読書『私はスカーレット 下』(小学館)林真理子著

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『私はスカーレット 下』(小学館)林真理子著

上巻に続き、下巻も一気に読み終わりました。上の写真は上巻のを使いまわしていますが、ご愛敬。

上下巻読了後の一言としては「ジェットコースター」。スカーレットの人生も、彼女の気質も、まるでジェットコースターです。が、下巻でも変わらずスカーレットは激しく魅力的でした。下巻でその魅力は「生き抜いてみせる」ためにはなんでもする強さとなって現れます。彼女を支えていたのは「もう絶対に飢えない」という、現実的な覚悟であり実際に味わったが故の切迫した恐怖であり。だからこそ、横暴だろうと卑劣だろうと、読みながら彼女を責める気にはまったくなりませんでした。

それにしても、毎度のことではありながらこの手の歴史小説で考えさせられるのは、「どの立場からものを見るか」によって、「真実」とされることの印象がまったく変わってしまうこと。本書の舞台となった南北戦争、奴隷解放という歴史的事実もまた、誰の目を通すか-本書の場合はスカーレットの目を通していたわけですが、によって、これまでの印象とは、まったく別の感想を残すこととなりました。そしていかに一義的なものの見方を植え付けられているかに気づき、愕然とするのです。本書のあとがきでも、そのあたりの見解について、出版する側の考えや問題提起が、しっかり丁寧に記されていました。

ところで冷静に考えると、「完」時点で彼女の年齢はまだ20代後半または30代に入ってすぐ!?あたりだろうと思われ、このあといったいどうなるのやら、とため息が出ました。「このあと」を気にかけた人は、どうやらわたしだけでなくたくさんいたのですね、『スカーレット』のタイトルでマーガレット・ミッチェルとは別の作家(アレクサンドラ・リプリー)が、続編を書いているということを知りました。それも企画公募によるものだというのですから、どれだけこの「続編」を書きたいという方々がいらっしゃったのかと、ワクワクします。新潮社文庫から出ている日本語訳が森瑤子さんというのも、興味深いですね。まだまだしばらく『スカーレット』ワールドから抜けられそうにありません。

『私はスカーレット』(小学館)林真理子

読書『TRANSIT』No.60、No.61(講談社MOOK)ユーフォリアファクトリー

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読書『TRANSIT』No.60、No.61(講談社MOOK)ユーフォリアファクトリー

2023年の、花祭窯の年間定期購読紙『TRASIT』。雑誌ですが「読書」と言ってよいのではないかというボリュームです…と、ご紹介したのは今年の春のことでした。

No.59「東インド・バングラディシュ」のあとに、No.60「メキシコ」、No.61「イタリア」と続いています。最初に手にしたのが「バングラディシュ」でしたので、なかなか手強いぞ!と構えておりましたが、メキシコ、イタリアと、次第に馴染みのある国名になって参りました。

まずは、No.60メキシコ。メキシコ=サボテンブラザーズ、タコス、フリーダ・カーロ(フリーダ・カーロの自画像に似ているね、と言われたことが少なからずなので、彼女には親近感を持っています)…ぐらいのイメージしか持ち合わせていなかったわたしにとって、色鮮やかな写真の数々は、とても刺激的でした。マヤ文明をはじめとした古代メキシコ世界、多神教世界の魅力的な偶像の数々、現代にも続く季節ごとの多様な祭礼儀式、カルト信仰にシャーマニズム…。消化しきれない大量の情報が一冊に込められています。

九州国立博物館ではこの10月から特別展「古代メキシコ」が開催中。もともと「観に行かねば!」の展覧会ではありますが、グッドタイミングに本誌を手にすることが出来ましたので、ますます楽しみになって参りました。

続いては、No.61イタリア。イタリアの特集号が手元に届いたのは、ちょうどダンナ・藤吉憲典をイタリアに送り出してホッとした翌日のことでした。個人的に、これまたグッドタイミング♪どうやら引き寄せの法則が働いているようです。

巻頭特集が、バレーボール日本代表でイタリアリーグに所属している高橋藍選手のインタビューだったのは、まったくもって意表を突かれました。小中高とバレーボール漬けだったわたしとしては、飛びつきましたが(笑)。もちろん、古代ローマに始まる栄枯盛衰の物語、芸術の話、デザインの話など、これぞイタリアという興味をそそる記事が深堀りされています。

いずれも「雑誌をパラパラとめくる」というスタンスでは、読み込み不可能な圧巻のボリューム。完全に保存版です。年4回=3か月ごとの発刊ですが、その間に少しづつ読み消化していくと思えば、ちょうど良いペースかもしれません。

