリモート授業」ですが、この体験を通して得るものも、かなりたくさんありますね。息子は「スマホ入力」から「パソコン入力」への練習になると喜んでいました。ここ二日ほどで「ローマ字入力のブラインドタッチ」ができるようになってきたようです。音声入力が主流になってきたら、これも不要になるかもしれませんが、とにかく「いろいろなことをやってみる」きっかけにはなっているようです。

毎日のブログのモトは、どこから拾ってくるのか。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

毎日のブログのモトはどこから拾ってくるのか。

おかげさまで、土日祝日を除いてほぼ毎日「ふじゆりスタイル」の記事を書くことが出来ています。ときには日曜日以外毎日書いている月もあり、「よくそんなに書けるね」と声をかけていただくことが増えてきました。

とはいえ「ブログ」との付き合いは「書き始めては頓挫し」の繰り返しでした。淡々と書けるようになってきたのは、ほんのここ数年です。

わたしの場合、「ブログを書き続ける」という点で、お手本となる存在がありました。「展活Times」を平日毎日更新し続ける、展示会活用アドバイザー大島節子さん。東大阪にある、什器レンタル会社さんの社長さんです。わたしよりかなりお若いのですが、家業を継いで社長になられてから、事業存続を探るなかでご自身の天職を作り上げて来られた、すごい方です。これからの時代、自分にとっての天職は作り上げていくべきものなのだと、彼女の活躍を拝見するたびに思います。

この方が書くブログは、徹底して「お客様に役立つ情報」を意識しておられるのがすごいです。それでいて、とても自然体。わたしは彼女をお手本にしていると言いながら、「どなたかの役に立つ情報」を意識して書き続けようとすると頓挫する、を繰り返してきました。実際にやろうとして、さらに彼女のすごさがわかります。どうやらそのスタンスはわたしには無理なので、「自然体」だけでも倣おうと開き直り(笑)、徹底して「自分が読みたいこと」を「自分のために」書くことにしました。

「自分が読みたいこと」を「自分のために」書く となると、自由で気軽です。ノンジャンルな文書の集まりになって、まとまらなさそうですが、そこには「わたし自身の興味関心」という一定の方向性が生まれます。自分のための備忘録ですから、一番の読者は、わたし自身。実際のところ、何か思い出したいことがあったり、調べたいことがあるときに「ふじゆりブログ」内でキーワード検索をかけると、答えやヒントが出てくることが多々。かなり役に立っています。

「何を書こうか」がパッと浮かばないときには、スマホで撮った写真を振り返ってみます。わたしは、仕事に使う以外ではあまりスマホで写真を撮らない方ですが、それでも自分がそのとき「あ!」と思ったものを撮っているものです。その写真からブログテーマを引っ張ってきて、文章化する。これが案外便利な「ブログネタ」になっています。そしてもうひとつ、わたしには強い味方「読書記録」があります。常日頃から本はなにかと読んでいるので、そのなかからピックアップしてブログを書けばよいというわけです。

書くことが見つからないときはこれ!という頼り先(わたしの場合、スマホで撮った写真と、読書)を一つ二つ持っているだけで、ブログを毎日書くのに、それほど困らないようになりました。あとは「自分のために書く」という気軽さ、そしてももと文章を書くのが好きな方だということですね。

そんなわけで、執筆の仕事も募集中ですので、お気軽にご相談くださいませ^^

ふすまの貼り換えをしたら、白い面が美しく。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

ふすまの貼り換えをしたら、白い面が美しく。

夏の終わりに思い立って、ふすまの貼り換えをいたしました。もちろん、実際にやってくださったのは、ふすまやさんです。頼るべきはその道のプロですね。4枚のふすまを両面、二日で美しく仕上げてくださいました。

花祭窯の建物は、昭和元年に建てられたものを使わせていただいており、設えはできるだけ当時のままにと心がけています。建具も当時のものをできるだけ使っています。ふすまのサイズが部屋により様々だったり、現在の標準サイズとは異なっていたりします。今回請け負ってくださった職人さんによると、ふすま自体の内側のつくりも、昔ながらのつくりだったということでした。

