読書『豆』(家の光協会)有元葉子著

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『豆』(家の光協会)有元葉子著

図書館で本を借りるとき、一度にだいたい5~6冊借りるのですが、たまにそのなかに料理本が1冊入ります。今回目に留まったのが『豆』。ちょうど前日に、畑をしている友人からきれいな大豆を頂いていたので、アンテナが向いていたのでしょうね。

なんとなく表紙に既視感…と思ったら、以前に、同じ「家の光協会」から出ている有元葉子さんの『乾物』を借りていたのでした。表紙タイトルの右側に「有元葉子の和の食材」と書いてあるシリーズもの。本書では、サブタイトル的に「大豆、黒豆、白いんげん豆、白花豆、うずら豆、とら豆、青えんどう豆、そら豆、小豆、ささげ」と文字が並んでいます。

我が家でふだん料理で使う豆類の筆頭は、やはり大豆。それから黒豆、ひよこ豆、という感じです。そういえば小豆は餡子になっているものを購入するようになり、家で茹でることがすっかりなくなりました。缶詰や真空パックになった「茹でた豆」が気軽に手に入る時代、最近の個人的ヒットは「大豆・金時豆・青大豆・黒大豆」の4色を茹でて冷凍したもの。冷凍庫に常備して、手軽に豆を料理に使っています。

本書では、豆を使った料理レシピがたくさん紹介されていますが、一番最初に大豆の下ごしらえの方法が載っているのが嬉しいです。このところ「適当に水に浸けて、適当に茹でる」ことが増えていましたので、久しぶりに下茹での方法を確認することができました。「大豆はしっかり茹でないと!」と思い込んでいましたが、じゅうぶんに水に浸けておけば、茹で時間は1時間ほどでも大丈夫のようです。

素晴らしいと思ったのは、レシピだけでなく、豆についての、文字通り豆知識がちりばめてあることと、食材としての豆に対する想いが、著者の言葉で綴られていることです。大豆のページでは、「日本の代表的な豆が大豆です」とし、「もしも大豆がなかったら、おいしい和食は食べられないでしょう。」「大豆のえらさに気づいて、外国産に頼らず安心な国産大豆がもっとできることを願っています。」(『豆』(家の光協会)より)と続きます。我が家は1年に30キロ近くの味噌を作って食べる大豆立国ならぬ大豆立家なので、有元さんの言葉はとても響きました。

『豆』(家の光協会)有元葉子著

JETROの「中小企業海外ビジネス人材育成塾」基礎研修最終日でした。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

JETROの「中小企業海外ビジネス人材育成塾」基礎研修最終日でした。

昨年11月にスタートした研修も、必修の基礎研修がすべて終わりました。残すは3月に任意のフォローアップ研修があるばかり。

思えば、提出期限の短い宿題はたくさん出るわ、並行して「英文ビジネスe-メール編」と「輸出商談編」の2コースの「貿易実務オンライン講座」を受講するわ、Zoomでミラノとつないだ専門家相談の機会があるわと、基礎研修を受講している時間以外のフォローも充実で、久しぶりに「ガッツリ学んだ!」実感の濃い研修期間でした。

最終日の昨日は、約半年をかけてブラッシュアップしてきた海外向け事業計画の発表と、今後の成果に向けての決意表明。発表準備は約1時間という短時間で、自分の資料を作るのにはやや焦りました。発表時間は質疑応答含め8分で、コンパクトにまとめるスキルも求められ。ですが、ともに学んできた皆さんの発表を聴くのは、とても楽しく刺激的な時間になりました。

皆さんの発表を聴いて面白かったのは、最終段階に近い2月の「専門家面談」を経て、大きく舵を切り直した事業者さんが何社もあったこと。このタイミングからすべてをまた練り直すことになった方もあり、それでも発表内容を伺えばなるほど変更が胎落ちするものばかりで、これぞ机上で終わらない実践的な事業計画策定だと感じました。

Zoomの画面越しとはいえ、この仲間とともに学べたことは、わたしにとって貴重なことでした。研修期間が終了したあとも連絡を取り合い、お互いにブラッシュアップしていける存在になれたらいいな、と切に思いました。このような機会を作ってくださったJETROさんに心より感謝申し上げます。ありがとうございました!