『TRANSIT』ユーフォリアファクトリーの公式サイトTRANSIT Webはこちら。

ウェブサイトも写真が美しく、魅力的なコンテンツ満載です。わたし個人的には、本誌に限らず紙媒体派ですが。次号が届くのがとっても楽しみです♪

読書『犬は「びよ」と鳴いていた』(光文社未来ライブラリー)山口仲美著

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読書『犬は「びよ」と鳴いていた 日本語は擬音語・擬態語が面白い』(光文社未来ライブラリー)山口仲美著

サブタイトルにある「日本語は擬音語・擬態語が面白い」そのままの内容です。文学博士・日本語学者であり、日本語の「名脇役」の歴史と謎を研究する第一人者である著者の、光文社新書のロングセラーの文庫化版。このようなマニアックな本がロングセラーになり文庫化されることが、個人的にはとても嬉しいです。そして遡っては、このような本を新書として発刊してくれた光文社新書の編集者の方々の意欲に脱帽します。本書のエピローグで、新書の発刊と文庫化への経緯が書かれていますので、興味のある方は、ぜひ。

英語の3倍から5倍以上もあるといわれる、日本語の擬音語擬態語。わたしたちはふだん当然のように会話で使っていて、当然のようにお互いに意味を理解しています(と思っています)が、日本語が母国語ではない方々にとっては、とても理解しにくく困るものだということで、日本語の大きな特色であるということが、あらためてわかりました。

それにしても、面白いです。時代時代によって音の表現がことなることや、その変化のなかにも変わらないものや、規則性が見つけられること。読むほどに「なるほどなぁ」と納得したり、「そんなことが!」と驚いたり。文字・言葉を仕事にする人たちの、擬音語擬態語に向き合う態度の違いにも、面白さを感じます。これでもかというように例示と検証が登場してきます。言葉や文字を生業にする方には、ぜひ読んで欲しい一冊です。

顧みて自分自身がこのブログひとつとっても、「書く」作業のなかで、擬音語・擬態語をどのように位置づけていたかしらと、省みる機会にもなりました。一時期、できるだけ使わないようにと意識していたこともありましたが、ここ数年はまったく意識していませんでした。放っておくと、ふだんの会話では「擬音語擬態語」をかなり多用しているわたし。本書を読んで、さて今後のブログではこの魅力的な日本語表現をどのように扱っていこうかと考え中です。

『犬は「びよ」と鳴いていた 日本語は擬音語・擬態語が面白い』(光文社未来ライブラリー)山口仲美著

読書『私はスカーレット 上』(小学館)林真理子著

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読書『私はスカーレット 上』(小学館)林真理子

ご存じマーガレット・ミッチェル著の長編小説『Gone with the Wind(風と共に去りぬ)』を、主人公スカーレットの一人称でリライトしたという、林真理子氏の意欲作です。新聞の書評欄で知り、これは絶対に読みたいと思っていたところ、いつものカメリアステージ図書館新刊棚に、並んでいるのを発見。ありがたいですね。まずは上巻を読破。

読みながら思ったのは「わたしは『風と共に去りぬ』をいつ読んだんだ?」ということでした。というのも、大筋でストーリーは覚えているものの、南北戦争の描写の印象があまり残っていなかったのです。もしかしたら、ちゃんと全部は読んでいなかったのかもしれません。高校2年の頃に文化祭で『風と共に去りぬ』のパロディ(?)をやることになり、クラスメートが書いた脚本でストーリーを読み直し、さらに高校3年の時に、4時間ほどの映画をテレビで一挙放送する機会があって、当時受験直前にも関わらずぜんぶ見てしまった記憶があり、それらを通してストーリーが頭に入っていたのかもしれないな、などと思いつつ。

さて『私はスカーレット』。まだ上巻だけですが、傑作です。スカーレット・オハラという、ただでさえ強烈なキャラクターが、林真理子節でさらに磨きをかけられている、と、わたしは感じました。若い頃の林真理子さんの、コンプレックスを反転させたようなちょっとひねくれた毒舌が大好きでしたので、(わたしの持っているイメージでの)著書らしい勢いを感じて、愉快な気持ちになりました。

それにしても、もしも近くにいたら絶対に腹の立つキャラクターであろうスカーレットの、なんと力強く魅力的なこと。周りにいる人間は、自分にはできないことをやってのける彼女に腹立ち半分、羨望と敬意を抱いてしまうのだということが、とてもよくわかります。そして、わたしにとってはこれまで歴史の教科書を通してキーワードとしてしか知らなかった米国の「南北戦争」や「奴隷解放」が、本書でその時代・その場所で生きた人々の生活の一端を垣間見ることで、胸に迫ってきました。