今回、襖紙は無地に近いものを選びました。設置していただくと、淡いクリーム色に控えめな地文はありながら、ほぼ白い面が広々とした感じになりました。すっきりとなり、何も描かれていない、無の状態の美しさを楽しんでいたものの、しばらくすると、何か絵画的なものをプラスしたくなってきています。

季節的に、今はまだほとんど襖を開け放っていますが、これから先、襖をきっちりと占めたときに何か楽しい絵が現れると面白いだろうな、と。4枚のふすま両面で8面…どんどんイメージが膨らみます。襖絵を描かせた古の人々も、こんな気持ちだったのかしら、と思いつつ。

今すぐにどう、ということではありませんが、そのうちに「襖がこんな風になりました」とブログをしたためる日が来るかもしれません。

「プリン、どうやって食べていますか?」と問われ。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

「プリン、どうやって食べていますか?」と問われ。

いつものお気に入りのケーキ屋さんにて。そういえばいつもケーキばかりで、プリン買ったことが無かった!と気づき、プリンをオーダーしたところ、オーナーパティシエから投げかけられたのが、このセリフ。

不意打ちに「えっ!?」となり、「正しい食べ方があるんですか!?」と質問返し。すると厨房からコイコイと手招きされ、その場でプリンの食べ方レクチャーがはじまりました。下の写真は、そのレクチャーに従って、家で食べたときの写真。

染付網文中鉢 藤吉憲典
プリン & 染付網文中鉢(段付5寸鉢) 藤吉憲典

教えてくださったのは、「プリンを器に返して盛り付ける」のひと手間。たしかに、ケーキはお皿に盛っていただくのに、プリンは買ってきたケースのままいただくことがほとんどでした。こうして逆さに返せば、カラメルソースがきれいに全体にかかり、パティシエが作るときにイメージしている「おいしいハーモニー」の状態で食べることができるということ。

「だから、プッチンプリンは、ある意味正しいんですよ」とパティシエ。「こうして食べたらソースがまんべんなくかかって美味しいってことを、お客さまに伝えるのも、わたしたちがするべき仕事なんですけどね。これまでちゃんとできていなくって」と。「せっかくカラメルソースがおいしいのに、容れ物のまま上から食べたら、底に残っちゃうでしょ?」と。

確かにその通りで、器に返していただくと、ソースも残さずきれいにいただくことができました。きれいに形を崩さずに器に返すコツ=返す前にプリンと容器の接点をぐるりとスプーンで押しておく!を教わったので、不器用なわたしでもうまく行きました。

我が家では、出来合いのお惣菜でもなんでも、お皿や鉢に盛り付けなおします。そうすることで尚美味しく感じます(自己満足でも良いのです)。そのプリン版ですね。カラメルソースがあるので、ちょっと深さのある鉢を使うと見た目にもいい感じで、なんといっても食べやすくなります。

ということで、写真の段付5寸鉢を使ってみました。縁が段(リム)になっているので、実際には径が4寸(12cm)ほど。リムがあることで、スプーンが使いやすくなり、ソースも掬いやすくなりました。

そういえば、以前にはケーキの包装を待っている間にミントクッキーをいただき、ハーブの「ミント」の種類と選び方についてのレクチャーを受けたりもしました。今回はプリンをオーダーしたら、プリンの食べ方のレクチャー。小さなお店で、物理的にもお客さんとの距離が近いからこそできる接客だなぁ、と思いました。次回は何を教えてもらえるのか、楽しみです。

TNC「華丸・大吉のなんしようと?」(9/3放送)に撮影協力しました。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

TNC「華丸・大吉のなんしようと?」(9/3放送)に撮影協力しました。

福岡ローカルですが、テレビ西日本(TNC)さんの博多華丸・大吉さんの番組「華丸・大吉のなんしようと?」(9/3放送)に撮影協力しました。毎週、博多華丸・大吉さんが福岡県内の市町村を巡り、地元の人々と触れ合う人情バラエティー番組。

「華丸・大吉のなんしようと?」(9/3放送)に撮影協力
「華丸・大吉のなんしようと?」(9/3放送)に撮影協力

番組サイトでアーカイブを拝見すると2009年からの記録があり、10年以上続く人気番組であることがわかります。ここ福津の特集もすでに何回かあった模様。事前打ち合わせの際に、だからこそまだ取材していない場所を紹介していきたいとおっしゃるプロデューザーさんの熱意が伝わってきました。

