『アンナと王様』で「マルフォイ」発見。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

『アンナと王様』で「マルフォイ」発見。

マルフォイ、でピンときた方は、ハリー・ポッターファンですね^^上の写真は『アンナと王様』の物語の舞台シャム(現在のタイ王国)のイメージから。

秋の休日、DVDでジョディ・フォスター&チョウ・ユンファの『アンナと王様』を観ました。『アンナと王様』=渡辺謙と、ついつい頭に浮かぶのですが、それはブロードウェイ・ミュージカルの話。こちらは2000年公開の映画版です。チョウ・ユンファの甘い男前ぶりと、セット・美術の豪華さ、の映画評に釣られて手に取りました。

ところが実際に見はじめると、気になったのはチョウ・ユンファでも豪華美術でもなく、主役ジョディ・フォスター演じる家庭教師アンナでもなく、その息子。可愛いよね、どっかで見たことあるよね、あれ…ちょっとマルフォイに似てない!?ということで、こうなるともう目が離せません。画面に映るたびに「やっぱ、マルフォイよね!」の確信を深めつつ、鑑賞終了。

ネットで調べると、やっぱり!でした。ドラコ・マルフォイを演じたトム・フェルトン。彼の名前がトム・フェルトンであるということも、初めて知りました。なにせ、わたしのなかではずっと「マルフォイ」だったもので。それにしても、映画のハリー・ポッターシリーズでは、子役の俳優たちが子どもから青年へ、そして大人になっていく様子をそのまま追うことができたのも魅力のひとつだったのだなぁと、あらためて思いました。

さて『アンナと王様』のトム・フェルトン氏は、ハリー・ポッターの第1作目よりもさらに幼く可愛らしい印象。映画のなかでの設定は10歳でした。ハリー・ポッターで魔法学校のホグワーツに入学できる年齢は11歳。そうかそうか、このすぐあとにドラコ・マルフォイになるのね…と、勝手に合点。

ヤフーニュースに、今年34歳になったという彼のニュースを発見。最近の写真の数々を眺め、年齢を重ねた美形ぶりに、さらに嬉しくなったのでした。そんなわけで『アンナと王様』のストーリーはほとんど印象に残っておりません(笑)。今後機会があればミュージカル版を見たいな、と思いつつ。

読書『文豪たちの住宅事情』(笠間書院)田村景子編著

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読書『文豪たちの住宅事情』(笠間書院)田村景子編著

「文豪」という単語を久しぶりに見たように思いました。ところが巷では、2012年あたりから漫画をスタートとして、ゲーム、書籍と「文豪ブーム」が起こっていたというのです。文豪ブーム。まったく知りませんでしたが、面白い流れだなぁと思います。

文豪と家との関りに興味が湧くのは、一読者としては「あの名作はそんな場所で生まれたのね」との思いから。文豪の書斎を再現した展示が博物館などで見られるのも、そういう想いを持つ人が少なくないからなのでしょう。

本書のタイトルは「住宅事情」となっていて、その考察は「家」という空間にとどまりません。転居の背景、地理的な情報、そして外観や間取りといった家そのものと、まさに「住宅事情」をとりまくお話になっています。

上の写真は本書『文豪たちの住宅事情』の目次ページの一部。ご覧になってわかる通り、まさに文豪の名前がずらりと並んでいます。総勢30名。どこから読んでも面白そうで、ついつい気になる文豪から読もうとしてしまいそうですが、ここはあえて順番通りに読んでみました。文豪一人当たりの文章量は10ページ前後でしたので、読みやすいです。

読み終わって、これまでに持っていたイメージが変わった文豪が数名。それぞれの文豪のイメージは、小説や有名なエピソードや写真を通して頭の中に勝手に作り上げられていましたが、本書で「住宅事情」を知ることで、意外な面を垣間見ることにもなりました。

なぜ今、文豪なのか。「はじめに」に編著者の田村景子さんが書いている論拠に、考えさせられました。いわく「自らが投げ入れられた未知の状況に表現を与えたい、与えなければいられないという切実な欲求」「わたしたちが表現したくとも容易に表現できないことに、鮮烈な表現を与える「文豪」が渇望された」と。時代が文豪を求めているという考えは、決して大げさではないのかもしれません。

