ホームボディ経済。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

ホームボディ経済。

福岡アジアビジネスセンター主催のウェビナー「 変化をチャンスに変える! ネクストノーマル時代のヒントになるビジネス戦略と実践(米国編)」に参加しました。

講師は、北米でマーケティングコンサルタントとして活躍するYKA Ltd. Co (EZGlobal123)代表の村井 清美 氏。約1時間の短いセミナーでしたが、コンパクトでわかりやすく、集中できました。ブログタイトルの「ホームボディ経済」は、ウェビナー中登場した多数のカタカナ単語のなかで、個人的にもっともインパクトがあったもの。上の写真は関係ありませんが、「家にいる時間が長い」の私的イメージ。

以下、備忘。


  • ホームボディ経済=家で過ごす時間が長い。
  • デジタル化が3-4年分一気に進んだ。
  • オムニチャネル化の成否が生き残りを左右。
  • 多様化多数化した顧客との接点を、いかにシームレスにつなげていくか。
  • サスティナビリティの重要性への傾倒。
  • 米国内BtoBでもオンライン商談があたりまえ=距離に関わらずチャンス。
  • 既存のプラットフォームに乗るのではなく、独自に直接進出するチャンス。
  • 長期計画を推進する重要性(コロナへの短期・単発的な対応ではなく)。
  • 「信頼している人から購入」の傾向がより強く、明確に。
  • ベストプラクティスの活用=顧客の信頼を最優先。タイムリーに決断する。

「 変化をチャンスに変える! ネクストノーマル時代のヒントになるビジネス戦略と実践(米国編)」YKA Ltd. Co (EZGlobal123)代表の村井 清美 氏 より


今や「会わずに商談」があたりまえというときに、補完する方法として「電話」の役割が見直されてくるかもというニュアンスを感じました。またセミナー後の質疑応答で、コロナ以前への回帰はあり得ないことを説明するのに、「新車は一度でも乗ったら中古車であり、新車には戻れないのと同じこと」とおっしゃったのが、面白かったです。

読書『我らが少女A』(毎日新聞出版)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『我らが少女A』(毎日新聞出版)高村薫 著

2017年8月から毎日新聞に連載された小説の単行本化。初出が2017年ですが、2011年以前、初期の高村薫作品の雰囲気を感じました。お馴染みの「合田刑事」が登場したから、単純にそう感じたのかもしれませんが(笑)。少し前に読んだ高村作品の『晴子情歌』『新リア王』とはまったく異なるものでした。

犯罪小説であり刑事ものですが、そこに描かれているのは「家族」の問題でした。そういえば家族の問題を描いているという意味では、『晴子情歌』『新リア王』に通じます。読んで思ったのは、「ふつうの幸せな家族」なんてものは、イメージほどには存在しないのだということ。どこかに何か問題を抱えているのがふつうであり、ただ、その問題の大小多少の違いは確かにあるということ。

かつて10代だったことのあるすべての人に心あたるであろう、自意識過剰で恥ずかしい不安定な時代は、時を経てキラキラした思い出になるのか、記憶から抹消されてしまうものになるのか。高村薫さんの、登場人物に対するやさしさを、これまでになく感じました。

それにしても『マークスの山』映画化以降、合田刑事=中井貴一の顔で脳内展開されてしまいます。当時、高村薫の小説(の細かさ、描写)を映画でどこまで再現できるのだろうかと興味はありましたが、自分のなかにできあがっていた世界観を崩したくなかったので、映画は観に行きませんでした。なのに、中井貴一で刷り込まれています(笑)。メディアの影響はすごいですね。

まだ読み残している高村薫作品も、徐々に埋めていきたいと思っています。楽しみです。

すごいご近所さん。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

すごいご近所さん。

大きな声を出せば届きそうなご近所さんから、お電話。「ゴーヤとかトマトとか、いらん?」「食べます!」「持っていこうとずっと思いながら、暑くて…とりに来る?」「はいっ!すぐ伺います!」。

サンダルつっかけてパタパタと10メートルほど。「用意する間、どうぞ!」と、お手製の甘酒を冷やしたものをいただき、エネルギーチャージ。おいしかったー!と言ったら、次はお手製のシソジュースが出てきました。これまた鮮やかな赤紫色が美しいシソジュース。さわやかな香りに、しばし暑さを忘れホッとしていると、「ところてん、好き?」。もちろん大好きです。

ところてんも、テングサからつくったそう。味噌、梅干し、ラッキョウ漬などはもちろん、とにかくいろいろなものを手づくりでおいしく作っているご近所さん。「自分で作るのが好きだし、けっこう適当に作ってるのよ」とおっしゃいますが、適当につくっても美味しく出来上がるというのは、やはりたくさん作っておられるから。

そのときは触発されて、わたしも作ってみようかなと思っても、ちょっと手間がかかりそうだと、なかなか実現しません。赤紫蘇がたくさん採れるから、8月の終わりごろにシソジュースを一緒に作ろうね、とお誘いいただきました。一緒になら、上手くできそうです。

