津屋崎千軒の秋の風物詩、音楽散歩。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

津屋崎千軒の秋の風物詩、音楽散歩。

三連休の最終日は、音楽散歩。津屋崎の秋の恒例イベントとなりましたが、ここ2年はコロナ禍で運営も試行錯誤のようです。それでも、できる方法で開催を模索してくださることがとてもありがたく、実行委員の方々に頭が下がります。昨年に引き続き、今年も規模縮小&すべて無料での開催。これはこれで、ほんとうに誰もが気軽に音楽を楽しむことが出来る形式なので、客観的に眺めると、結果として良い方向に向かっているような気も致します。

さてわたしは仕事の合間に、豊村酒蔵での「弦楽四重奏」を聴きに行って参りました。上の写真は会場の様子。年齢を重ねた木と、漆喰に囲まれた古民家土間でのクラシックは、音の響きも良く、最高の空間でした。演者は福岡市内を拠点に演奏活動をしている「フィルハーモニア福岡」から、第1バイオリン、第2バイオリン、ビオラ、チェロの4名。

プログラムは「アイネクライネナハトムジーク」から始まり、誰にでも親しみのある選曲でした。個人的には「カルメン」から前奏曲とハバネラが続いたのが、ツボ。そういえばオペラ・カルメンの舞台を観に行ったのは、ちょうど4年前の10月でした。コロナ禍で行動制限がはじまったころには、YouTubeでカルメンばかり流していた時期もありました。そんなわけで、個人的に感動。1ステージ30分と短い時間ではありましたが、アンコールには「鎌倉殿の13人」のテーマ曲を演奏してくださるなど、サービス精神満載で、大満足でした。

願わくば来年は、地元の中学校の吹奏楽部の演奏が再開するといいな、と思いつつ。ずっと中学生の吹奏楽部がオープニングを飾っていましたが、ここ数年は音が聞こえないのが、少し残念なのでした。地元民としては、朝から吹奏楽のリハーサルの音が聞こえてくると、「あ!今日は音楽散歩の日だ!」とテンションが上がるのです。

ともあれ、徒歩3分で古民家での弦楽四重奏。贅沢な時間と空間を満喫いたしました。

読書『横尾忠則自伝 「私」という物語1960-1984』(文藝春秋)

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読書『横尾忠則自伝 「私」という物語1960-1984』(文藝春秋)

タイトルの「1960-1984」は、ほんとうは漢数字で書いてありますが、横書きになると読みにくいので、数字書きにしています。

訳あって、横尾忠則に関する本をまとめて読んだところでした。そのなかに作品集も何冊もありましたので、読んだり見たりした、という方が正しいかもしれません。本書は『自伝』となっていますが、タイトルの通り1960年から1984年までの24年間の記録ですので、『半生記』としても、まだ足りないぐらいです。1984年以降も「画家」として大量の作品を生み出していますし、現役作家として展覧会もたくさん開催されています。草間彌生のレポートをした時も思ったことですが、留まることのないエネルギーに圧倒されます。

横尾忠則のサクセスストーリーの背後にある、個人としての姿が垣間見える本でした。本人が「あとがき」で「記録」だと書いている通り、日記的なものです。時代を象徴する多様な業界の才能の数々との交流は、「近現代文化史」とも言えそうです。ただ、個人的に本書を読んで一番すごいと思ったのは、横尾忠則が自分の仕事を語るときに、グラフィック・デザイナーとしての仕事と、画家としての仕事の違いを、自分の言葉で明確にできていることでした。

横尾忠則の物語をもっと幼少期から知りたい、という方には、『横尾少年』(角川書店)もおすすめです。グラフィック・デザイナーとしての横尾忠則の仕事については、たくさんの図録が出ていますが、今回目を通したなかでは『全装幀集』(パイ・インターナショナル)が圧巻でした。わたし自身は、画家としての作品よりは、グラフィック・デザイナーとしての作品に圧倒されました。