読書『ええじゃないか』(中央公論新社)谷津矢車 著

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読書『ええじゃないか』(中央公論新社)谷津矢車

いつものカメリアステージ図書館新刊棚、なんとなく手に取った一冊です。先日読んだ『ヘルンとセツ』が大政奉還後の明治維新の話なら、本書はその大政奉還前夜の幕末の混乱期のお話。意図せずして、その時代の市井の空気を垣間見る二冊を、立て続けに読むことになりました。上の写真は、読了後のイメージ。

幕末から明治維新の時代について、歴史に名前の残る方々の物語はたくさんありますが、わたしが読んだこの2冊は、登場人物が地べたに生きる人々であった(たとえそれが武家・旧武家の人物であっても)という点で、これまで認識していたものと大きく異なって見えました。

「ええじゃないか」の騒動については日本史の授業でも習いましたが、それを引き起こした時代の空気がどういうものであったのか、本書を読んで初めて分かったような気がしました。著者がnoteで「歴史の波に洗われて忘却されてしまった人々がその担い手」と書いておられましたが、まさにそのことが、近代史における「ええじゃないか」の特異性を物語っているのだと思いました。フィクションですから、諸説あるうちのひとつを根拠とした物語であるというのはもちろんですが。

政治に対して市民が「声を上げる」「行動を起こす」ことは、民主化された現代においては権利として法律上認められているとされているものの、実際にそれを通そうとするにはたいへんな労力がかかるものであり、結局は声を上げない人が多数だと思います。「ええじゃないか」はそうした権利が認められない時代にあって、何かを具体的に求めるというよりは、「もう今の政治にはうんざりだ」という気分が形になったものに思えました。

そのような「気分」に対しては、身分や立場を超えて共感できるものがあり、だからこそあらゆる人を巻き込んでいったのだろうし、先導する者が居ない不気味さがあったのだろうと思います。変化のスピードが速すぎて、いろいろなことが起こり過ぎて、自分の力ではどうにもできないことが多く無力感を感じる今の時代も、もしかしたらそんな気分が生まれ、カタチになる素地が十分に出来上がっているのではないかと思いました。現代の「ええじゃないか」は、どのような形で生まれるのだろうか、と。

著者の谷津矢車氏は、歴史もの・時代小説を専門とする小説家とのこと。わたしは今回初めて著書を読みましたが、登場人物それぞれに対する愛情を感じるストーリー展開が、読了後に温かい気持ちを残してくれました。他の著作も読んでみたいな、と。谷津矢車氏ご本人がnoteで情報発信をなさっていますが、その文体から伝わってくるふんわりとした感じも、好感を持てました。

『ええじゃないか』(中央公論新社)谷津矢車

読書『ヘルンとセツ』(NHK出版)田渕久美子著

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読書『ヘルンとセツ』(NHK出版)田渕久美子著

いつものカメリアステージ図書館新刊棚。なんとなく手に取りました。ほんとうに、なんとなく。「ヘルンとセツ」と言われてもなにひとつピンとこず、家に帰ってページを開いて、「小泉家」「島根」「ハーン」と単語が目に入ってきてようやく、「小泉八雲」の名前に思い至りました。上の写真は我が家の近所の神社の様子ですが、ヘルン(ラフカディオ・ハーン)もこのような神社のお祭りに感動していたのだろうな、と。