すっかりお腹いっぱい、幸せな気分に。帰りには家庭菜園でたくさん採れたというゴーヤ(苦瓜)の緑と、ミニトマトの赤が、目の覚めるような色彩で用意されていました。そうそう、これをいただきに来たのだったと思い出し。

気さくなご近所さんのおかげで、美味しく楽しい夏の夕刻となりました。

復習『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

復習『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)齋正弘著

アートエデュケーション(美術教育)の原点確認に、本書を学びなおし。わたしが学芸員資格課程を修了したのが2013年の秋。その3年後、2016年の秋に参加した学芸員技術研修会で、自分にとって最も大切なテーマが「美術教育(アート教育)」であることに気づいたのでした。

わたしが持っている仙台文庫版は、たしか廃版になっていました。中古で手に入れるしかないのかな、あるいはどなたか復刊してくださるといいな、と思いつつ。

3年ぶりに読み返してみて、美術の役割を再認識しました。いわく「美術は、全ての人間が全部一人一人違うということを基礎に、人間全体の世界観を拡大してゆくということが存在の意義である」。少し言い換えると、「一人一人違う世界の見方」が肯定されていることが、わたしたちが生きている近代市民社会であり、美術はその基礎にある「ものの見方」を訓練するものである、ということです。

そういう意味において、美術と文学はとても似ていると思います。ビジュアルによるアプローチか、文字によるアプローチか、の違いはあれど。図書館を利用するように美術館を利用し、本を買うようにアートを買い、読書をするように美術鑑賞する。そんな生活スタイルが、日本でももっとあたりまえになるといいな、と思います。

読書『にんじん』(新潮文庫)

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読書『にんじん』(新潮文庫)ジュール・ルナール著

著者自身の少年時代のエピソードを題材にしたという『にんじん』。一話、二話、三話と読み進めながらどんどん苦しくなり、読むのをいったん止め、先に訳者によるあとがきを読んでみました。

「母親による精神的虐待の物語」と、訳者・高野優氏が「あとがき」ではっきりと書いてくれていました。そして、その虐待の物語がどうして「文学」足りえるのか、心理学的な見地も含めて腑に落ちる解釈があり、最後に「この本を読んだ方が訳者と一緒に、にんじんのために涙を流してくだされば嬉しく思う。」と。この「あとがき」を先に読むことによって、あらためて本書を開くことができました。

「負けるな、にんじん!」と思いながら読みました。にんじんが小さな(とても小さな)勝利を手にすると一緒に喜びました。目をつむってしまわずにいられたのは、にんじんに虐待を生き抜く力(抵抗する力、逃げる力)が備わっていたからで、そのことも訳者あとがきで説明されています。それでも、幼少期に心に負った深い傷は、大人になってもずっと残るのですが。

この物語が、虐待のメカニズムと、そこから子どもを救い出すためのいくつかの示唆を読む人に伝えてくれたら。そしてなにより、読んだ人が虐待を受けた子どものために泣いてくれたら。そんな訳者の気持ちも一緒に伝わってくる『にんじん』でした。

わたしが読んだ新潮文庫版は2014年の高野優氏の翻訳版。比較的新しいので、「母親による精神的虐待」の解釈も昨今の時世にあったものになっていると思います。その前にもいくつも訳されているようなので、どう違うか読んでみたいと思いました。

読書『ブッダに学ぶほんとうの禅語』アルボムッレ・スマナサーラ著

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『ブッダに学ぶほんとうの禅語』アルボムッレ・スマナサーラ著

お盆休み中の読書。入門している茶道南方流が、禅寺である円覚寺で受け継がれてきているところから、禅の言葉に触れる機会が増えました。お寺やお茶室で掛け軸になっているのを目にしたり、和尚さんがさらっと口になさったり、初釜茶会でいただく色紙に書いてあったり。気づけば身の周りに禅語がありました。

あまり意味を深く考えることなく、自然に接していた禅語ですが、少し考える機会があって手に入れたのが本書です。著者のアルボムッレ・スマナサーラ氏はスリランカ上座仏教長老ということで、禅宗の人ではありません。その方が、あえて初期仏教を受け継ぐ立場から、よりブッダの教えに寄り添い「禅に関する言葉」を解釈をするという、試み。

歯に衣着せぬ物言いで、一般に広まっている禅語に対する解釈を補足したり修正していく様子は、とても面白いです。禅の言葉に限らず、日頃いかにわたしたちが、言葉を自分に理解しやすいように、あるいは自分に都合よく、解釈しようとしているかを突き付けられたような気がしました。

禅の言葉はいろいろな解釈を呼ぶものがあるけれども、そのずっと根本にあるブッダの教えは明確で、多様に解釈されるようなものではないというお話が、心に響きました。また、禅と初期仏教では立場や手法が異なっているけれども、そもそものブッダの教えはひとつであり、その目指すところは同じというお話には、安心を覚えました。

