こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。
読書『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(新潮社)坂本龍一著。
本書が発売されていることは、もちろん知っていましたが、なんとなくこれまで避けておりました。が、いつものカメリア図書館新刊棚で、目の前にあったので、これはもう借りるしかないと手を伸ばしました。熱狂的ファンとは言えないけれど、YMOからスタートして小学生の頃から好きだった坂本龍一。音楽、ファッション、思想…無意識に受けた影響は少なからずでした。幸宏さんが亡くなり、後を追うように教授が亡くなり、漠とした喪失感がありました。
さて『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』。その前に、半生を振り返った『音楽は自由にする』が出ていて、それは読んでいませんので片手落ちかもしれませんが、早すぎる晩年を迎えた教授が、何をしてどんなことを考えていたのかが、赤裸々に伝わってくる本でした。読んでいてしんどくなるページも多々で、読み終えたときにはホッとしました。
何かのインタビューで、教授が「僕は本気で世界の戦争を止めることが出来るかもしれないと思っていた」と言うのを読んだことがあり、「思っていた」というのは「けれども、それは無理だった」とつながるのであり、「諦観」の文字が浮かんだことがありました。世界各地で「知っている日本人の名前を挙げ挙げて」と質問したら、上位で名前の挙がってくる「坂本龍一」でもそのように絶望するのなら、我々にできることなど…という感じです。
そういえば東京青山のワタリウム美術館で開催された「鈴木大拙展 Life=Zen=Art」を観たのは、昨年夏のことでした。上の写真はその展覧会の時のチラシ。
↑この報告ブログ↑には書いていませんでしたが、この「禅」の展覧会で、坂本龍一のインスタレーション展示をした部屋があったのでした。前情報を持たずに出かけていたので、思いがけず「坂本龍一」の名前を発見し、喜び勇んで展示室へ。ところがそのときは、そのインスタレーションが何を伝えようとしているのか、展示を観てもキャプションを読んでもさっぱり推し量ることが出来ず、残念な気持ちをもって会場を後にしたのでした。
本書を読み終わった今は、「鈴木大拙展 Life=Zen=Art」に展示されていた坂本龍一のインスタレーションが、何を言おうとしていたのか、自分なりに解釈を持つことが出来ます。現代アートが言葉を必要とする表現であることを、あらためて感じました。そしてまた、観たときにはさっぱり「???」な状態でも、自分のなかに引っかかりが残っていれば、今回のようにあらためて解釈を持つことが出来るのだということも。
個人的には、本書のなかでまったくあっこちゃん(矢野顕子)のことが出てこなかったのことに、違和感がありました。もしかしたら前作『音楽は自由にする』には書かれていたのかもしれませんね。読んでみないといけません。