セルフ問答―あらためて「日日是好日」の意味を考えてみました。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

セルフ問答―あらためて「日日是好日」の意味を考えてみました。

日日是好日。2020年に某コラムの記事で「今この一瞬に向き合い、精いっぱい生きることの大切さを説く言葉です」と、わたしは書いていました。当時の自分なりの解釈として「振り返ったときに、かけがえのない一日であったと前向きに語ることができるよう、どんな一日も(嬉しいことがあった日も、悲しいことがあった日も)精いっぱい生きることが大切」と。禅のことばに限らず、孔子の論語にしても、聖書の言葉にしても、「その意味・意図」の解釈は後から付けられているものであり、ほんとうのところは発した本人にしかわかりません。それをよいことに素人(=わたし)が勝手な解釈をするのはいかがなものかとも思いますが、個人的に問答する分には自由かな、と^^

そのときから5年ほどが経ち、今どう考えているのかを、セルフ問答。この手のことを考えるとき、わたしの頭のなかに浮かぶのは、過去に二度ほど講話を聴いたことがある、ダライ・ラマ法王の姿と言葉です。講話ではダライ・ラマはチベット語や英語をお話されますので、わたしに届く言葉は通訳さんによる日本語ですが。最初に聞いた時(2005年)のお話のテーマは「自我と無我」について、その次(2018年)は「空(くう)」についてでした。いずれのお話も「平らかな心を保つこと」「利他の心を高めていくこと」にたどり着きます。

『ブッダに学ぶほんとうの禅語』(アルボムッレ・スマナサーラ著/アルタープレス合同会社発行)によると、「日日是好日」は仏陀自身の言葉であって、禅師の言葉(いわゆる「禅語」)とは異なるのだそうです。悟った聖者の心の状況を表した「Bhaddekaratta-gatha」なるものがあって、その本に全文が載っているのですが、どんなことが書いてあるかというと「過去には引っかからない、将来には期待しない、その瞬間に起きる出来事に対しても愛着を抱くこともその反対に拒絶しようとすることもない」という生き方だとのこと。あまりにも淡々としすぎているのでは…というのが、凡人であるわたしの率直な感想です。それほどに、俗世を生きる者と、悟った人との世界観は異なるということなのでしょうね。

で、現在のわたしの「日日是好日」の解釈は、中国語の「好(ハオ)」に近いのかな、と感じています。ここ数年テレビで中国ドラマを見ていて、そのなかでセリフとして発せられる「好(ハオ)」が、時代もストーリーも異なるさまざまな場面にありながら、いずれも「受け入れる」ニュアンスを含んでいることを感じていました。「好日」は、良い日であるというよりは、その一日を受け入れること、というのがしっくりくる感じです。以前考えていたような「精一杯生きる」という解釈にくらべると、だいぶ肩の力が抜けてきた感覚。この発見は、自分ながらに面白いことでした。これからまた先、さらに変わっていくのだと思います。