江戸幕府から明治政府への激動期、歴史の表舞台には登場しない、地方の人々の様子が伝わってくる物語でした。なかでも「士農工商」の身分制度崩壊がもたらした悲喜こもごもは、わたしはこれまで深く考えたことがありませんでしたので、少なからず驚きをもって読みました。制度崩壊によって、チャンス到来と頑張る人、生きる気力をなくす人。いつの世も、民が国の政治に振り回されるのは「仕方がない」ことなのかもしれませんが、やはり近現代における「明治維新」と「第二次世界大戦敗戦」による価値観の大転換は、あまりにも厳しい現実だったのでは、という思いをあらたにしました。

それにしても、西欧化に突き進む日本に対する、ハーンの諭すセリフの数々が刺さりました。今の時代に生きる我々に必要な視点が、そこにあると感じました。特に「日本は神道と仏教が喧嘩もせず、仲良く並び立てる国です。一方、欧米はひとつの神だけが正しいのだと言い張る国であり、そこには、個人主義がはびこります。自分さえ良ければいい、自分の国だけが大きくなればいい、そうした考え方を招きます」(『ヘルンとセツ』より)のセリフは、考えさせられました。

実は、読み終わって初めて著者名を確認しました。田渕久美子さんって聞いたことがあるなぁ…と、著者プロフィールを拝見して納得。NHK大河ドラマ『篤姫』『江』をはじめ、脚本家として有名な方でした。著作もたくさんあるのですね。『ヘルンとセツ』面白くてサクッと読了しましたので、ほかの著書も読んでみようかな、と思います。

本書を通して描かれる島根出雲の地が、とても魅力的に思えました。わたしは島根は津和野あたりにしか足を運んだことがありませんが、ずっと行ってみたいと思っている足立美術館もあることですし、ゆっくり滞在の旅を計画したいところです。

ヘルンとセツ』(NHK出版)田渕久美子著

久しぶりのお茶のお稽古で、気分晴々。

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久しぶりのお茶のお稽古で、気分晴々。

約2か月ぶりにお稽古に参加して参りました。12月は外せない仕事のスケジュールが稽古日に重なり、1月は初釜茶会には参加したものの、稽古日は暴風雪により博多に出れずと、すっかりご無沙汰してしまいました。

穏やかなお天気となった昨日は、お稽古の開始時間に合わせてお茶室に入りました。既に何人もの方がお見えになっていたので、まずは皆さんのお点前を拝見。ちょうどわたしと同じお点前をなさっている方がいらっしゃったので、拝見しつつ復習です。

現在わたしがお稽古をしているのは、奥点前のひとつ「盆点て」。ひとつのお点前を1年間通してお稽古することで身に着けていきます。コロナ禍下でのお稽古お休み期間を経て、盆点てのお稽古を再開してから、この春で一年になります。が、未だ「身に付いた」という感覚とは程遠く。進んでは戻り、の繰り返しです。

そんなわたしに呆れた顔もせず、淡々と稽古をつけてくださる先生方には、ほんとうに頭が下がる思いです。そして、炉の前に座り、ひとつひとつの所作を確認しながらお点前をしていくと、それが間違えながらではあっても、終わったときにはとてもすっきりとした気持ちになるのですから、ほんとうに不思議です。

思うに、一つ一つの所作に集中するときには、日頃常に頭の片隅にある仕事のこともすっかり吹き飛んでいるのが、良いのだと思います。間違えながらやっていても、「今のこの動作」に集中できているときは、大丈夫なのですね。同じようなミスでも、集中できていないときには、即座に先生から「心ここにあらず」と声が飛んできます。

そんなわけで、久しぶりのお稽古で、頭の中がすっきりとリフレッシュ。やっぱりお茶は良いですね♪

読書『世界を魅了する日本の現代陶芸』(光村推古書院)ジョーン・B・マービス著

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読書『世界を魅了する日本の現代陶芸』(光村推古書院)ジョーン・B・マービス著

先日読んだ、映画字幕翻訳のパイオニア・戸田奈津子さんと、米国における日本美術研究の第一人者・村瀬実恵子さんとの対談集『枯れてこそ美しく』のなかで、村瀬さんの教え子の一人が、日本の現代陶芸をアメリカに紹介して大きな成果を上げておられることを知りました。

