約一年ぶり「古澤巌ヴァイオリンの夜」。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

約一年ぶり「古澤巌ヴァイオリンの夜」。

昨年初めて聴きに行った「古澤巌ヴァイオリンの昼と夜」。音色がすっかり気に入り、これは毎年聴きに行かねば!と思ったのでした。今年は連休最終日であり母の日でもある5月8日に開催とあって、自分へのご褒美にチケットゲット。

昨年はひと席づつ飛ばしての座席指定だった宗像ユリックスのハーモニーホールは、今年はふつうに座席指定があり、少しづつコロナ前の日常が戻ってきつつあることを感じました。そういえば昨年のこのコンサートは、わたしにとって、コロナ禍以降やっとホールに足を運ぶことが出来た、最初のコンサートだったのでした。

途中休憩をはさんで約2時間。今年もピアノの金益研二さんと二人での演奏です。昨年の演奏内容を覚えていたわけではありませんが、ずいぶんと選曲・構成の雰囲気が変わっているような印象を受けました。なんとなく、勝手な解釈ではありますが、現在の世のなかの状態への憂いが反映されているようなイメージ。

ただ、それ一色ではなく、ちゃんと安心させてくれるところが流石ですね。前半最後のディニーク「ひばり」、終盤にかけてモンティ「チャルダッシュ」と、「ああ、これこれ!」と、わたしが勝手にイメージしていた「古澤節」を堪能いたしました。

途中休憩の後、一曲目は金益研二さんのピアノソロ。15分の休憩の間に、調律師の方がとても丁寧にピアノを触っておられたのが目に留まりました。これは、今年に入って小説『羊と鋼の森』を読んでいたからこその気づきです。それまではクラシックやピアノを聴きに行っても、あまり気に留めていなかった方々の存在。本を読んでいたからこそ、これが調律師の方の仕事なのだなと気がつくことが出来たのは、とても嬉しいことでした。そしてもちろん、金益さんのピアノも素晴らしく。

次はまた来年、お二人が宗像ユリックスに来てくださいますよう、楽しみにしています♪

読書『グレート・ギャッツビー』(新潮文庫)フィッツジェラルド著/野崎孝訳

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『グレート・ギャッツビー』(新潮文庫)フィッツジェラルド著/野崎孝訳

ゴールデンウィークの読書旅は、ロシア読書『グッバイ、レニングラード』(文藝春秋)小林文乃著、イタリア(読書『ボローニャの吐息』(小学館)内田洋子著)、英国(読書『英国貴族の城館』(河出書房新社)増田彰久(写真・文))と欧州方面を巡っておりましたが、続いてはアメリカ大陸へ。

我が家にある『グレート・ギャッツビー』は昭和49年初版の新潮文庫。カバーには、1974年の映画『華麗なるギャッツビー』から写真が使われています。映画のギャッツビーといえば、わたしが観たのは2013年のデカプリオ版。ですが、1974年版のスナップを見ても、まったく違和感を感じることなく、小説の世界観がいかにしっかりとイメージされていたかを感じます。

『グレート・ギャッツビー』(新潮文庫)フィッツジェラルド著/野崎孝訳

↑こちらで紹介しているのは、同じ新潮文庫でも1989年版。改訳されている点もあるかとは思いますが、訳者は同じ野崎孝さんです。名著の例に洩れず、複数の出版社から文庫が出ていますので、読み比べてみても面白いかもしれないなぁと思いました。

さて何度目かの読書のグレード・ギャッツビー。映画を観て以来2度目ですが、ギャッツビーはレオ様、ストーリーテラーである「ぼく」は初代スパイダーマン(トビー・マグワイア)に脳内でイメージ変換されてお話が進みます。不思議なのは、最初から最後まで登場しているのは「ぼく=ニック」であるのにもかかわらず、わたしにはモノクローム的にしか印象が残っていないこと。ストーリーテラー=黒子に徹したトビー・マグワイアと、対照的に、色鮮やかによみがえってくる「ギャッツビー」レオ様の美しさ。どちらもすごいな、と本を読みながらあらためて思いました。