映画『永遠の門 ゴッホの見た未来』を見た。

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映画『永遠の門 ゴッホの見た未来』を見た。

図書館で偶然見つけてDVD鑑賞。ここ数年、近代絵画の画家にスポットを当てた映画がよく作られているなぁ…と思っていました。「観に行きたい!」と思いつつ、ひとつも映画館で見るに至らず上映期間が終わる、ということが続いていたので、図書館での出会いはラッキーでした。

が、見始めて数分で「やっぱり映画館で見るべきものだった」との想いでいっぱいになりました。風景はもちろん、一つ一つのシーンがとても美しかったのです。自然の景色だけでなく、街の様子、室内の様子など、ゴッホの遺した絵画に登場する場所が、いくつも忠実に再現されていて、大きいな画面で没入して観たかったなぁ、と。

なんといってもゴッホを演じたウィレム・デフォーが秀逸でした。わたしにとっては、映画スパイダーマンの「親友のお父さん=ゴブリン」のイメージが一番強かった俳優さんですが、ゴッホ(の自画像)にそっくりでびっくり。ゴッホは自画像をたくさん残していますので、わたしたちはその自画像を通してゴッホのビジュアルイメージを持っていますが、そのイメージを全く裏切りませんでした。

弟テオとの関係性、ゴーギャンとの関係性。どちらも分かりやすく描かれていたと思います。ゴッホと彼らとの「手紙」のやりとりを通して残っている史実があるので、リアリティをもって描くことができるのかもしれませんね。特にゴーギャンとの関係性については、切なさがひしひしと感じられました。この辺りのエピソードについては、アートエデュケーター宮本由紀さんの著書『メンタルに効く西洋美術』がとても参考になります。「メンタルマッチョなゴーギャン」「ハイリ-・センシティブ男子、ゴッホ」として巻頭エピソードを飾っています。

映画のラスト。ゴッホは自殺だというのが定説だと思っていましたが、諸説あるうちの「他殺説」をほのめかすラストでした。たしかに映画の通りであれば、やっと心の安定が少しづつ取り戻せるかもしれない環境にたどり着いたゴッホが自殺をするというのは、考えにくいかもしれないなぁ、と考えさせられました。

終盤のゴッホのセリフに、神様が彼を産み落とす時代を間違えた(早過ぎた)、というニュアンスのものがありました。それは、古今東西ゴッホを評価するすべての人の想いだったかもしれません。それをゴッホ自身に言わせることは、ゴッホが自分が評価されないことを悲観してはいなかったということにつながります。映画のなかだけでなく、ほんとうにそうだったらいいな、と思いました。

読書『クララとお日さま』(早川書房)カズオ・イシグロ

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読書『クララとお日さま』(早川書房)カズオ・イシグロ

久しぶりの、カズオ・イシグロ。日本ではこの3月に刊行された最新刊です。ノーベル文学賞受賞後の第一作目。読むのをとっても楽しみにしていました。そしてその大きすぎる期待を裏切らない読み応えでした。

今回も訳は土屋政雄さん。日本でのカズオ・イシグロ作品は、「早川書房×土屋政雄」が定着しているような気がします。今回もストーリーと日本語の感覚がとてもしっくりする訳でした。読みやすくて、優しくて、情景と心象が浮かんでくる日本語です。

書評が発売以前から書評があちらこちらに出ていますので、大まかなストーリーはご存じの方も多いと思います。人工頭脳を搭載したクララ(ロボットという言い方が、本書中でも意図的に避けられているように感じました)と、病弱な少女ジョジーとの、出会いから別れまでの物語。クララは「AF」なのですが、そのAFが何の略であるかの説明は本書内にはありません。「『A』I」を搭載した「『F』riend」ということなのだろうなと思いつつ。

『クララとお日さま』では、時間軸はひとつであり、シンプルです。そのなかに、人工知能活用の問題、貧富・学歴など社会格差の問題、家族の在り方、愛情の在り方などがテーマとして自然に盛り込まれていました。もちろん、説教臭いものでは決して無く、淡々と問いかけられているような感じがしました。それも頭にではなく、心に対する問いかけ。

クララが持つ自分の仕事に対する誇りと使命への忠実さ。そして「お日さま」への信仰心ともいえる敬意と信頼。その純粋さが切なくなります。気が付けば、なんとかその思いが報われて欲しいと、一緒になって願う自分がいました。わたしはこれまでのカズオ・イシグロ作品のなかでは『日の名残り』が一番好きです。『クララとお日さま』はその次に来るかも、という本。何度も読み返したい本です。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その5。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その5。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