映画『ダウントン・アビー』を観て参りました。

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映画『ダウントン・アビー』を観て参りました。

2022年の目標「月に1本は(映画館で)映画を観る!」。5月・7月・9月と映画館に足を運び損ねてしまいました。10月1日映画の日は、封切りを楽しみにしていた『ダウントンアビー』劇場版の第二段。映画の前作は2020年1月でしたので、2年半以上ぶりです。

美しい景色と素晴らしい建物、設え、衣装。たっぷりと目の保養が出来ました。そして今回もユーモアたっぷりのストーリー。登場人物の一人一人がとっても魅力的なのも相変わらずです。わたしはこの世界観が好きなのだなぁとあらためて思いました。

今回個人的に特に面白かったのは、わがままな映画女優と、彼女をいさめる屋敷使用人とのやり取り。つい先日『英国メイド マーガレットの回想』を読んだばかりだったのがグッドタイミングでした。『英国メイド マーガレットの回想』の著者は1907年で、キッチンメイドとして働き始めたのは1920年代でしたので、今回のダウントン・アビーの舞台1928年と、ちょうど合致。時代背景や、当時の階級制度がよくわかったのは、本作を観るにあたってラッキーな収穫でした。おかげでそれぞれのセリフの背後にある想いがすんなりと腑に落ちました。

人気が出てちやほやされている映画女優も、そもそもは「ワーキング・クラス」からの成り上がり。そのわがまま女優がプライドを傷つけられて「こんな仕事できない」と言ったときに、若いキッチンメイドが慰めるどころか「何言ってるの、あんたはわたしたちの側の人間よ。さあ、仕事よ、仕事!行きなさい!」と、少々乱暴な言葉で励ますシーン。その女優が見事に映画撮影をやり遂げ、屋敷を去るまえに「下」に挨拶に行ってくるわね、とにっこりするシーン。最後にキッチンメイドが女優に「なにかあったときは、あなたの根っこを思い出して」と送り出すシーン。

本作のなかではサイドストーリー的位置づけのこんなシーンの数々が、とっても心に響いて温かい気持ちになりまた。ダウントン・アビー、観てきたばかりですが、また数年後にでも第3弾が製作されたら嬉しいな、と楽しみにしています。

読書『新編 銀河鉄道の夜』(新潮文庫)宮沢賢治著

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読書『新編 銀河鉄道の夜』(新潮文庫)宮沢賢治著

宮沢賢治の短編を編み直した、新潮文庫の2022年度版。電車のお伴を探していたところ、新潮文庫の棚に、美しいプレミアムカバーシリーズを発見。なかでも本書の青紫色に金文字の装丁に惹かれて、即買いしました。

実は宮沢賢治をあまり読んでいないという自覚があります。実は『銀河鉄道の夜』は、ちゃんと読んだことがありませんでした。読んだことのあるもので、パッとタイトルが出てくるのは『雨ニモマケズ』『注文の多い料理店』『セロ弾きのゴーシュ』くらい。いずれも絵本で読んでいます。そして、読んだ三冊についてはとても気に入っていましたので、

本書には14編が入っていますが、そのうち読んだ覚えがあったのは、『よだかの星』と『セロ弾きのゴーシュ』のみ。初めて読むものがほとんどで、新鮮な気持ちで宮沢賢治ワールドを堪能いたしました。読みはじめてすぐに気がついたのは、幼い頃に読んでいた時は自覚が無かったのですが、わたしは宮沢賢治の言葉の選び方、使い方が好きなようです。ツボにハマりました。

そういえば今年6月に「わたしの読書ベスト30」を挙げていて、挙げ終わった後に「『注文の多い料理店』が入ってなかった!『雨ニモマケズ』も失念してた!」と反省をしたところなのでした。

『雨ニモマケズ』は、とてもカッコイイ版画の絵本を持っているので、今度本屋さんに行った折には、『注文の多い料理店』の絵本を探したいと思います。

読書『英国メイド マーガレットの回想』(河出書房新社)マーガレット・パウエル著/村上リコ訳

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読書『英国メイド マーガレットの回想』(河出書房新社)マーガレット・パウエル著/村上リコ訳

