こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。
『Homes & Antiques』8月号への藤吉憲典のインタビュー記事原稿。その2。
特集テーマは「HEIRLOOMS OF THE FUTURE」。日本語にすると、「未来の遺産」あるいは「未来の家宝」です。日本国内でこの記事をご覧いただける機会はまずないと思われることと、元のインタビューのボリュームがかなりたくさんであったこと、そしてなにより、インタビューで尋ねていただいた内容が、作家のキャリアを理解するうえでとても有用なものでしたので、掲載記事の元となった日本語原稿を何回かに分けてご紹介していきたいと思います。
Q1. 佐賀県有田町で育ちましたか。有田が日本の磁器の歴史の中で特別な場所であることは、子どもの頃に知っていましたか。有田で育つというのは、どういうことなのでしょう、またどんな場所でしたか。磁器産業の町ならではの特徴はあったのでしょうか。(Homes & Antiques)
A1. 有田の隣町で育ちました。幼少期から絵ばかり描いている子どもでした。画家になりたくて、当時佐賀で唯一デザイン科のあった佐賀県立有田工業高等学校のデザイン科に進学し、それが有田との接点のスタートです。わたしはデザイン科でしたが、高校には窯業科があり、同級生には窯元の子や、両親が窯元で職人として働いている子がいました。毎年5月には有田で陶器市があり、学校がそこでのアルバイトを奨励していました。そのように、日常にあたりまえに窯業があるのが有田でした。
当時の意識としては、歴史ある伝統工芸というよりも、そこに住む市民の生活の糧としての磁器産業だったと思います。実のところ、高校時代のわたし自身は、朝から晩までアトリエで絵を描く学校生活をしていて、まったく窯業には興味はありませんでした。(藤吉憲典)
Q2. 1988年に肥前磁器を「発見」したとレジュメに書かれています。どのような経緯で肥前磁器と出会ったのでしょうか。またどんなところに魅力を感じたのでしょうか。(Homes & Antiques)
A2. 高校卒業後、グラフィックデザイナーとして東京で就職をしました。数年後、父親が大病をしたため、佐賀に帰りました。どうしてもデザインの仕事をしたかったのですが、当時佐賀ではそのような仕事はほとんどありませんでした。あきらめかけていたところに、高校時代の恩師から「やきものもデザインだぞ」と言われ、初めて肥前磁器を正面から見ることになりました。そうして有田の窯元に製品開発デザイナーとして就職したとき、これまで平面(グラフィック)で培ってきたデザインが、そのままではまったく通用しないことを思い知らされ、それがわたしにとっての、肥前磁器の発見でした。
また当時の開発室の上司が、肥前磁器のマニアであり、窯元のデザイナーとして彼と対等に話をするためには、肥前磁器の歴史やモノを深く学び理解することが必要でした。彼に追いつきたくて、美術館や骨董屋に幾度となく足を運び、関連する本や資料をたくさん読みあさりました。同じデザインでも、それまでのグラフィックデザイナーとしてのセンスや技術ではまったく追いつかない奥深さに、難しさと同時に大きな魅力を感じました。(藤吉憲典)
Q3. その発見は、あなたにどのような影響を与えましたか。(Homes & Antiques)
A3. グラフィックデザイナーとして少しづつ自信をつけ始めていたところから、「やきもの」ではゼロからのスタートと覚悟を決めての学び直しとなりました。すべてが新鮮でした。意匠と造形を組み合わせて完成品を導いていく。この複雑な作業の修得に、新しい世界を見つけた気がしました。(藤吉憲典)
「その3」へと続きます。