美術探検

「美術作品」を読みとるのではなく、「美術」を見る/知る=鑑賞は個人が各自の体験(知っていること)を存分に使って積極的に作品の中に出かける「表現」になる。

日常の常識でいっぱいの毎日の中に、美術作品によって非日常がするりと入ってきて、ふと自分の今日までを振り返る。自分の個人的な体験の点検と再構築が起こって、これまでの世界が広がる。
各自の世界観が知らないうちに拡大される喜びが、美術を鑑賞する楽しさと目的である。

表現行為としての鑑賞

本物を見るということは、何を見ることなのか。

「鑑賞を表現行為として行う」には、作品と対峙したときに
①作家の想いを含め、描いた人のことは忘れる。
②美術館にあることを含め、権威にまつわることは忘れる。
③キャプションを含め、作品を巡って「字で書いてあること」は忘れる。
→それによって、初めてそこにある作品を「注意深く丁寧に見る」ことができる。

自分で見て「その人自身」が「作品から読み取れることだけ」を使って「自分のお話」を「組み立てる」作業の結果、各自が持っている世界観が自然い拡大するという状況が起こる。そのことを「鑑賞」という。

★鑑賞のアートワークで押さるべきこと。

ものを見て判断する場合に、依るべき基準として使うことができるのは、その時その人の脳に既に保存されている記憶又は試験だけ。
鑑賞するときに使えるのは、その人が既に知っていることだけ。
その時彼らに教えることができるのは「既に持っているモノの使い方」だけ。

=伝えるべきは新しい見方ではなく、見ているものから読みとる方法と、それをもとに、自分が既に持っている情報をどのようにそこに絡めて使うか、というような部分。(←いかにアドバイスするか)

すでに知っていることを縦横に使ってみることによって、もっと知るべき(知りたい)方向と深さが自ずと見えてくる。
無意識に「知らされる」のではなく、意識的に「知る」。

美術はそのほとんどが「見る人の目の問題」である。
自分のために、様々なものを丁寧に注意深く見よう。
それが好きだという感覚は、個人でしか決められない。又は自分で決めなくてはいけないコト。
自分で決めるということは具体的に何をどうすることなのか、その点検に美術は使える。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


その1

その2

その3

その4

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その4。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その4。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


制作しない、しかし美術

(学校教育が苦手とする)個人を自立させる、または個人が自主的に健全な人格を形成できるようにする、という部分を担う。

美術は非日常とか認識の拡大とか、まず確固たる常識と日常が出来上がっていることが、理解の基本に深く関わり、かつ個人の美意識の上に成立する。

美術的な活動=丁寧に、くわしく、深く見る。の場面で使われるのは「美術的な視点」。近代の自立した市民的視点。私たちが、これまでの美術の歴史を通して獲得してきたものは、感性と過去性とかのような曖昧なものを肯定する基礎となるもの。すなわち「一人一人違っていて、一人一人がそこから見ていることを肯定することができる」というもの。

美術作品の鑑賞は、表現教育の大切なひとつ。=見ることを通した自我の形成、美意識の組み立て。=個人の美意識の形成。

個人が(象徴的な意味で)立ち止まって、よく考え、自分で周りを見ながら決める。決めたことを、自分以外の人の見方など気にしないで、自分の責任と覚悟の上で、みんなに見てもらえるよう努力してみる。というような美術・表現の基本的な姿勢。

美術(Fine Art)は哲学的で内省的で専門的で広範囲に各自の人生や世界観に深く関わる部分を含む、総合的でかつ個別な概念である。基本的に美術は、人間の大人のための仕事、活動なのだ。

一人一人の「体験」を、人間としての「経験」に積み重ねる手伝いが美術にはできる。私の感動は私の感動で、その感動は伝えられない。でも感動というものがあるということ、そして、その感覚はこうすれば磨くことができる、は伝えられる。

描けるのは、頭の中に見えるモノだけ、を自覚できる大人になろう。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


読書『コラージュ入門』(一麦出版社)藤掛明著

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『コラージュ入門』(一麦出版社)藤掛明著

わたしがコラージュをアートエデュケーションのひとつとして取り入れるきっかけとなった、学芸員技術研修会の「美術館でコラージュ療法」講座。そのとき指導をしてくださった、聖学院大学心理福祉学部心理福祉学科教授・藤掛明先生の新刊です。