レッドウルフ 藤吉憲典

当日は、特にフィギュア系のアート作品で盛り上がりました。短い放送時間枠で、バラエティーですから面白く笑える会話にしていきながらも、作り手への敬意をもってきちんと人物紹介をしていこうとしてくださる手腕が垣間見え、さすがプロだなぁと思いました。華丸・大吉さんのお人柄が伝わってきたのはもちろん、事前打ち合わせから当日、そして後撮りまで、携わってくださったスタッフの方々の、心配りが伝わってくる放送でした。

7月に放映されたのNHKBSプレミアム『美の壺』もそうでしたが、番組制作にかかわる方々のプロフェッショナルな仕事を拝見することができました。テレビは特に、見る人が減っているとはいえまだまだ影響力は大きく、実際に放送されるまでどのように扱われるかがわかりにくいこともあり、メディアとしては諸刃の剣にもなりえます。そんな懸念もあり、仕事の性格上お断りすることも多々ありました。でもこの夏は、つくづく恵まれた取材が続き、ほんとうにありがたく感謝しています。

花祭窯のある津屋崎は、福岡ローカルのテレビ局がよく取材に来ます。明治時代から続く豊村酒蔵さん国登録有形文化財の藍の家民泊兼コミュニティスペースの王丸屋さんなど、昔ながらの画になる街並みが残っていることや、すぐ近くに海があるロケーションが、映像的に良いイメージなのだろうなと思います。最近はここにリサイクル着物と着付けのプロ・時代屋さんも加わり、街並み歩きの魅力が増してきています。

津屋崎方面お越しの際は、ぜひ街歩きをお楽しみください。もし花祭窯にも訪問を、という時は、必ずあらかじめご連絡くださいね。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その5。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その5。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


美術探検

「美術作品」を読みとるのではなく、「美術」を見る/知る=鑑賞は個人が各自の体験(知っていること)を存分に使って積極的に作品の中に出かける「表現」になる。

日常の常識でいっぱいの毎日の中に、美術作品によって非日常がするりと入ってきて、ふと自分の今日までを振り返る。自分の個人的な体験の点検と再構築が起こって、これまでの世界が広がる。
各自の世界観が知らないうちに拡大される喜びが、美術を鑑賞する楽しさと目的である。

表現行為としての鑑賞

本物を見るということは、何を見ることなのか。

「鑑賞を表現行為として行う」には、作品と対峙したときに
①作家の想いを含め、描いた人のことは忘れる。
②美術館にあることを含め、権威にまつわることは忘れる。
③キャプションを含め、作品を巡って「字で書いてあること」は忘れる。
→それによって、初めてそこにある作品を「注意深く丁寧に見る」ことができる。

自分で見て「その人自身」が「作品から読み取れることだけ」を使って「自分のお話」を「組み立てる」作業の結果、各自が持っている世界観が自然い拡大するという状況が起こる。そのことを「鑑賞」という。

★鑑賞のアートワークで押さるべきこと。

ものを見て判断する場合に、依るべき基準として使うことができるのは、その時その人の脳に既に保存されている記憶又は試験だけ。
鑑賞するときに使えるのは、その人が既に知っていることだけ。
その時彼らに教えることができるのは「既に持っているモノの使い方」だけ。

=伝えるべきは新しい見方ではなく、見ているものから読みとる方法と、それをもとに、自分が既に持っている情報をどのようにそこに絡めて使うか、というような部分。(←いかにアドバイスするか)

すでに知っていることを縦横に使ってみることによって、もっと知るべき(知りたい)方向と深さが自ずと見えてくる。
無意識に「知らされる」のではなく、意識的に「知る」。

美術はそのほとんどが「見る人の目の問題」である。
自分のために、様々なものを丁寧に注意深く見よう。
それが好きだという感覚は、個人でしか決められない。又は自分で決めなくてはいけないコト。
自分で決めるということは具体的に何をどうすることなのか、その点検に美術は使える。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


その1

その2

その3

その4

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その4。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その4。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


