花祭窯の6月の庭。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

花祭窯の6月の庭。

ずっと晴れのお天気が続いていた北部九州も、そろそろ梅雨入りです。ラジオ体操をしつつ眺める小さな庭には、緑と白がたくさん。先日読み直した色彩学の本によると、緑も白も、生命そのものの色だとか。6月は生命力があふれてくる季節なのですね。

ぽやぽやと可愛らしい。つぼみもたくさん。
うしろにピンクも隠れていました。
花桃の実です。桃になったら嬉しいですが。
あっちにもこっちにもドクダミ。
ナンテンもたくさんつぼみ。
斑入りの草は、花がなくてもアクセントに。
こちらも斑入り。

外に出ると、色とりどりの紫陽花の花が目に入りますが、花祭窯の今は、見事に緑と白。思わず深呼吸したくなる空間になっています^^

24年目スタート!

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

24年目スタート!

先日、朝食中に思い出して「創業日だわ、24年目スタート」と宣言。6月は花祭窯の創業月です。あらゆる記念日を忘れるのに、創業日は忘れません。今月が創業月ということは、先月は結婚記念日があったはず。創業24年目(23周年)ということは、結婚24周年ということね…と、花祭窯の創業から逆算して結婚記念年・月を思い出しています(笑)

図らずもつい先日、久しぶりに創業地である佐賀・花祭に行くことができたのでした。メインの目的は「梅摘み」でしたが、あの場所に足を運ぶと、自然と自分たちの原点を見つめ直すことになります。いろいろなことが無意識に思い出されて、「ああ、そうだった」と、現在未来への示唆につながります。そんな場所があるのは恵まれていますね。感謝。

さて、ダンナと「よく続けてるよね」と笑いつつ、花祭窯の24年目も淡々とスタート。ここ数カ月「今年は展覧会が難しいんじゃないですか?」と、心配して声をかけてくださる方が何人もありました。気にかけてくださる方のあるありがたさが沁みます。実際、東京や海外での個展や企画展は見通しが立ちにくい状況が続いていますが、わたしたちとしては、どんな変化にも柔軟に対応できるよう準備を重ねるばかりです。

創業以来「絶対に変わらないもの」と「そうでないもの」が、年々はっきりしてくるのを感じます。ずっと変化し続けてきた23年間であり、24年目以降もずっとそうでしょう。「終点」や「絶対の正解」がないからこそ面白くて飽きない=商い…と、昨年と同じ結論にたどりつき。

ロンドンのギャラリーから「こっちももうすぐ通常営業に戻れそう!」とメールも届きました。なんだかとっても嬉しい朝です。

皆さま、今後ともどうぞよろしくお願いいたします!

紫陽花をたくさんいただいたので。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

紫陽花をたくさんいただいたので。

工房のなかが華やかです。一か所にたくさん生けるのも豪勢ですが、そんなに大きな花器が無いので、少しづつあっちにもこっちにも生けてみました。家のなか、どこに行っても花があるというのは、とっても贅沢ですね。

ご近所さんが丹精込めて育てておられる紫陽花。紫陽花に限らず、いつも季節の花が美しく咲いていて、お宅の前を通るたびに幸せな気持ちになります。ありがとうございます。

梅仕事2020♪

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

梅仕事2020♪

今年は梅摘みに行くのが難しいかな…とあきらめかけていましたが、緊急事態宣言が解除。5月29日に福岡県から発表された6月1日以降の行動指針で、県をまたぐ移動が可能になり、今年も無事に梅を収穫してくることができました。

梅雨入り前の快晴。年明けからずっと気になっていた佐賀・花祭へ、ようやく出かけることができました。青空の下、道路に出ている枝を切ったり、草刈りをしたり、梅を摘んだり。木も草もどんどん伸びていて、近いうちにまた足を運ばないと、手入れがまったく行き届きません。

梅は今年は数はたくさんついていませんでしたが、その代わりといいましょうか、ひとつひとつの梅はいつもより少し大きめに育っていました。収穫前に風雨の強い日がそれほど無かったので、皆つやつやときれいです。

どんどん上に伸びていく我が家の梅の木。「桜切るバカ、梅切らぬバカ」の言葉が頭に浮かび、そろそろプロにお願いして切って整えてあげた方が良いのかも、などと考えつつ。

ともあれ、あきらめかけていた梅仕事。もちろん市場には梅は出ているのですが、「自分のところの梅を採ってきて漬ける」喜びです。毎年あたりまえに行ってきたことができるありがたさを、ここでも感じました。