著者名を聞いたことがあるなぁ、と思いましたが、それは音がそっくりの「マーガレット・ハウエル」で、こちらはファッションブランド…の、思い違いでした。

さて本書、タイトルの通り、回想記=自伝です。1907年生まれの著者が1968年に著した60年分の回想記。貧しい家庭に生まれて、富裕な家でのキッチンメイドとなったマーガレットの少女時代から、執筆活動を始めるに至るまで。そこには、現代に生きるわたしがイメージしきれないほどの大きな「階級の壁」があり、その実態を覗き見ることになりました。この間に二度の世界大戦があり、英国の社会も大きく変化しています。訳者による「はじめに」で、時代背景を解説してくださっているのが、その後の読書にとても役立ちました。

英国の階級社会については、これまでに何冊もの本を読んで、なんとなくわかったようなつもりになっていました。

が、それはあくまでも「つもり」でしかありません。実際に英国でメイドとして働くことがどういうことであったのか、「労働者階級」というものがどういうものなのか、赤裸々ともいえる本書を読んで、頭をガツンとやられたような気がいたしました。

例えば、チャーチルやチャップリンの自伝などにも、階級の話は出てくるのですが、チャーチルはアッパークラスですし、チャップリンは上り詰めていった人。

富裕層に使える労働者クラスという意味では、カズオ・イシグロの『日の名残り』の主人公である執事も、まさにその立ち位置ではあります。

映画では、ダウントン・アビーにも、そのような視点が出て参りますね。

ですが、美しくお話としてまとめられているこれらに対し、『英国メイド マーガレットの回想』の実話のインパクトは、とても大きかったです。そしてそのような理不尽な中を生きるマーガレットの強さ。さりげなく「本を読む」ことの価値が伝わってくるくだりがたびたび登場し、読書が彼女を支え続けたのだと知ることは、わたしにとっても嬉しいことでした。

読書『利休の闇』(文藝春秋)加藤廣著

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読書『利休の闇』(文藝春秋)加藤廣著

利休関連の小説といえば、山本兼一著『利休にたずねよ』を読んだのが、約5年前のことでした。

本書『利休の闇』は、2015年発刊。存じ上げなかったのですが、著者の加藤廣氏は、丹念な史資料精査と独自解釈が人気だそうですね。「丹念な資料精査」の片りんは、本書内で千の宗久、宗及らによる茶事記録などを多数引用しているところからも伺えました。

宗易(利休)の秀吉との出会いから切腹までのお話です。信長から秀吉の時代へと、秀吉が成りあがっていくなかで、お茶がどのように位置づけられていたのか、戦国時代の茶道と政治の関係があからさまに描かれています。「遊びに過ぎない」はずであったお茶が、政治の道具としてその姿を変えていくさまは、なんとも切なくもありました。

それにしても『利休にたずねよ』のときも思ったのですが、この手の小説を読むほどに、宗易(利休)の人間らしさが印象に残ります。人間らしさといえば聞こえは良いものの、言い方を変えれば「遊び好きで好色で権威欲がある」一人の姿。小説とはいえ、完ぺきな師とは言い難い姿に、「なんだ、そうだったのか」と、ちょっとホッとします。

本書内のエピソードでもっとも「へぇ~!」と思ったのは、宗易から利休へと改名を命じられた「利休」の名の由来でした。真実か否かはわかりません。でも、不本意ながらの改名でも、その後の歴史のなかでは多くの人に改名後の名前で愛されているのですから、それを知ったら本人はどんな気持ちになるかな、と思いました。

利休さんにまつわる本は、茶道の指南書関連のものを読むことが多いのですが、こういう小説をたまに読むと、また視野が広がるような気がいたします。

読書『世界はさわらないとわからない』(平凡社)広瀬浩二郎著

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読書『世界はさわらないとわからない ユニバーサル・ミュージアムとはなにか?』(平凡社)広瀬浩二郎著

博物館学芸員技術研修会でお世話になっている広瀬浩二郎先生の最新著書を、偶然見つけました。発行日は2022年7月15日。今年の学芸員研修会「触文化とユニバーサル・ミュージアム」を受講したのが、7月26日でしたので、直前に出ていた著書です。

読みながら、研修会での広瀬先生がおっしゃったこと、語り口がそのまま蘇ってきました。お話を聞き、実技指導を受けたうえでの読書でしたので、理解も深まったように思います。以下、備忘。