思いがけず藤掛先生からメッセージをいただいたのは先週のこと。当ブログ「ふじゆりスタイル」を読んでくださったようで、わたしが美術的アプローチでコラージュを(細々とではありますが)継続していることを、喜んでくださいました。直々に応援をいただき、モチベーションアップ。

さて本書、芸術療法のスペシャリストとして仕事をしてこられた藤掛先生の著書でありながら「コラージュ療法入門」ではなく、あえて「療法」を外して『コラージュ入門』となっています。まずここに大きな意図、すなわち、治療や更生に導くことを目的とした臨床的コラージュの枠を出て、より自由なコラージュ活用の場が広がっていくことへの期待を感じました。

医療・福祉の分野では近年「予防医学」や「健康寿命」という言葉をよく聞きます。「コラージュ療法」に対する「美術的コラージュ」は、ちょうどそんな(予防的な)位置づけにもなりうるのではないかと思いました。ここ数年、学芸員技術研修会で学んできたことのひとつは、医療・福祉へのアプローチとしての、美術・美術館の可能性を探るものです。心身ともに健康を保つための方法として、美術・美術館はどのように役立つのか、という視点。わたしにとって「コラージュ」活用は「対話型美術鑑賞法」と並んで、最も使い勝手の良い「美術の使い方」です。

本書を読み終えての第一の感想は、まさに入門書であり、手元に置いて原点確認するのに最適な本であるということ。読みながら、3年前に学んだ講座内容がまざまざと思い出されました。基本的に必要なことは、この一冊に入っていると言えるのではないでしょうか。自分がファシリテーターとなってコラージュの講座をする際に、もしも迷いが出たらここに戻れば良い。そんな本です。

具体的には、まず実際の運営にあたっての実務的な方法と、その方法が選ばれる理由が、わかりやすく示してあります。また、そうした方法を推奨するに至った背景となるストーリーや事例、エビデンスがいくつも挙げられているので、納得して用いることができます。ここに挙げられている方法に沿って、その時々の状況に合わせて応用(先生の言葉では「変法」)してゆけば、いろいろなパターンでコラージュを活用できることが理解できます。

美術的アプローチでのコラージュに強い味方となる一冊を得ることができました。より活動領域を広げることが出来そうです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その1。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その1。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しているのですが、前回読んだのがちょうど一年前でした。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


その光景を見るときに起こるだろう、一人一人まったく違っていて、しかし、人間という種としては、多くの部分で共通もする、広く多様で深い複雑な心の動きの総合が「美」と名付けられた。

美しいも汚いも、上手いも下手も、ビックリするところまで行きついたものに、私たちは驚き、感嘆して見つめる。

人間はみんな違うのだから、一人一人の美ももちろん違う。
しかし私たちは同時に皆人間で、あるものには共通して心を動かすことができる。

ほんの200年程前までは、世界中に本物の王様がいて、私たちの美をその人が決めてくれていた。でも私たちはそういうシステムはやめて、美はみんながそれぞれ決めていいことになっている。

表現は大きく拡大しても、心が動くことは、私たちに共通して未だに起こる。美術館はそのきっかけとなったビックリを描きとめたものをとって置き、後々いつでも誰でも確認できる場所として機能し、存在する。

美術を使おう

小さい人たちが描いている絵は(中略)彼らの世界の見え方を、見えた通りに描いているだけ。彼らの絵に描いてある世界の方が、彼らにとっては正しい。

物をつくる実際の作業は、その人の運動神経と密接に関係する。速い遅い、丁寧雑は、個人の資質なのである。走るのが速い遅いと同じように練習で何とかなる部分と、練習ではどうしようもないところがある。作る/造形する部分は、ごく個人的なのである。でも、納得するまで制作にあなたの時間をかけることは、推奨される。

私たちは、どこの目で、何を見ていた/見ている のだろう。見えている物を見えているように描く、目と手の運動の練習。
見えていると思っている物を、再度点検する。思い込みは、本人が思っているよりも遥かに強く、見ることに影響を与えている。
上手に描くことのまえに、丁寧に、見えるように見ることに気づく練習。

美術館に出かけ「人間はこれまでに何を見てきたのか」を見に行く。作品の意味を知るのではなく、そこに描いてあることを素直に見ることができる視点に支えられると、個人の中の美術の理解は劇的に変化する。