凄みを持った面白さです。下巻も楽しみです。そしてそれを終えたら、気になりながら手を付けていなかった林真理子版『小説源氏物語』も読まねばなるまい、という気持ちになっています。

『私はスカーレット 上』(小学館)林真理子

読書『謎の毒親-相談小説』(新潮社)姫野カオルコ著

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読書『謎の毒親-相談小説』(新潮社)姫野カオルコ著

いつものカメリアステージ図書館新刊棚。タイトルと著者名で迷わずゲットした一冊です。姫野カオルコ、新井素子の両氏は、まぎれもなくその存在自体がわたしに影響を与えています。ではお薦めの本は?と聞かれると、自分でも呆れるほどに「当時何を読んだのか、本のタイトルを一切覚えていない!」ので、なんだかなぁとも思うのですが。

姫野カオルコさんは1958年生まれ、1990年に小説デビュー。新井素子さんは1960年生まれ、1980年(あるいは1977年)小説デビュー。自分より10歳ほど上の彼女たちの存在は、大学卒業から社会人1~2年目のわたしの目には格好良く映り、お二人に対するあこがれのようなものがあったのだと思います。それから30年ほど経って、また著書に出会える嬉しさ。

さて『謎の毒親』。新潮社のサイトには「親という難題を抱えるすべての人に贈る衝撃作。」と紹介してあります。すべての人が程度の差こそあれ、またタイミングの違いこそあれ、そして親が存命か否かの違いはあれ、「親という難題」に向き合わねばならないときがあるように思います。でもそれが幼少期であればあるほど、子どもには立ち向かう術あるいは回避し逃げる術はなく、ずいぶん後になってから、自分なりに消化する場を求めることになるのだと思います。

主人公が小学生から中学生、高校生へと成長していく中で「この家を出なければ!」と決意し、考え抜いて辿り着いた「確実に、波風立てずに出ていくための方法」は、わたし自身の経験とも重なるところがあり、ああ、やはりこういう方法に辿り着くんだと、なぜかホッとしました。主人公の「痛ましい目にも遭わず、酷たらしい目にも遭わず暮らして」来たことで親を肯定しながらも、子どもだったときの心情を吐露する姿は、ただただ「吐き出せる年齢になり、吐き出せる場所(聞いてくれる、信頼できる人たち)を得ることが出来てよかったね」と思わせるものでした。

最後に、「本書の「投稿」はすべて事実に戻づいていますが(中略)フィクションとして構成したものです。」としてあります。使い古された言い方にはなりますが、事実は小説より奇なりの言葉を思い出させる読書でした。

『謎の毒親-相談小説』(新潮社)姫野カオルコ著

読書『水曜の朝、午前三時』(河出書房新社)蓮見圭一著

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読書『水曜の朝、午前三時』(河出書房新社)蓮見圭一著

9月の三連休は読書三昧!3冊目。先日読んだ『美しき人生』の読後感がなんとも言えない余韻を残したので、遡って読書。いつものカメリアステージ図書館で検索したら、ありました!読みたいタイミングで、読みたい本が見つかる贅沢。助かりますね。

河出書房新社さんのサイトでは、紹介文に “叶わなかった恋を描く、究極の大人のラブストーリー” とあります。が、わたし個人的には、ラブストーリーの切なさにもまして、戦後復興の象徴となる大阪万博を迎えた当時の時代の難しさや、今もなお存在する差別の根の深さを感じさせる、社会的な要素を強く感じました。

大阪万博は1970年。わたしはその1年前に生まれています。そういえば同世代の友人知人には、万博の「博」から「博子」という名前がついた、という人も数人。本書を通して、自分が生まれた頃の日本の社会風俗や価値観を垣間見ることが出来ました。そして、それはかすかに残る幼少期の記憶を想起させるものでもあり、そんな意味でも少し苦しくなるものでした。

戦後、それまでの価値観をがらりと入れ替えさせられ、自己否定しながらなんとか自尊心を守って生きて行かねばならなかった人たち。そんな親に育てられた子どもたち。わたしにとっては、自分の親たちが生きてきた時代を考えさせられるものでもあり、小説としての面白さは、先に読んだ『美しき人生』よりもさらに深い余韻を残すものでした。