制作しない、しかし美術

(学校教育が苦手とする)個人を自立させる、または個人が自主的に健全な人格を形成できるようにする、という部分を担う。

美術は非日常とか認識の拡大とか、まず確固たる常識と日常が出来上がっていることが、理解の基本に深く関わり、かつ個人の美意識の上に成立する。

美術的な活動=丁寧に、くわしく、深く見る。の場面で使われるのは「美術的な視点」。近代の自立した市民的視点。私たちが、これまでの美術の歴史を通して獲得してきたものは、感性と過去性とかのような曖昧なものを肯定する基礎となるもの。すなわち「一人一人違っていて、一人一人がそこから見ていることを肯定することができる」というもの。

美術作品の鑑賞は、表現教育の大切なひとつ。=見ることを通した自我の形成、美意識の組み立て。=個人の美意識の形成。

個人が(象徴的な意味で)立ち止まって、よく考え、自分で周りを見ながら決める。決めたことを、自分以外の人の見方など気にしないで、自分の責任と覚悟の上で、みんなに見てもらえるよう努力してみる。というような美術・表現の基本的な姿勢。

美術(Fine Art)は哲学的で内省的で専門的で広範囲に各自の人生や世界観に深く関わる部分を含む、総合的でかつ個別な概念である。基本的に美術は、人間の大人のための仕事、活動なのだ。

一人一人の「体験」を、人間としての「経験」に積み重ねる手伝いが美術にはできる。私の感動は私の感動で、その感動は伝えられない。でも感動というものがあるということ、そして、その感覚はこうすれば磨くことができる、は伝えられる。

描けるのは、頭の中に見えるモノだけ、を自覚できる大人になろう。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


藤吉憲典《古典とアート》展。岡山和気のギャラリー栂さんで。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

藤吉憲典《古典とアート》展。岡山和気のギャラリー栂さんで。

9月20日(月祝)が初日です。昨日、栂さんから案内状が届きました。オーナー栂さんの思いが伝わってくるような素敵な案内状で、昨今の状況のなか機会をいただけることに、あらためて作り手ともども感謝している次第です。

今回の展覧会の内容については、栂さんが「器でもアートでも、藤吉さんにお任せします!」とおっしゃってくださいました。せっかくだからどちらもお持ちしようとDM用の作品もいろいろ取り混ぜてお送りしていたところ、このような案内状になりました。

タイトルは「 磁器作家 藤吉憲典《古典とアート》展 」。7月のNHK BSプレミアム『美の壺「青と白の粋 染付の器」』放映後としては、藤吉の最初の個展ということで、栂さんがなにかと心配りしてくださったことがわかります。

ギャラリー栂 (とが)
〒709-0431 岡山県和気郡和気町清水288-1
電話0869-92-9817

磁器作家 藤吉憲典《古典とアート》展

会期:2021年9月20日(月祝)-10月3日(日)
※9月27日(月)休み
営業時間:11時~17時

会期中、9月27日(月)だけお休みが入っています。どうぞお間違いの無いよう、ご注意ください。また、全国的にコロナ禍の感染拡大が続いておりますので、ご来場は無理をなさらないようお願いいたします。ご来場の際には、マスク着用をはじめとした感染防止マナーをお守りくださいね。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その3。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その3。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


美術を使い込んでいくために

美術はもう終わったんではないかと言われたことがあった。でも終わらなかった。
美術は常識を点検し、無理やり世界を広げるのが、仕事。
美術が無くなるとき、それは常識が無くなったのに、それに誰も気付かなくなったときで、それって私たち人間の世界の終わりなんじゃないだろうか。
そうならないために、みんな美術館に行こう。

美術は、全ての人間が全部一人一人違うということを基礎に、人間全体の世界観を拡大してゆくということが、存在の意義である。

一人一人違う人間は、一人一人違う生活経験を組み立ててゆく。その生活経験の積み重ねで、その時のその人の世界観(自分を取り巻く状況とのつじつま合わせ)や人生観(自分の内側で起こっていることのつじつま合わせ)が、一人一人個別に、その人の中に出来上がって行く。まずこの状態が肯定的に、社会の基礎として存在しないと私たちが今知っていると感じている美術は始まらない。

なぜなら美術は、その個人の世界観や人生観を表現したものだからである。
そこに表出されたものが、全く違うということこそが、私たちの美術がここまでかけてやっと獲得してきたものであって、私が今ここにいる、ということの証明なのだ。