ところで禅語に関する書籍は、禅の修業とは関係なく「ふつうの人」が日々の生活に生かせるように解釈したものが、たくさん出ていますね。今回少し調べてみて、類書がたくさんあったこと、つまり「禅のことば」や「禅的なもの」に関心のある人がたくさんあるのだなぁ、と再認識しました。

夕方散歩。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

夕方散歩。

日中は暑いし、日が長いので、夏は夕食後に散歩。

右を見れば、防波堤に釣り人が豆粒のように並んでいます。

左を見れば、津屋崎浜~宮司浜~福間海岸と見渡せます。

ずっと、ぼーっと、眺めていられる景色が、すぐそばにある贅沢。

図書館のある日常。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

図書館のある日常。

6月に図書館が再開されてから、少しづつ館内の規制も緩和されつつあります。マスク着用や、座席数の制限、学習室利用前の検温など、気配りの必要はありますが、それでも図書館のある日常が戻ってきた喜びを感じます。

夏休みに入り、勉強している学生の姿や、親子連れで本やDVDを借りる姿が増えてきています。そんななか、忙しそうに本の貸出業務をなさっている図書館司書さんはじめ職員さんの姿も、心なしか生き生きと見えて、こちらまで嬉しくなっています。

図書館内でのイベントに制限が多いなか、展示等で工夫を凝らしておられるのがわかります。いつも通りのイベントができないときは、今ならではのアプローチ。これは図書館だけのことではありませんが、身近な図書館でその心遣いを感じるのが、ありがたいです。

猛暑のなか、エアコンの利いた静かな図書館で過ごす時間は、ひそかな贅沢。いつもは貸出書の返却期限に合わせて2週間に1回の図書館通いが、週1ペースに増えている今日この頃です。

読書『運命のコイン 上・下』(新潮文庫)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『運命のコイン 上・下』(新潮文庫)ジェフリー・アーチャー

小説から歴史を眺める。今回の舞台はソビエト(ロシア)、イギリス、アメリカの近・現代史でした。1968年から1999年の約30年間の出来事として設定されていて、わたし自身が生まれた(1969年)まさにリアルタイムでの世界情勢を垣間見ることができました。

政治・経済、そしてちょっぴり美術の世界を通じて眺める近現代史。タイトルの「運命のコイン」は、主人公がソビエトを脱出して乗る船の行き先を、アメリカにするかイギリスにするかの二択をコインの裏表で決めようというところからついたもの。

イギリス行きの船に乗った場合と、アメリカ行きの船に乗った場合の、両方のストーリーがあり、面白い手法だなぁと思いました。それぞれのストーリーで、主人公がしばしば「もう一方の船に乗っていたらどうなっていただろうか、この選択は間違っていたのではないだろうか」という思いにとらわれるのに対し、読む側はその結果を知っているのですから、なんとも不思議な立ち位置に立たされている感じがしました。

それにしても、その結末をどう理解したらよいか、考えさせられました。アメリカ行きとイギリス行き、最初はかなり異なった道になるように見えたのが、同じようなお終いを迎えることになった二つのストーリーに、苦いものが残りました。

その人の行き先(将来)を決めるのは、結局は環境ではなくその人自身だということでしょうか。持って生まれた宿命があるのか。あるいは母国への抗えない帰巣本能とでもいうべきものがあるのか。それとも、ある種の「欲」ゆえの結果なのか。いずれにしても、タイトルで「運命のコイン」といいながら、コインの表裏は主人公の運命を最終的に決めるものではなかったということになります。

ジェフリー・アーチャーその人自身にも興味が湧いてきました。作品を読み広げていきたいと思います。

私的「無形文化財」。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

私的「無形文化財」。

毎年8月15日に漁港の広場でお盆の法要があり、盆踊りがあるのですが、今年は法要はあるものの、盆踊りは中止になりました。仕方がないですね。

盆踊りの練習と、盆踊りは、日ごろあまり会うことのない地域の方々とも顔を合わせることのできる機会なので、そういう意味でも毎年楽しみにしています。同じ津屋崎エリアに住んでいても、盆踊りの時にしか顔を合わせない人もあり、貴重な場。

笛や三味線や和太鼓にお歌の生演奏で踊れる盆踊りなんて、今どきそうそうありません。わたしのなかでは「無形文化財登録」したいほどのものです。

一年のうちで、盆踊りの踊りができるのは、練習日と当日の二日間だけ(今のところ)。一市民にとっては、盆踊りを継承する貴重な機会が、今年は無いことになります。津屋崎の盆踊りの踊りは二種類あるのですが、どちらも複雑で、覚えるのに一苦労。いまだ覚えていないわたしは、一年のブランクがあると、さらに忘れてしまいそうです。

来年はまた例年通り復活して欲しいなと、心から思います。