読書『<英国紳士>の生態学』(講談社学術文庫)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『<英国紳士>の生態学』(講談社学術文庫)

著者の新井潤美さんは英文学・比較文学を専門とする東大大学院教授。本書は2001年に中公新書の一冊として刊行されたものが、約20年ぶりに復刊したものでした。文庫として復刊されたおかげで、原著が刊行されたときには目に留まらなかった本にも出会うことができる。ありがたいですね。

さて英国の「階級社会」を論じた本は古今いろいろと出ていますが、この本の面白さは、そのなかでも「ロウアー・ミドル・クラス」に的を絞ることで階級の全体が見えてくるところ。階級社会を生きる英国市民の生態が、愛情と可笑しみをもって描かれています。

ロウアー・ミドル・クラス。文字そのままを読むと、中流階級をさらに下級・中級・上級に分けた、その下級、というところでしょうか。英国のようなあからさまな階級意識ではなくても、あらゆる場面でロウアー・ミドル・クラス的な悲喜こもごもがあるのは、日本の社会も同じですね。思い当たること多々で、読んでいて決して他人ごとではないのでした。「身につまされる」という感じ。

この『<英国紳士>の生態学』を読むことによって、本や映画に登場する英国の背景が、もっと色鮮やかになります。シャーロック・ホームズ、ハリー・ポッター、オスカー・ワイルド、メアリー・ポピンズ、ウィニー・ザ・プー、ミスター・ビーン、『日の名残り』(カズオ・イシグロ)、『ハワーズ・エンド』(フォースター)…再度、読み返す(観返す)のが楽しみになってきました。

Something Special

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

Something Special

「Something ○○」なる言い方を最初に意識したのは、遺伝子研究で世界的にその名を知られる村上和雄氏の著書『アホは神の望み』(サンマーク出版)を読んだときのことでした。このなかで「人知を超える何か大きなものの存在」を「サムシング・グレート」と呼んでおり、「サムシング」の単語に込められる意味に思いをはせたのでした。

2008年初版の『アホは神の望み』を初めて読んだのは10年以上前のこと。以来、数年おきにふと思い立って読み返しています。何度読んでも愉快で、読み終わるたびに「頑張ろう!」と笑顔になるから不思議です。

さておき、something。それ自体「ちょっとした」「ひとかどの」というような意味で使われることもありますね。ちょっとした器をご紹介したいときに、どんな言葉を使ったらいいかしら、と考えていたところ、「サムシング・スペシャル」という言葉が頭に浮かびました。

自分にとって特別なもの、好きなものが生活空間のなかにあることの大切さを、あらためて感じたこの数か月。自分たちの仕事で出来ることを、いろいろと考えていきたいと思います。

あらためて、キャッチコピー。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

あらためて、キャッチコピー。

考え中。

藤吉憲典のキャチコピーとして、英語版で使っているのが「Connect Japanese Craftsmanship to Contemporary Artwork」。日本語にすると「伝統の継承を、生きた個性で形にする」。意訳ですが。いずれにしても肥前磁器作家としてのミッション(使命)にあたる内容です。

これはこれでもちろん大切にしつつ、今取り組んでいるのは「あなたにとって」の磁器作家・藤吉憲典(の作品)をわかりやすく伝えるキャッチコピーを生み出す作業です。というのも、この2-3か月「Stay at Home」が世界中で広がるなかで、思いがけず、お客さまやコレクターの方々にとって大切な本質を伝える言葉をたくさん見、聞き、書いてきたことに気づいたのでした。

それはシンプルに言えば「自分の過ごす空間を快適に」ということ。料理研究家の宮成なみさんの言葉を読んだり、インポートインテリア・ドーノ桐子さんのスタンスを拝見したり、ロックアウトの続いたロンドンで自宅から情報発信を続けるSladmore ContemporaryオーナーGerryとメールをやりとりしたり…。そんななかで、藤吉憲典作品の(それを所有する人にとっての)存在理由(価値)が、おのずと言語化されてきました。

美しいもの、楽しいもの、技術と情熱をかけてつくりあげたものが、それを見る人・使う人の生きる力をサポートすること。それが実用的なものであっても、無くても。毎日食卓に並ぶ器にも、日常空間を飾るアートにも、そんな力があること。

創業から20年以上、ずっと思ってきたことでありながら、ようやく言葉として並べることができそうです。材料はそろいましたから、あとは、キャチコピーとしていかに簡潔に過不足なく文字に載せるか。腕の見せ所ですね。頑張らねば!

図書館再開!

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

図書館再開!