何度読んでも切ないですね。個人的な悲劇物語のようでありながら、戦争、格差など、当時の社会問題が色濃く反映されていることを強く思った、何度目かのギャッツビーでした。北米の西部と東部。その違い(格差)がどのようであるのか、行ったこともないわたしには、文中から推し量りながら読み進めるしかありません。そのような背景を補うものとして、巻末の、訳者による解説が、この文庫版の読みどころかもしれません。

読書『英国貴族の城館』(河出書房新社)増田彰久(写真・文)

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読書『英国貴族の城館』(河出書房新社)増田彰久(写真・文)

どこにもお出かけしないゴールデンウィークは、読書旅。一昨日は、生活の基盤に芸術を欲する国・イタリアへ。ミラノからヴェネツィアあたりウロウロ満喫いたしました。

続く読書旅は、大好きな英国へ。並びの新しくなったカメリア図書館から、貸し出しが増えた大型本のひとつを借りてきました。

『英国貴族の城館』(河出書房新社)増田彰久(写真・文)

まあとにかく美しい写真が満載で、ページをめくるたびにため息です。何度見ても飽きません。解説文もわかりやすく親切。へぇ~、なるほど~、すごい!と、思わずブツブツ声に出ていました。ダウントンアビーの撮影の舞台になったというマナーハウスの写真もあり。そういえば映画館で上空からの城館の景色を感嘆しつつ眺めたのは、2年前のことでした。

巻末にある、工学院大学建築学部准教授・中島智章先生の解説がまた読み応えありです。「カントリー・ハウス概説」として、建築としてのカントリー・ハウスをデザイン面(建築様式)と建築計画面(平面構成や広間の種類など)から説明。また「各館解説」として、写真で紹介されているそれぞれの館の特徴や見どころが簡潔にまとめてあります。

仕事でロンドンには行くものの、ゆっくりカントリーハウスに滞在できるような英国旅をしたことは、まだありません。野望がまた一つ増えました(笑)。

読書『ボローニャの吐息』(小学館)内田洋子著

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読書『ボローニャの吐息』(小学館)内田洋子著

図書館でなぜ手に取ってのかわからないけれど、とりあえず連れて帰ってきた本。たまに、そういうことがあります。装丁に惹かれたというのでもなければ、タイトルが特に気になったということでもなく、著者のお名前はどこかで拝見したことがあったかも、とは思いつつ、その程度で、つまりは「なんとなく手に取った本」。

無意識ではあったものの、どこにも出かけない大型連休に、異国の情景をたくさんイメージさせてくれる、嬉しい本でした。タイトルに「吐息」とあるように、少し切なく、一筋縄ではいかない、ちょっとした屈折を感じる、それでいてとても魅力的なイタリアでの暮らし・生活の気配が伝わってきます。そこで仕事をし、生活しているからこそ現れてくるややこしさと、それを大きく上回る魅力。

とりあえず読みはじめ、最後まで本書がエッセイなのだか小説なのだか、よくわからないままに読了。著者紹介の肩書がエッセイストとなっていましたので、エッセイなのだと思います。でも、そのまま小説にも映画にもなりそうな描写だと感じました。日常を描いたものが、そのまま絵になる感じ。読みながらわたしのイメージに入ってくる映像は、なぜかセピア色のモノクロームでした。

「ボローニャの吐息」となっていますが、これは本書に入っている15のストーリーのうちのひとつのタイトルでした。お話はミラノを拠点に、ヴェネツィア、カプリ、ボローニャ、あちらこちらに飛びます。時代も、今と回顧とを行ったり来たり。最後に収められているタイトルが「イタリア、美の原点」なのですが、全編をその言葉のもつ意味が貫いているように感じました。