『水曜の朝、午前三時』(河出書房新社)蓮見圭一著

なごみでビジネス系セミナー「インバウンドさん、いらっしゃい!」。

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なごみでビジネス系セミナー「インバウンドさん、いらっしゃい!」。

ひかりのみちDMO福津主催のセミナー「インバウンドを知る実践セミナー インバウンドさん、いらっしゃい!」に、参加して参りました。講師は、福岡から九州の魅力を発信するインターナショナルメディア「Fukuoka Now」編集長ニック・サーズさんとゼネラルマネージャーのサーズ恵美子さん。お二人の軽妙なトークに、和やかな雰囲気ながら、なるほどと学ぶことの多い1時間半でした。

以下、備忘。


  • 地元(福岡)でエグゼクティブと呼ばれる人たちにまずは知ってもらい、ファンになってもらう。
  • ファン醸成は時間をかけて。
  • プロ(有力な媒体など)に向けて、情報を流し(届け)続ける。
  • ずっと知っていてもらう、ための情報提供。
  • 情報源トップは、友人や家族からの口コミ。
  • (単純に価格が高い・低いではなく)価値の高い旅行体験への需要大=価格に含まれる具体的価値を明示する必要。
  • 翻訳ツールとしてのChat-GPT。
  • 手軽なものを大勢に、ではなく、手間のかかるものをコアなファンに、届ける。(例. Tik Tokよりも長時間動画、ツイートよりもnoteやブログ)

「インバウンドを知る実践セミナー インバウンドさん、いらっしゃい!」より


それにしても、徒歩3分程度の場所で質の高い学びを得られるありがたさ。なごみのオープンなスペースを軽く仕切り車座で行われた講座は、雰囲気よく、楽しかったです。講座を企画してくださったひかりのみちDMO福津の皆さんに感謝するとともに、第2弾、第3弾を期待しております^^

津屋崎千軒なごみ

映画『名探偵ポアロ ベネチアの亡霊』を観てきました。

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映画『名探偵ポアロ ベネチアの亡霊』を観てきました。

2023年映画8本目はポアロです。先月だったかな、遅ればせながらTOHOシネマズのシネマイレージカードを作りましたので、映画鑑賞へのモチベーションがさらに上がる(!?)かもしれません。何が嬉しいかといって、特別料金で観ることのできる曜日が増えること。シネマイレージカードは、今ならトム・クルーズのミッションインポッシブルのデザインが期間限定で選べると言われたので、映画は観ていないけれど、それにしました。

ケネス・ブラナーのポアロ三作目の舞台は、ベネチア。アガサクリスティ原作『ハロウィーン・パーティ』です。上の写真は、ケネス・ブラナー監督の前作『ベルファスト』のインタビュー記事から。

ケネス・ブラナーのポアロは今回も良かったです。そして、今回最もわたしの目を引いたのは、子役のジュード・ヒル。この子は『ベルファスト』で主役(9歳のケネス・ブラナー)を演じていて、その時も素晴らしかったのですが、本作ではまた雰囲気をガラッと変えて登場していました。ミシェル・ヨーはじめクセ強めの俳優陣のなかにあって、こどもながら「可愛い」とか「かしこい」とかだけではない複雑な存在感を、存分に発揮していました。

ところでポアロシリーズの前作『ナイル殺人事件』を観てから、まだ1年半しか経っていないということが判明。その間に『ベルファスト』がありましたから、年に1本以上のペースでケネス監督作品を観ていることになります。なかなかのペースですね。

さて『ベネチアの亡霊』。公式サイトにも書いてある通り「世界一の名探偵ポアロが超常現象の謎に挑む」ストーリーです。アガサクリスティの『ハロウィーン・パーティ』を読んだことがありませんので、内容をまったく知らず、予告編を何回か見て、正直なところ「オカルトっぽいのはいやだなぁ」と頭をよぎりもしました。が、「いやいや、ポアロの小説でそれはあり得ない」と自らを納得させて映画館へ。結論から申しますと、上映中に数回ビクッとするシーンはありましたが(ビビリなので)、最終的には合理的に説明がつきます。オカルトではありませんので、大丈夫です(笑)。

前作もそうだったのですが、従軍経験が遺す傷の深さや、感染症の広がりが遺した禍根など、現代にも通じる問題提起が、物語に通底しています。ほんとうに怖いのは亡霊ではなく、生きている人間。使い古された言い方かもしれませんが、そう考えさせられずにはいられないストーリーでした。