ジョーン・B・マービスさんと、お名前が載っていましたので、さっそく検索。彼女自身による、日本の現代陶芸をアメリカに広めた経緯をまとめた書籍がすぐにヒットしました。2019年発刊と最近のものでしたので、これは読んでみなければと、手に入れたのでした。

カラー写真が豊富で、展覧会図録のような雰囲気です。テキストは、左側に日本語、右側に英語と、両方で書かれています。対談も含まれており、もとの原稿が日本語で書かれたものと英語で書かれたもの、両方あったようですね。翻訳には「和→英」「英→和」総勢3名の翻訳者のお名前が挙がっていました。これは、アート分野の英語学習にもかなり使えそうです。

日本の陶芸界で近現代名前が挙がる作家が紹介されています。「最近20年間における日本の現代陶芸に対する西洋の関心の盛り上がり、その背景にある様々な要因を、芸術的、経済的、社会的側面から探ってみたい」というのが、本書の第一の目的として挙げられていました。その魅力に日本人だけが気がついていない、とする著者の言葉には、並々ならぬ熱意を感じました。と同時に、「現代アート」に対して「陶芸」の地位が低く評価されることに対するいら立ちも感じられました。

アメリカの方々が日本の現代(近代)陶芸をどう見ているのか、何を見ているのか、その視点を探るのに、分かりやすい本です。また日本陶芸界の近代史をおさらいするのにも、ぴったりの内容でした。今後の海外市場へのアプローチに、このような視点があるということを知っておくことは、とても勉強になりました。

それにしても、戸田奈津子さんが好きで気軽に手に取った対談本『枯れてこそ美しく』から、自分の仕事に直結するようなヒントが広がってきたことの面白さ。やっぱりつながっているんだなぁ、と一人頷きました。

世界を魅了する日本の現代陶芸』(光村推古書院)ジョーン・B・マービス著

読書『青いパステル画の男』(新潮社)アントワーヌ・ローラン著/吉田洋之訳

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読書『青いパステル画の男』(新潮社)アントワーヌ・ローラン著/吉田洋之訳

いつものカメリアステージ図書館新刊棚より。タイトルのリズムと装丁になんだか親しみを感じて、手に取りました。家についてページをめくり、なるほどその理由が判明、昨年読んだ『赤いモレスキンの女』と同じ作者でした。

出版社も訳者も同じということで、既視感があったのですね。

本書『青いパステル画の男』もまた「大人のおとぎ話」と評されています。骨董収集が趣味の男が巻き込まれる不思議な物語。新潮社の本書紹介サイトで、骨董に造詣の深い青柳龍太氏が書評を書いています。とても興味深いので、ぜひ読んで欲しい書評です。本書内、主人公がパリのオークションハウスで「青いパステル画」を競り落とすシーンは、とても切実に描かれていました。そんな象徴的なシーンを中心に、骨董収集に取りつかれた人が陥る悲喜こもごもがとても人間的で、悲しくも面白いのです。

個人的には、主人公が影響を受けた、骨董蒐集家であった伯父の言葉が、とても響きました。いわく「もし君が本物のコレクターになりたいなら、知っておかなきゃいけないことがある。オブジェ、本物のオブジェは、持っていた人の記憶を抱えているということ」(『青いパステル画の男』より)。このセリフは、現代においてアートオブジェを世に出している作家側の人間として、わたしに重く響きました。「本物のオブジェが、持っていた人の記憶を抱えている」ということは、「持っていた人の記憶を抱える力を持っていないオブジェは、本物とは言えない」ということだからです。それが「オブジェに魂がある」ということならば、まさにその通りだと思いました。

このように、自分自身の仕事とのつながりから考えさせられることもあり、とても面白い読書となりました。

『青いパステル画の男』(新潮社)アントワーヌ・ローラン著/吉田洋之訳

読書『枯れてこそ美しく』(集英社)戸田奈津子・村瀬実恵子共著

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読書『枯れてこそ美しく』(集英社)戸田奈津子・村瀬実恵子共著