今ここに私がいる。そして私はこのように私の世界を見ている。
ただそれだけを自覚して真摯に描いて(表現して)いるかどうかだけが、問われる。

そこにあるのは私が知っている世界ではなく、それを描いた人が見ている世界だ。ということを肯定する。

その人が真摯に描いた世界観を、こちらも真摯に見る。ことを通して私たちは自分の世界観と人生観を点検し、修正し、どのような形であれ理解することによって、自分の世界の見方を拡大してゆく。

肯定された「一人一人違う世界の見方」が集まって初めて私たち一人一人の世界観はより豊かに広がっていく。
このことは練習しなければいけないし、いくら練習しても終わることはない。

みんな一人一人違うということを尊重して大切に想う。美術はそのまったく基礎にあるものの見方を訓練するもの。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その2。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その2。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


小学生と中学生のための「美術って本当のところ、どうなんですか?」

「作ること(描くこと)」は、美術の中の一番大切な部分ではない。上手に描けるとか絵は苦手とかは、美術を楽しんだり考えたりするときには、ほとんど関係ない。

本当は学校でするべき美術って、実は「見ることの楽しみ」を練習すること。

今座っているところから窓が見えるか?そこから外を見る。その窓から外に見える物を5分間で30個「言葉」で書き出してみる。

大きくなるにつれ、生活の体験が増えるにしたがって、どんどん見える物(意識できるもの)が増えてきて、見える物が増えること自体が楽しくなってきて、今の私たちがいる。

自分が知っていることだけが、描ける。頭の中で「見える物」を言葉で書いていくと、その組み合わせで「描ける物」が見える物を超えて増えていく。

言葉で書けるものを「飽きずに丁寧に」を描いていくと、絵は知らないうちに上手に見えてくる。「見える物を書く言葉」を増やす作業/努力をしてこなかった人も、絵を上手く描けない人になってしまうことが多い。

絵を描く作業は運動神経である。だから本当に上手い絵を描きたい人は、運動神経を研ぎ澄まさなければならない。自分の運動神経を隅々まできちんとコントロールしてやるぞ、という想い。自分の中の世界の見え方を、自分自身で意識的に運動神経に変えてみる作業。

「見てるか?」の点検

目で見ているものは、目で見えている映像を、脳が見えていると思っているので、見えている。
見て描く作業の時、実際に描いているときに見ているものはどこにある?

私たちはよく「見た」「ちゃんと見た」という。でも本当に見えているのは、目の外側にあるものでは無く、目で見て、脳に記憶してあると信じている物だったりする。

私たちが普通見ていると思っている物は、目の外側ではなく目の内側にあるものであることに気づこう。

絵を見ることは、それを描いた人の内側をのぞきこむことなのだということがわかると、自分以外の人が描いた絵を見る楽しみ、そしてあなたがあなたの絵を描く楽しみは一気に広がらないか?そうか、自分の頭の中に、こういう風に写っていたんだ、と。

どう見て良いのかわからない絵を見るときには、絵を「よく」見るしかない。何が見える?自分が既に分かっている/知っていることを使って「見て分かること」を増やす。

見えることだけで、頭の中にお話が湧いてきて、続いていく。
今、頭の中でおこっていることが、本当の「鑑賞」。作者の想いを読みとるのではない。作品を使って、あなたの世界が広がっていくのが鑑賞。それができるのが良い絵。

描いた人の気持なんか、あまり気にしなくても良いから、もし自分がこれを描くとしたら、何をどうやってどうするか、実際の気持ちになって見直してみよう。

美術作品を見ることが感動と結びついている活動だというならば、美術館はもっとうるさい所になって良い。
感動したら声を出してみる。
上手かろうが下手だろうが、感動するのであれば、実はどっちでもいい。

私たちは、自分で考えて、何がかっこいいのかを、皆が各自考えなければいけない世界に生きている。
かっこいいはみんな違う。同じ人でも10代のときと50歳のときとでは違う。でも私たちは、みんな一緒に生きている。

美術館には、好きな絵嫌いな絵、いろんな絵が飾ってある。飾ってある絵が全部違うことが大切。全部違うものを全部大切にとってある/とっておけることが大切。

いろんな考え方のいろんな世界を見る。本当のところ、美術館をみんなで作る楽しみは、そこにある。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


その1はこちら