  • 失明得暗
  • 得暗によって「できる」ことで勝負していた歴史(がある)
  • 目の見えない者は、目に見えない物を知っている
  • 既存の枠組みそのものを変えるのがユニバーサル
  • 非接触社会から触発は生まれない
  • さわるとわかる=さわらないとわからない
  • 博物館とは見る場所だという固定観念
  • 視覚を使わない解放感
  • 創・使・伝は手を介してなされる
  • 外に伸ばした手は、内へと返ってくる。さわることによって外と内が融合する。
  • 触察
  • 物にさわるとは、創・使・伝を追体験する文化ともいえる
  • なぜさわるのか(作法)、どうさわるのか(技法)
  • 自分の(想像)力で「画」を動かす。
  • ユニバーサル・ミュージアム=誰もが楽しめる博物館
  • 行き方(情報入手法)と生き方(自己表現法)
  • (健常者・障害者ではなく)見常者・触常者
  • 身体感覚を伴わない情報共有は浅薄で危うい
  • 文化相対主義
  • 人々の生活の中で生きている文化
  • (美術品なども)もともとは人々の日常生活を支えるものとして、実用的機能と美しさを併せ持つものであった
  • 生活の中での文化の厚み
  • 陳列棚に入ると生活から離れてしまい、何かが抜け落ちていく
  • (茶道・華道・書道・食文化などの)生活文化
  • 我々の生活から離れた特別なものではなく、生活とともにあるもの
  • 作品の制作・鑑賞は、自己の内面との対話である
  • 視覚を使わない自由
  • (能)花=舞台上の魅力
  • 花と面白きとめづらしきと、これ三つは同じ心なり(「風姿花伝」)
  • 触覚の「美」
  • 目に見えないものをごく自然に受け入れていた江戸時代以前の世界観

『世界はさわらないとわからない』(平凡社)広瀬浩二郎著より


本書前半は、先般の講義のなかで学んだことの復習でした。後半では、各分野の方々との対談やインタビューをもとにした内容が載っていて、これらは広瀬先生の講義のなかでは伺うことのできなかったことでもあり、とても良かったです。

『知識要らずの美術鑑賞』開催-備忘。

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『知識要らずの美術鑑賞』開催-備忘。

2022年度の郷育カレッジ講座で開催した『知識要らずの美術鑑賞』のご報告をしたのは、つい先日のことでした。

その後、受講者の皆さまからのご感想が届きましたので、それらを踏まえて、以下備忘。


  • 学芸員の仕事や、どうしたら学芸員になることが出来るのかなど、学芸員や美術館の仕事について知りたいと思っている方も多い。
  • 鑑賞前の作業(絵を描いたりコラージュしたりの作品づくり)は、思いがけなかったという反応とともに、楽しく良い経験だったと好評。
  • 作業→鑑賞で、意欲が高まり、話を聞くのに集中できた、というご反応。
  • 最後に、学芸員による絵の専門的な解説があったのが、さらに満足度を高めた。
  • 複製画とはいえ、実物大の名作に会えた喜び。→美術館での開催を希望。
  • 継続的に参加したいというご要望。

ご参加者約30名の反応は、大きくまとめると上の通り。絵を描いたりの創造的な作業があったことに対しては、思いがけず全員が好意的な反応。作業があったことによって、その後の座学への集中力が高まったという反応は、とても嬉しいこと。

次回以降の鑑賞講座に、たくさんのヒントをいただきました!