映画字幕翻訳のパイオニア・戸田奈津子さんと、米国における日本美術研究の第一人者・村瀬実恵子さんとの対談集。コロナ禍下、東京とニューヨークをZoomでつないで実現した対談ということです。

1936年生まれの戸田さんと、1924年生まれの村瀬さん。お二人の年齢からでしょう、タイトルには「枯れて」の文字が入っていますが、どうしてどうしてお二人ともエネルギーにあふれています。読み終わったときには、この「枯れて」には何か別の意味が含まれていたのではないか、その意図を探さねば、という思いに駆られました。

わたしは本書を読むまで村瀬実恵子さんをまったく存じ上げなかったのですが、アメリカの美術界では知らないひとはいないというお方だそうです。元コロンビア大学教授でメトロポリタン美術館東洋部日本美術特別顧問。50年前から、アメリカでは当時ほとんど知られていなかった日本美術の芸術性、美しさを伝えてきた第一人者(集英社サイトより)とのことです。

そんな「最前線」を突っ走ってこられたお二人のやりとりは、機知に富み、人生を生き抜く力、責任と覚悟がビシビシと伝わってくるものでした。テーマは「おしゃれ」「キャリア」「運命の出会い」「仕事の意味」「美」「楽しみ」「人との付き合い」「終活」と続きます。ストレートなお二人の言葉は厳しさも含んではいるものの、どの談のトークも面白く。読んでいて励まされ、わたしももっと頑張ろう、頑張れる!と思わされました。

最終章「終活」のところでの、日本についての村瀬さんの見解が、とても重く痛かったです。いわく「そういうことに人々が関心を持つのは、国としても、個人としても理想像がないからでしょうね。小さく、小さく、小さくなっていくのね。日本という国はもう、そんなに遠くない将来になくなるのかもしれませんね。どういう形で消滅するかは興味もあるし、ちょっと長生きして見届けたい気持ちもあります。」(『枯れてこそ美しく』より)と。

日本に生きる私たちは、そんな現状をどうやって打開して行ったらよいのでしょう。巻末最後の最後で、大きなテーマを突き付けられました。

『枯れてこそ美しく』(集英社)戸田奈津子・村瀬実恵子共著

読書:家族と老いを考える2冊、『老後の資金がありません』と『あくてえ』。

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読書:家族と老いを考える2冊、『老後の資金がありません』と『あくてえ』。

天海祐希さんの主演で映画になった『老後の資金がありません』を観そびれていたところに、図書館の特集コーナーで原作を発見。

『老後の資金がありません』(中央公論新社)垣谷美雨著

主人公・篤子はドンピシャでわたしと同い年。生活環境は異なるものの、老親の介護はじめこの世代に共通する家族の問題の数々に、うなずきながら読みました。映画であればコメディとして笑い飛ばせたのかもしれませんが、本だからこそ迫りくる切実さがあって、気がつけば拳を握りしめて応援していました。

篤子の言うところの「50歳を過ぎた頃から」目につくようになった数々の現象(家族、特に夫の性格や癖)は、子育てがひと段落しそうだという安心感と反比例して現れるものかもしれません。文中にある彼女の「心の叫び」に対し、「わかる!わかるよ!」と心のなかで相槌を打ちました。たぶん彼女とわたしは性格的に似ているところがあるのだな、と思いながら。

なかでも篤子の「だが…それは強者の考え方だ。」のセリフ(心の声)が残りました。「自分は世の中の一部分しか見ないで、弱者のなんたるかを知らないまま一生を終えたのではないかと思うことがある。」というのは、読んでいるわたし自身に向けられた、深い反省でもありました。

これでもかと難儀な状態が降りかかりながらも、ストーリーは少し光が見えてくるところで終わります。安心とは言えないものの、少しはホッとして「ジ・エンド」を迎えることが出来ました。先に原作を読むことになったのは、かえって良かったかもしれません。そのシビアなストーリーを踏まえたうえで、映画(DVD)で大笑いしたいと思います。