以前イタリアから福岡の企業にインターンに来ている学生さんたちとお話したときの言葉が思い出されました。いわく「イタリア人は、まず『家ありき』なんだ」と力説してくれた男子学生。家=家族=家族と一緒にいる空間・時間を大切にすることが一番だということ。そして「わたしたちイタリア人は、生活の基盤に芸術を欲しているのです」と誇らしげに教えてくれた女子学生。それは特別なことではなく、イタリアはそもそもそんな国なのだ、ということ。

良書を読むとすぐに影響を受けます。イタリアに行きたくなりました。

『ボローニャの吐息』(小学館)内田洋子著

読書『グッバイ、レニングラード』(文藝春秋)小林文乃著

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読書『グッバイ、レニングラード』(文藝春秋)小林文乃著

どこかで聞いたことがあるようなタイトル…と思いつつ、図書館で手に取った一冊。ここ数カ月、新聞やインターネットの報道を見ても、違和感を感じることが多く、自分なりに近現代史を少しでも知らなければ、という焦りがあります。

本書は2018年刊行。著者が10歳の時に訪問した崩壊直前のソ連と、その25年後の再訪のストーリーです。第二次世界大戦のレニングラード包囲戦と、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ作曲『交響曲第七番』を追いながら、そこに著者自身のお話が重なります。中心にあるテーマがずっしりと重くのしかかりつつも、詩的な雰囲気があり、映画でも見ているような感覚になりながら読みました。

切迫した、悲惨な状況のなかでの、音楽の力、光。それを求める市井の人々の強さと、交響曲を生み出した音楽家の覚悟。平和な環境にいる自分がこのように文字にしてしまうことが、伝え方としてほんとうに良いのかとためらわれるような凄みを感じました。

最終章で著者が「この夜の和やかで豊かなサンクトペテルブルクの食事を、平和だった時代の思い出として回顧することがないよう願った。」と書いていています。今、彼女はどんな思いで、成り行きを見守っているのだろうと思うと、一読者に過ぎない立場ながら、胸が苦しくなりました。

本書を読み終わってまず思ったのが、自分がいかにソ連・ロシアのことを知らないかということでした。近現代史、二つの世界大戦のなかにあって、日本とソ連・ロシアとの関係がどのようであったのかを、なにも学んでいないことに、今更ながら愕然としました。そしてそれは日ロ関係史に限ったことでは無いということも。

ここ数年の読書で強く感じていることのひとつが、近現代史を知りたいと思ったときに、学術的な書籍ではない本の方がわかることもある、ということです。これはあくまでも、わたし個人の考えですが。ルポルタージュはもちろん、エッセイ、小説など。主観的な文章という位置づけであったり、フィクションのなかに織り交ぜたりするからこそ書ける事実もあって、そうした文章のなかから自分がいかに読み取るかが問われていると思うのです。

ところで、本書を手にとって最初に感じた「どこかで聞いたことがあるようなタイトル…」の種明かしは、「あとがき」にありました。映画『グッバイ、レーニン!』です。タイトルに聞き覚えがありましたが、見たことはありませんでした。ドイツ映画だったのですね。これは機会を見つけて観なければと思っています。

ともあれ、今読んでよかったと心から思える本でした。

グッバイ、レニングラード』(文藝春秋)小林文乃著

「藍の家」築120年記念イベント特別記念講演会「私たちはどこからきて、今どこにいて、これからどこへ行くのか」に参加してまいりました。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

「藍の家」築120年記念イベント特別記念講演会「私たちはどこからきて、今どこにいて、これからどこへ行くのか」に参加してまいりました。

めちゃめちゃ長いタイトルになりましたが(笑)。講師は九州大学名誉教授であり竹田市文化振興財団理事長であり文化審議会世界文化遺産部会委員である藤原惠洋さん。その藤原先生が花祭窯に遊びにいらしたのは、3月の頭のことでした。