読書『あの図書館の彼女たち』(東京創元社)ジャネット・スケスリン・チャールズ著/高山祥子訳

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『あの図書館の彼女たち』(東京創元社)ジャネット・スケスリン・チャールズ著/高山祥子訳

巻末の「著者の覚書」と「訳者あとがき」を読んで、実話をもとにした小説であったことを知りました。登場人物も、実在した人物が実名で登場していて、そこにフィクションの登場人物が加わっています。事実がより伝わりやすくなるように、こういう本の書き方があるんだな、と感じました。上の写真は、わたしにとってのシェルターであるカメリア図書館入口にある宣言。

本と、図書館と、図書館を支える人々の物語。第二次世界大戦中、ナチス占領下のパリで開館し続け、常連の市民たちに本を届け続けたアメリカ図書館の物語です。本、図書館、当時の女性が仕事を持つ意味、人種、国、戦争、家族、友情…。考えさせられる要素がそれぞれに重いものでした。

主人公オディールの「でも真面目な話、なぜ本なんでしょう。それは、他者の立場から物事を見せるような不思議なことのできるものは、ほかにないからです。図書館は本によって、違った文化どうしをつなぎます」のセリフが響きました。このセリフだけではなく「本が他者の視点を疑似体験できるツールである」という主題がたびたび出てきます。絶望的な状況での大切な心の逃避先になること、本を通して得た知識が生きていくための糧・武器になること。そしてそれらの本を必要な人に届ける、図書館の存在と、司書をはじめそこで働く方々の仕事の計り知れない価値。人々のシェルターとして働く図書館の存在を強く感じました。

その一方で、「思ったことをすぐに言わないと約束して」「(言おうとしていることがなんであろうと)黙っていて」「誰がそのような(密告の)手紙を書くのか分かった。わたしのような人間だ」などなど、登場人物のセリフにちりばめられた「ことば」に関する忠告が心に刺さります。

もしこのような状況下に置かれたら、自分ならどうするか。どうすべきか、すべきことがわかっても、ほんとうにそのように勇気をもって行動できるか。自分のなかにあるマイナスな要素(保身や妬み)に支配されてしまうのではないか。ずっと問いかけられているような気がしました。

パリのアメリカ図書館を開館し続けた司書たちの勇気をたたえる本、と一筋縄ではくくれない本でした。世界に不穏な空気が広がりつつある今、一人でも多くの人に読んで欲しいし、わたし自身繰り返し読みたい本です。そして次回パリに行く機会があれば、今なお開館し続けているアメリカ図書館に足を運びたいと思います。

読書『DEEP LOOKING』(AIT Press)ロジャー・マクドナルド著-その2

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『DEEP LOOKING』(AIT Press)ロジャー・マクドナルド著-その2

アートNPO法人AIT(Arts Initiative Tokyo)創設メンバーで、インディペンデント・キュレーターの著者による、美術鑑賞本。昨日(その1)の続きです。

以下、備忘。


  • 視覚経験がいかにもろく、不安定で信用ならないものであるか
  • (鑑賞者にとっての)「タイムマシン」としての作品
  • アートの歴史におけるひとつひとつの事象は孤立したものではなく、すべてが繋がっていて
  • 何世紀も前の表現だからといって「古い」わけではなく、また同時代に生まれた表現だからといって「最先端」ということもない
  • 肉眼で世界を見る体験の重要さ
  • 意味の理解が曖昧なまま、表現そのものを受け止める(中略)それによって、想像や解釈をもっと豊かに、無数の方向に拡げていくことが出来る
  • すぐに言葉にしない
  • 外側の世界にばかり向いていたアートを、もう一度、個人の内側の世界へと向かわせようとした
  • 「有用性」
  • 作品が鑑賞者に対していかに具体的に作用を及ぼしうるか
  • 現実の物質世界に奪われた自らの「注意」を取り戻し、時間的・空間的制約のない内面の世界へと、「意識」を集中させていく
  • アートを積極的に「使っていく」
  • 自分だけの「アート鑑賞コース」をつくる
  • 同じ作品を何度も見ること
  • 鑑賞体験が個人的であるかどうか
  • ケアとしてのアート
  • 「公共空間の回復」
  • 言語というものの限界

『DEEP LOOKING』第2章~より


従来の諸説からさらに深い考察が繰り広げられ、思いがけず嬉しい驚きのあった読書でした。その鑑賞(観察)方法を何と呼ぶかはさておき、より深い美術鑑賞へのアプローチが理解できました(著者は「対話型鑑賞法」とは異なるとおっしゃっています)。さっそくわたしも、本書で共感できた内容を反映させていきたいと思います。

↓本書についての詳細はこちら↓
https://www.deeplooking.net/