対して、最後まで光が見えなかったのが、カメリア図書館の同じ特集コーナーにあったもう一冊。

『あくてえ』(河出書房新社)山下紘加著

著者の山下紘加さんは1994年生まれとありますから、わたしよりも20歳以上も若い方です。読みながら、近年社会問題化している「ヤングケアラー」という言葉が思い浮かびました。家族の問題は今や若者にとっても他人ごとではなく、あらゆる世代において切実になってきていることを、あらためて突き付けられました。

こちらも家族の問題てんこ盛りです。両親の離婚に、出て行った父親のお母さんの介護問題。当然お金の問題も出てきます。若い主人公がイライラしながら、どうしようもなく、現状を受け入れていくしかない様子が、閉塞感一杯に描かれています。

ストーリーの最後で、小説家を志している主人公が「小説は必ず終わりを迎えるし、良くも悪くも決着がつくのに、現実はそうではない。ずっと続いていくのだ。」と心の中で叫ぶセリフは、現代におけるこれらの問題の根深さを突き付けてきました。

『老後の資金がありません』では最後に見えた光が、『あくてえ』では見えず(むしろ悪くなるばかり)、トンネルに迷い込んだような感じでした。それでも読後感が悪くなかったのは、それが特別な人だけに起こる特別な問題ではなく、誰にでも降りかかる可能性のある現実的な問題として、ある意味淡々と描かれていたからかもしれません。

図書館の特集コーナーで偶然見つけた二冊。読んでよかった二冊です。

企画展『新原・奴山古墳群と集落』を観てきました。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

企画展『新原・奴山古墳群と集落』を観てきました。

福津市のカメリアステージ歴史資料館には、世界遺産登録された新原奴山古墳群に関する展示室があります。コンパクトながら重要な遺物等を展示するための基準を満たす特別展示室がふたつ、その周りに回廊になっている展示スペース、そして机と椅子が備わり閲覧可能な書籍資料の部屋。図書館が2階にあるので、その行き帰りに覗くのに最適です。

展示スペースは広くはないけれど、所蔵している資料はたくさんあり、ときどきこのような企画展で展示解説をしてくださいます。

↓こちらは昨年度の「新原・奴山古墳群」関連の企画展↓

今回の展示では、「住」に焦点を当てられていました。個人的に気になったのは「カマド」。住居内にカマド跡がある「カマド付き竪穴住居」は、5世紀ごろに朝鮮半島からの渡来人によって、ここ宗像エリアに伝わったとされています。住居内に台所があって、そこで煮炊きしたものを食べる…一気に当時の生活が身近に感じられてきます。

可愛らしい「手づくね土器」の数々も目に留まりました。祭祀用に作られたと考えられるミニチュア土器。徳利とぐい呑でしょう、手で粘土をこねて作った感じがダイレクトに伝わってくる土器の姿は、素朴でほのぼのとしていました。古来、酒器は祭祀に欠かせない大切な道具であったことが、あらためて伝わってきます。

それにしても、古墳と集落の分布図を見るたびに、この地域にどれだけたくさんの人々が生活していたのだろうと、なんだか壮大な気持ちになります。須恵器の窯跡が、確認されているだけでも60基以上あるというのも、あらためて興味深く。

こうして企画展を拝見することで、自分たちの住む地域の歴史を振り返る機会があることは、とても嬉しいことです。遠方の博物館等にわざわざ足を運ぶというのではなく、住んでいる場所で、生活の一部になっている文化施設で、観ることが出来るのは、ほんとうにありがたいことです。

令和4年度福津市複合文化センター歴史資料館 企画展『新原・奴山古墳群と集落』は、令和5年1月5日(木)~2月27日(月)(火曜日・最終水曜日は休館)です。

津屋崎古墳群。
495号線沿いに現れる、津屋崎古墳群。