作家の思いなんか、端から無視していいのだ。でも丁寧に、注意深く、描いてあるものを見ていき、自分の思いをめぐらせれば、同じ人類が描いたものだから、自ずと描いた人の想いも見えてくる。それだけでなく自分の想いも、その(作家の)想いを感ずることで広がっていく。作家の想いを超えて、あなたの想いを広げてくれるのが、良い絵。本当の意味の鑑賞。

10才未満の、毎日がほとんど非日常である小さい人たちと、非日常の楽しみである美術。を楽しむには、どのような工夫をしなければならないか。美術の目を生活の中で使う練習。見える物だけでなく、見えない物にも、目を配って見る。見えない物だけで、見えることを実験してみる。小さい頃に美術を学ぶということは、上手に絵が描けるとか工作ができるとは別に、「トトロ(見えない物の存在)はいる」と思える想いを持つことができる子供になること。

何かをなすための作業ではなく、そのこと自体を楽しむ。

物を意識的にきちんと壊してみるという作業が、生活の中からなくなっている。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


その2、以降に続く。

読書『ネーミング全史』(日本経済新聞社)岩永嘉弘著

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『ネーミング全史』(日本経済新聞社)岩永嘉弘著

商品・サービスに「わかりやすい名前を付ける」必要に迫られて、たくさん借りてきた「ネーミング」に関する本のなかで、特に面白かった2冊の一冊。もう一冊は昨日のブログで紹介した『ネーミングの言語学』(開拓社/窪薗晴夫著)でした。

学術的な研究書を一般にも読みやすく編み直したのが『ネーミングの言語学』なら、こちらはマーケティング戦略としてのネーミングの歴史をそのまま生きてこられたような、コピーライターのパイオニアによるビジネス書です。タイトルにある「全史」の文字にうなずける内容でした。

サブタイトルに「商品名が主役に躍り出た」とあるように、(ヒット)商品名によって歴史を振り返ることができる内容となっています。商品名から時代の空気感が伝わってきます。わたしは経済学部出身で、学生時代特に好きだった経営学の科目に「商品学」というものがあるのですが、その「商品学」のテキストとして使えそうな本です。

ヒット商品の歴史を、商品名誕生の背景から振り返るという意味では、単純に楽しく、そして一定の世代以上では懐かしく読める本です。そのうえ巻末には、優れたネーミングを生むための発想チャートなど、ネーミング作成法・手順も載っていて、実務的にすぐに役立てられるように、という著者の意図も伝わってくる本です。

学術的アプローチの『ネーミングの言語学』とマーケティング的アプローチの『ネーミング全史』、どちらも実務のためになり面白い本でした。

読書『ネーミングの言語学』(開拓社)窪薗晴夫著

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『ネーミングの言語学』(開拓社)窪薗晴夫著

商品・サービスに「わかりやすい名前を付ける」必要に迫られて、「ネーミング」に関する本を図書館で物色。いつもお世話になっているカメリア図書館は臨時休館中ですので、正しくは図書館ウェブサイトの「蔵書検索」で探しました。ウェブから予約を入れて、福津市図書館の窓口に受け取りに行けば借りることができますので、このサービスをフル活用しています。

何冊も借りてきたなかで、特にこれは面白い!と思ったのが、『ネーミング全史』(日本経済新聞社/岩永嘉弘著)と、本書『ネーミングの言語学』の2冊でした。で、本日は後者をご紹介。本書は開拓社から出ている「言語・文化選書」の第8巻で、このシリーズでは、日本語・英語をはじめとした言語文化についての様々な研究を、平易で読みやすいものにするのが目的となっているようです。

用途的に必要だったのは、マーケティング視点で書かれた本であったはずなのに、「言語構造・規則」を考察した学術的アプローチの本書にハマってしまいました。「韻を踏む」と言う、その「韻」なかでも単語の先頭に来る「頭韻」について、これでもかというほど用例が示され解説されています。本書の前半はすべてこの「頭韻」の考察。続く後半では「語順とリズム」、最後に「日本語の命名と言語構造」と続きます。語順とリズムについても用例多数。

読み終わってみれば、韻や語順とリズムが与えるイメージへの理解が深まり、大きな収穫でした。ネーミングにあたり、マーケティング目線の強い本の方が、直接的に参考になるのではないかと思っていましたが、さにあらず。構造や規則(パターン)を知ることで、より本質的な理解に近づいていくことは、これから言語と付き合っていくうえで、底力になると思いました。このうえで、マーケティング視点でのネーミングを知ることが大切ですね。ということで、明日に続きます^^