ベネチアの街並みの美しさを堪能できたのは、エンディングでした。街並みを上空から撮った画が、とても良かったです。観ながら思いがけず津和野(島根県)を思い出しました。津和野もまた、上から眺めたときに同じ色合いのトーンになるように、屋根瓦の色を統一していました。今もかな?わたしが学生時分よく遊びに行っていた時はそうでした。この峠を越えると津和野へ、というところで高いところから津和野の町を眺めると赤茶系の瓦屋根がずらっと見えて、美しかったのでした。

ともあれ、ケネス・ブラナーのポアロ次回作が待ち遠しくなりました。

映画『名探偵ポアロ ベネチアの亡霊

読書『運動脳』(サンマーク出版)アンデシュ・ハンセン著

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読書『運動脳』(サンマーク出版)アンデシュ・ハンセン著

9月の三連休は読書三昧!2冊目。

2018年刊行の『一流の頭脳』に加筆・再編集して、2022年に刊行されています。その4年間に、本書の内容に対してどれほどの反響があったのかがイメージできますね。スウェーデン出身の精神科医による、脳にベストな処方は「運動」である、という論拠と具体的対策を説いた一冊。いやほんとうに、エビデンスが求められる昨今とはいえ、これでもかというほど(笑)に「根拠となるデータ・数字」を挙げての解説が続きます。

結論としては、速足のウォーキング、あるいはランニングや自転車、水泳といった有酸素運動を、1回45分以上、週3回以上できると、脳に(ひいては身体に)いいよ!というもの。運動の内容としては、その強度(少し息・心拍数が上がる程度)と時間の長さが大切だということで、この点についても繰り返しその根拠が述べられています。

以前に読んだPHP新書の『一生使える脳』を思い出しました。

こちらも認知症専門医による豊富な臨床例から「今、わたしの経験からはこう言える」が語られており、説得力のある内容でした。このなかでも、運動が脳に及ぼす良い影響についてページが割かれています。あらためて刊行年を確認したところ、2018年1月となっており、『運動脳』の元となった『一流の頭脳』と同時期に発刊されていたことがわかりました。日本でも海外でも、このテーマが注目されてきているということですね。

さて『運動脳』。「おわりに」では「ただちに本を閉じよう」とあり、思わず笑いました。そして、運動の方法について、上に書いた通り「有酸素運動を、1回45分以上、週3回以上」がベストでおススメであるとは言うものの、「何もしないよりは1歩でも歩いた方が良い」と、とりあえず「体を動かす」ことを勧めています。ということで、まずはわたしも、このところサボり気味になっていた散歩を復活するところからはじめます。

『運動脳』(サンマーク出版)アンデシュ・ハンセン著

読書『自然、文化、そして不平等-国際比較と歴史の視点から』(文藝春秋)トマ・ピケティ著

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『自然、文化、そして不平等-国際比較と歴史の視点から』(文藝春秋)トマ・ピケティ著

9月の三連休は読書三昧!というわけでもないのですが、急いで読んで欲しいというご要望が数冊ありましたので、結果として読書三昧となっています。

まずは先月開催された、カメリアステージ図書館の「選書ツアー」で選んできた中からの一冊。選書ツアーでの候補から書籍が実際に図書館に入るのには、2~3カ月かかることが多いのですが、本書はすぐに届いたようです。

さて『自然、文化、そして不平等-国際比較と歴史の視点から』。ご存じ『21世紀の資本』のピケティ最新作です。といいながら、わたしは実は『21世紀の資本』は、何度か手にしたものの、完読できないままになっていました。内容の小難しい感じに加えて700ページ超というボリュームで、途中挫折。それに対して本書は、見た目から薄くて威圧感がありません(笑)。

データを上げながら解説と持論を展開していく方法は、『21世紀の資本』と同様ですが、短めの講演録であるが故のとっつきやすさのおかげか、こちらはサクッと読了。著者はフランス出身なので、フランスをはじめとした欧州の事例を引いての展開が多くありますが、格差社会の問題は日本でも他人ごとではなく、考えさせられながらの読書となりました。

政治も経済も、自分の力ではどうにもならない無力感を突き付けられることの多い昨今にあって、最初の章に書いてあった文章に、一筋の光を感じました。スウェーデンの例を挙げて曰く「決定論は自然や文化的要因を重視し、この社会は永久に平等であるとか、あの社会は永久に不平等であるなどと決めつける。だが社会や政治の構造は変化するものだ」(『自然、文化、そして不平等-国際比較と歴史の視点から』トマ・ピケティより)。

世の中が、良きように変化していくことを願いつつ。

『自然、文化、そして不平等-国際比較と歴史の視点から』(文藝春秋)トマ・ピケティ著