6月1日から地元のカメリアステージ図書館が再開しました。図書館に行くのに嬉し涙が出そうになるなんて、そんな日が来るとは思いもしませんでした。こんなことでは、コンサートや演劇を観に行くことができたときには、間違いなく泣きますね、わたし(笑)

再開に先立ち、市の図書館のホームページから、キーワード蔵書検索で借りたい本の名前をピックアップ。開館したとはいえ「長時間滞在はしないでくださいね」というスタンスですから、サッと行ってサッと帰れるよう、事前準備です。

借りたい本が具体的にわかっていない時こそ、図書館内をぶらぶらして長居したいのですが、もう少し我慢です。あらかじめ蔵書のキーワード検索をかけておくことは、さしづめ「図書館内をぶらぶらする」の代理行為。

閉まっていた間に図書の整理がされて、新刊も増えていました。またたくさん本を借りることができます。嬉しいなぁ。

野菜を育てる。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

野菜を育てる。

自粛生活のあいだに、新たに野菜や草花を育てるようになった!という友人が少なくありません。かくいうわたしも、ほんの少しですがプランタ栽培を始めました。上の写真は、芽が出てきた空心菜。

スプラウトを育てるキットでいろんな「芽」を育てている人、畑を借りて家族で家庭菜園を始めた人、ベランダ菜園でハーブをたくさん植えた人、観葉植物をいろいろと育て始めた人…。花を買ってきて、お部屋に飾るようになったという人も多いです。

先日読んだ『色の秘密』(文春文庫PLUS)によれば「緑色は名医」とのこと。また学芸員研修で学んだ園芸療法の先生は「1日5分緑に触れる時間があるだけで、ストレスの緩和に大きな効果がある」とおっしゃっていました。人は「緑の力」を無意識に知っていて、知識として学ばなくても、自然とそのような行動をとるのですね。

6月に入りましたね。北部九州はもうそろそろ梅雨入りの時期。これから夏過ぎまで、野菜だけでなく庭の草もどんどん生い茂ってきます。でも実は、草むしりもまた「緑に触れる時間」なので、ストレス緩和に効果があるのだそうです。「たいへんだなぁ」ではなく「園芸療法的効果のある時間」ととらえたら、草むしりも愉快な時間になることでしょう。

続・Talking about Art

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

続・Talking about Art

『英語でアート』の宮本由紀先生による「Talking about Art in English」対話型鑑賞のオンラインセッションに参加してまいりました、の第2弾。第1弾の感想はこちらでご紹介しています。

対話型美術鑑賞法。受講する側で参加することによって、学びなおしの機会となりました。

一つめは、英語でも日本語でも、対話型鑑賞法の効果は同様に得られるということ。わたしは英語がつたないので、そこを一番懸念していました。すなわち、「英語で伝える」ことに必死になってしまって、対話型鑑賞法を楽しんだり、対話型鑑賞法による気づきを深める余裕がないかもしれない!と。

杞憂でした。もちろん「思っていることを上手に伝えられない!」ジレンマはありますが、自分のなかに湧いてくる「鑑賞を通しての変化」は、日本語でやっても英語でやっても変わりないことがわかりました。

二つめには、対話型の美術鑑賞は、一人で取り組むのもいいけれど、複数人のクラスも楽しいという再認識。自分の内側をとことん掘り下げていきたい場合、一人でのワークショップ(トレーナーとのマンツーマン)が適していると言えそうですが、他者との視点の対比で自分を見つめなおすという意味では、複数人でのセッションが面白いし、単純に楽しいと実感しました。

そして三つめには、対話型美術鑑賞法で「見る」と、見たものが記憶に定着することをあらためて実感しました。そもそも「見る」とはどういうことか?という問いが、美術鑑賞教育の根底にあります。

2回のTalking about Artを通して、4枚の絵画を鑑賞しました。わたしはいずれの絵画も「初めて見る絵」だと思ってクラスに臨み、そのつもりでトーク。ところが、クラス終了後にもう何度も読み返している『西洋美術史』の本をぱらぱらとめくっていたら、課題4枚のうち2枚の絵が、時代や流派を解説する代表的題材のひとつとして取り上げられていたのです。

つまり、本を通してではあるものの、その絵を何回かは目にしていたのに、まったく記憶に残っていなかったということです。ただ、ここまではよくあること(笑)。驚いたのは、まったく意識していなかったのに自然とその絵が目に入ってきたことです。対話型鑑賞法を通して、自分にとって「よく知っている絵」になったとたん「見える」ようになったことを、体感しました。

「見る」とはどういうことか。美術鑑賞教育の面白さを、体感・実感を通して再確認したオンラインセッションでした。