こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。
読書『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で著書が書いていた「ノイズ」について考えた。
「ノイズ=noise」は既に日本語としてそのままでも使われていますが、あらためて辞書を開いてみました(「リーダーズ英和辞典」研究社1997年)。上の写真がその該当部分ですが「やかましい音、人の注意を喚起するもの、たわごと、議論、雑音、騒ぎ」などなどの言葉が並んでいます。1997年刷版とかなり古いので、今の辞書にはもう少し違った言葉が並んでいるかもしれませんね。ちなみにネット検索で出てきたWeblio辞書では「耳障りな音」「特に電気的雑音」「電気信号の乱れ」などの言葉が並んでいました。
さて、ノイズ。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んで得たわたしの解釈は、「今の自分に直接関係があるとは思えないもの」がノイズであり、気持ちに余裕が無いときは、ノイズを受け入れることが難しくなる、ということでした。端的に正解や成果だけを求めるようになると、それ以外のものが受け入れ難い雑音に感じられてしまいます。遠回りすることや、行間を読むことを、時間の無駄と感じてイライラしてしまうのも、同様の心の状態ですね。自分自身の若いころ、忙しくサラリーマンをしていたころは、まさにこの状態にあったと、わかります。
ではなぜ今、仕事をしていてもノイズを受け入れることができ、むしろ自ら求めるようになっているのか。仕事・家族・地域などに対する責任は、独身でサラリーマンだった時代に比べると、格段に今のほうが大きく切実に感じられるにもかかわらず、です。それはひとえに、一見自分に直接関係があるとは思わなかったものが、ものすごく肥やしになっていたり、実は深く関係していたりすることを、体験的に理解するようになったからでしょう。わかりやすく頭で理解できる出来事もあれば、無意識に受け入れている感じもあります。年齢を重ねるにしたがって、そういうことが増えてきているように思います。
そしてもう一つ、わたし自身についていえば、ノイズを受け入れる行動は、「現実的・直接的に今の自分に関係あること」からの、一時的な逃避行動にもなっています。これは、時間的に忙しくなるほどに、実用書やノウハウ本から離れて小説を読む割合が増えているのを考えれば、一目瞭然。我ながら、面白いな、と思います。逆説的なようですが、その逃避行動が、いずれその後の自分につながるのですから、こんなに都合の良いことはありません。
最近読んだ小説のなかに、「何を読むかが大事なのではなく、何かを読むこと自体が大事」というようなセリフが出てきました。まず、何かに対して心を開くというか、受け入れる姿勢をとることであって、「何か」はそのあとに来る、というようなことでしょう。ノイズのことを考えていたときにこのセリフに出会い、なんともグッドタイミングでした。ともあれこれからも、たくさんのノイズを楽しんでいきたいと思います^^