そのときに「建築・都市・デザイン」視点で津屋崎千軒の街並み・建築物を再評価する、との話していらっしゃったので、大きな期待をもって講演会に参加いたしました。

以下、備忘。


  • 芸術の持つ包容力に委ねる。
  • 建築と美術が「まち並み」を作る。
  • 「保存」が目的になってしまった日本の文化財行政の弊害。
  • (古い建築物の)「保存」はあくまでも手段であり目的ではない。
  • 保存の先に、どんな目的があるのか?
  • 文脈=context。礎。歴史のなかでの位置づけ。大きな文脈のなかでの立ち位置。
  • 矜持=プライド。「わたし」の前後200年を語ることが出来るか。海外に出ることで、日本の根幹を相対化して見る(理解する)ことが出来る。
  • 紐帯=絆が弱い故の、強いコミュニティ。社会的な仕組み。
  • なぜ私有財産を公のものにしようと思ったのか(思うのか)?
  • 「景観」は誰のものか。
  • 最も重要なステイクホルダーは、現にそこに住んでいる人。
  • 「地の人」と「風の人」の両輪。
  • 30年後は「今」の積み重ね(突然やってくるわけではない)。
  • 全体を俯瞰する。
  • 大人が遊ばない限り、子どもは遊ぶことが出来ない(遊びを知ることはできない)。
  • ブリューゲル、ゴーギャンの絵画に見る「まち」と「人」(「子供の遊戯」ピーター・ブリューゲル/「我々はどこから来たか?我々とは何か?我々はどこへ行くのか?」ポール・ゴーギャン)。
  • 地域固有資源=文化資源。
  • ◇=悪霊封じ。
  • 聖地(=変化や揺らぎのない不動の場所)が多いほど、良い。小さな祠、神社etc…。
  • 町全体が遊びの場=安全な空間。
  • 保護+生かす=保全。
  • 保存と活用。国の施策として、今後は活用に軸足。
  • 「市民の社会的合意」をどのように導くか。

※藤原惠洋先生の講演「私たちはどこからきて、今どこにいて、これからどこへ行くのか」から。先生の言葉とわたしが考えたこと。


非常に面白く、考えさせられるお話でした。図らずも、ここ最近ずっと手元で開いては眺めている本『くらべてわかる世界の美しい美術と建築』で提起されているものと重なりました。講演を聞いて「あの話をどう受け取るか、『踏み絵』だと感じた」とわたしにおっしゃった方がありましたが、たしかにそのような示唆的な部分も多々。この120年記念講演が大きなきっかけになるか、ただのお飾りイベントになるか、今後にかかっています。

ともあれ家から歩いて3分のところで、このような深いお話を無料で拝聴する機会があったのは、わたしにとって贅沢なことでした。ありがとうございました&企画から運営まで手掛けられた「藍の家保存会」の皆さまに心より感謝申し上げます。

九州EC勉強会『5人の子どもを産んでひとりで年商1.4億社長になった女の話』に参加してまいりました。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

九州EC勉強会『5人の子どもを産んでひとりで年商1.4億社長になった女の話』に参加してまいりました。

2週空いての土曜ブログ更新は、昨日の九州EC勉強会が楽しかったので、備忘。

九州EC=九州ECミーティングは、経営者・ECに取り組む方々が幹事となり、事業運営に役立つ情報交換・提供を行う会です。2005年1月に「九州でも東京並みの情報が得られる場」を作る目的で結成され、完全ボランティアで続いている勉強会組織です。

今回の九州EC勉強会も、現地会場とZoomのハイブリッド開催。リアル会場で参加してまいりました。講師は、手作り服と鞄でフォロワー(minne、creema)7万人以上に愛されている「もりのがっこう」代表取締役の後藤麻美さん。minneやcreemaなどの「手づくり作家マーケット」から事業化した成功例として、最初の方なのではないでしょうか。とはいえご本人は「ひとりで年商1.4億社長」というコピーなど我関せずな雰囲気の、自然体でアーティスト気質があふれ出ている素敵な方でした。

