『Homes & Antiques』8月号への藤吉憲典のインタビュー記事原稿。その3。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

『Homes & Antiques』8月号への藤吉憲典のインタビュー記事原稿。その3。

特集コーナー「HEIRLOOMS OF THE FUTURE(未来の家宝)」での藤吉憲典のインタビュー記事です。日本国内でこの記事をご覧いただける機会はまずないと思われることと、インタビューで尋ねていただいた内容が、作家のキャリアを理解するうえでとても有用なものだったため、元となった日本語原稿を何回かに分けてご紹介していくシリーズです。


Q4. 有田の磁器工房(窯元)で働くことになった経緯を教えてください。そこであなたはどのような仕事をし、どのように感じましたか。(Homes & Antiques)

A4. 父が病気のため、東京から佐賀に帰郷したことがきっかけでした。父は書道家であり、最初は彼の営む書道塾を継ぐように言われました。わたしは、書は幼少期から猛特訓を受けていましたので、もちろんそのような道もあったのだと思いますが、どうしても絵を描く仕事、デザインの仕事がしたくて、父に頭を下げて断りました。

一番最初の窯元では、大量生産用の器の絵柄のデザインを手がけました。大量生産とはいっても、有田の絵付職人さんたちが手描きで画をつけるものです。なので、職人さんたちに、どのように絵をつけるかの指導までを含めて、デザイナーの仕事でした。とにかくどんなかたちであれ「絵」「デザイン」を続けることが出来たのが、とても嬉しかったです。その後、形のデザインまで含めた商品開発デザイナーへと進みました。(藤吉憲典)


Q5. ご自分の作品を作るようになる技術は、そのような窯元の仕事のなかで学んだのでしょうか。(Homes & Antiques)

A5. 足かけ約8年、全部で四つの肥前磁器の窯元を経験しました。それぞれの窯で、商品開発のプロダクトデザイナーとして仕事をするなかで、わたしの基礎が作られていきました。前述したように、「どのように絵をつけるか」「どのように形を作るか」、実際に手を動かす現場の職人さんへの指導も含めてわたしの仕事でしたので、自然と技術も身に付いていきました。窯元は同じ有田でもそれぞれにつくるものに特徴・違いがあり、四つの窯元を経験することで、技術的な幅も広がったと思います。(藤吉憲典)


Q6. 独立して自分の作品を作り始めようと思ったきっかけはなんでしょうか。最初に制作した作品はどのようなものでしたか。またどのようにして作品の市場(販売先)を見つけましたか。本格的に軌道に乗ったのはいつ頃からですか。(Homes & Antiques)

A6. ご存じのように、肥前磁器はすべての工程が細かい分業で行われています。磁器作家を名乗っている人も、実際には形は別の職人が作り、作家は絵をつけるだけの人が多かった。この、分業があたりまえの業界で、全部を自分一人でやってみたいと思ったのがきっかけです。それともうひとつには、非常に現実的な話なのですが、有田の窯元の徒弟的な労働環境のなかで仕事をしていくのが、肌に合わなかったというのも正直なところです。

最初に作ったものは、何だったか忘れました。でも、食器です。独立するときは「食器作家として成功する」ことを目指していました。自分の作った器で、一人でも多くの人が、ご飯を食べる時間が楽しくなるといいな、食卓が豊かになるといいな、という気持ちでした。雑誌に載っている器専門の有名ギャラリーのなかで、自分の作風に合いそうなところ、尊敬する作家さんの器を扱っているところを探し、電話でアポを取って器を持って行って見てもらっていました。

わたしは芸術系の大学を出ているわけでもなく、窯元勤めはしましたが、弟子として有名師匠に仕えたわけでもありませんでしたので、磁器作家としてなんの後ろ盾も持っていませんでした。誰の紹介もなく、突然電話して「器を見てください」と。なので、最初は門前払いされることも少なくなかったです。それでも、作ったモノ自体を見て評価してくださるギャラリーさんと少しづつ出会うことができ、仕事を続けることが出来ました。ようやく何とかこの道で食べていくことが出来るかな、と思えたのは、10年経った頃だったと思います。(藤吉憲典)


「その4」に続きます。