以下は、昨日の後藤麻美さんのお話からいただいた珠玉のことば、わたしにとってのベスト5。

  • 好きなものを追いかける(利益は後からついてくる)。
  • (周りがなんと言おうと)自分にとっての確信。
  • 個=スペシャリストの時代。
  • 成功と失敗は表裏。(成功したからこそ失敗談を語れるし、失敗を糧にしたからこそ成功している)
  • 自分の力を信じて進む。

うんうんと、頷きながらお話を聞きました。なかでも、実社会では個(スペシャリスト)=個性の強い人たちが成功する世の中になってきているのに、いまだに学校教育現場では画一的であることを求めており、そのギャップの大きさに違和感・危機感を感じるというお話は、ほんとうにその通りだと思いました。ご本人自身の経験と、お子さんたちの育児を通しての実感なのだと思います。

学校では飛び抜けること・はみ出すことを禁止するのに、学校を出た途端に「個性」だとか「独自性」だと言われても、それを伸ばすための芽は摘まれてしまっていたりします。たしかにわたしの周りで、成功している人(=自分の好きな仕事をして生き生きとしている人)たちは、誤解を恐れずに言えば「飛び抜けたりはみ出したりした、ちょっと変わった人」がほとんど。そんな方々の姿と重ねながら、後藤さんのお話を聞きました。

九州EC勉強会は、前回今回と二回続けて女性経営者のパワーを感じるお話でした。次回は秋に予定しているとのこと、とても楽しみです。

読書『くらべてわかる世界の美しい美術と建築』(エクスナレッジ)五十嵐太郎 編

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『くらべてわかる世界の美しい美術と建築』(エクスナレッジ)五十嵐太郎 編

今月初めに読んだ『世界の名建築歴史図鑑』(エクスナレッジ)五十嵐太郎編が面白かったので、図書館で同じ編者のものを遡って探したところ、ありました!タイトルを見てすぐに「この本欲しい」と思いましたが、美術系の大型本は価格がそこそこしますので、まずは中身をじっくり確認してからです。

『くらべてわかる世界の美しい美術と建築』

わたしにとって、このところずっと頭にあった「彫刻(美術)と建築」を思索するのに最適の教科書でした。この内容でこの価格は、むしろお得と言えるでしょう。

美術鑑賞のトレーニングをするときも「くらべる」の技を使うことが良くあります。ひとつの絵画をじっと見るだけでなく、もう一つ別の絵画と並べて、双方のどこがどう異なるかを探すことで見えてくるもの、わかることがたくさんあります。本書のつくりはまさにその手法そのもので、面白いのはそのくらべ方の目の付け所。上の写真は目次の一部で、項目を追うだけでも編者の視点が垣間見えると思います。

嬉しいのは、取り上げている作品がすべてカラー写真で掲載されていること。ビジュアル的に直感的に楽しむことが出来ます。また章末に挟まれているコラムでは「美術館探訪」として、世界の美術館を建築的視点と所蔵作品視点で解説してあります。あちこち行きたいところだらけ。今年あたり海外出張が再開できることを願いつつ、眺めています。

『くらべてわかる世界の美しい美術と建築』

映画『ベルファスト』を観てきました。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

映画『ベルファスト』を観てきました。

2022年の決意のひとつ「月に1本は映画を観る!」。1月『HOUSE OF GUCCI』2月『フレンチ・ディスパッチ』3月『ナイル殺人事件』に続く今月は、またまたケネス・ブラナー。観たいな、と思いつつ唯一の心配は、最寄りの映画館に『ベルファスト』が来てくれるか!?でしたが、来てくれました。ありがとうございます♪

今年から英語学習に使用しているENGLISH JOURNALの4月号に、「ベスファルト」についてのケネス・ブラナーのインタビュー記事がありました。上の写真はその該当ページ。1969年8月、ケネス・ブラナー9歳のときにスタートする半自伝的ストーリー。偶然にもわたしの生まれた年・月であり、インタビューを音声で=つまりケネス・ブラナーの声で聴きいているうちに、そのとき北アイルランドでどのようなことが起こっていたのかを知りたいと思いました。

コロナ禍、それに続くウクライナでの戦争と、今世の中で起こっていることとリンクして考えさせられる映画でした。映画はモノクロームで進みます。主題となっている宗教や政治といった社会問題、人間関係の「ダークサイド」の一方で、当時のファッションや音楽、そしてなにより人とのつながりの「古き良きもの」を堪能いたしました。

登場人物のなかで、主人公の祖父の果たしている役割がとてもよかったです。映画中で主人公の父親が息子に対して、祖父(つまり父親にとってはその父親)のことを「(お前のおじいちゃんは)とても深い人だ」という場面がありましたが、その「深い人」という表現がぴったり。

ENGLISH JOURNALのインタビュー記事の音声では、この映画が評価されたことに対してケネス・ブラナーが感極まっている様子が伝わってきます。それだけ、この9歳の夏からの出来事が、彼のなかで大きかったのだろうということを思いました。

読書『世界の名建築歴史図鑑』(エクスナレッジ)五十嵐太郎編

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『世界の名建築歴史図鑑』(エクスナレッジ)五十嵐太郎編

『世界の名建築歴史図鑑』(エクスナレッジ)五十嵐太郎編

『いちばん親切な西洋美術史』(新星出版社)で、彫刻の歴史をざっと学び直し、としてまとめ直していたのは、ほんのひと月前のことでした。いつものご近所カメリア図書館で見つけた本書『世界の名建築歴史図鑑』をパラパラと開いて、まず思ったのは、彫刻の歴史と建築の歴史は、とくに近代以前はリンクしていたということ。建築家であり彫刻家という人物はたくさんいたわけで、そのうえ画家であるという人も少なくなかったのですから、そもそも分けて考えるものでは無かったのだろうなぁ、なんてことをあらためて思いました。

本書『世界の名建築歴史図鑑』では、西洋だけでなく日本の建築の歴史の流れも追っていること、建築は「社会的な存在である」ことを意識したまとめ方になっていることが、専門家でない者(=わたし)にとって親切でわかりやすく感じました。キーワードで読み解けるようになっていて、それぞれのキーワードが興味をそそります。上の写真の目次で、そのキーワードの一端を垣間見ることが出来ると思います。

個人的には、これまでほとんど学ぶことのなかった日本の建築の流れを読むことが出来たのがまず第一の大きな収穫でした。また近代以降の建築についてのまとめ方に、特に「社会的な存在である」という視点を強く感じました。建築家のお友だちとおしゃべりをしていると、彼ら彼女らの仕事と花祭窯の仕事(=芸術家の仕事)との大きな違いとして、「まず最初に誰からかのオーダーがないと作ることが出来ない」点と、ほとんどの場合「(外観を)公の目にさらされるのが大前提」を挙げる人が多いです。この二つの特徴が「社会的な存在」となる根本にあると思いました。

そんなことを考えながら、面白く簡潔に学ぶことのできる教科書でした。カラー写真が豊富で、見ていて楽しい!というのもおススメポイントです♪それにしても、写真掲載されている建築物の7割方には見覚えがあり、これは福岡ACAD.で開催した勉強会「世界史を建築家の視点で見る」シリーズの賜物です。あらためて株式会社藤井設計室藤井昌宏氏からの学びの大きさにあらためて感謝。コロナで休会状態になってしまっていましたが、そろそろ福岡ACAD.も再開を考えたいところです。

『世界の名建築歴史図鑑』(エクスナレッジ)五十嵐太郎編