アートフェアアジア福岡2021のポスターが到着。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

アートフェアアジア福岡2021のポスターが到着。

さっそく、花祭窯にもポスターを貼って宣伝。チラシもありますので、興味のある方は、お声掛けくださいね。アートフェアアジア福岡2021(以下、AFAF)の関係者でも何でもありませんが、福岡でこのようなアートイベントがあることは、文化芸術関係の仕事をしている一人として、とっても嬉しく、応援していきたいと思っています。

昨年はコロナ禍で開催が見送られた「アートフェアアジア福岡」。2019年以来、2年ぶりの開催となります。時節柄、一昨年のような「今が旬のアート関係者」によるトークなどのイベントは予定されていないようです。それは残念ではありますが、仕方がないですね。代わりにと言いましょうか、一昨年よりも、一般の人が入りやすい形になっていると思います。

まず、会期が9月22日(水)~9月26日(日)と5日間あります。前回は一般公開は2日間だけでしたので、5日間あると、忙しい人でも足を運びやすくなると思います。次に、入場料が無料です。アートフェアは通常入場料をとることがほとんどで、AFAFも2019年は1日券1500円フリーパス3000円でしたから、「入場無料」は大きいと思います。無料なら「ちょっと見てみようか?」と足が向きやすくなりますよね。場所も博多阪急の7階8階とまとまっています。

出展ギャラリーは45軒。顔ぶれを拝見して思ったのは、年々、地元であるはずの九州内のギャラリーの割合が減っているのではないかということ。逆に言えば、全国から参加してくれるようになった(それだけの価値を認めてもらえるようになった)とも言え、AFAFが育ってきた証ともいえるのかもしれませんが。どう考えるべきか、ちょっと複雑な気もします。

ただ一般客としては、ふだんなかなか足を運ぶことのできない、全国各地のギャラリーさんのブースを見ることができるというのは、嬉しいことですね。今年も、たったひとつでも「お!」と響くものを発見できるといいな、と期待しているところです。

福岡では、30年間続いたアジアフォーカス・福岡国際映画祭が、2020年の開催を最後に、残念ながら実行委員会を解散してしまいました。わたしは身近な場所で参加できる芸術体験の機会をひとつでも多く持ち続けることが、その地域の活力につながると思っています。このアートフェアが、博多でいうなら山笠やドンタク祭りのように、季節の顔となってずっと続くイベントになったらとても嬉しいな、と思っています。

お家でゆっくりお盆休み。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

お家でゆっくりお盆休み。

ふだん気になりながらそのままになっていたことを一つでも完了する!ことに。ただ、北部九州はお盆前からずっと大雨警報や避難勧告などが出ていましたので、お天気に気をとられていたというのが、実際のところです。

そんななか、まず手を付けたのが、ギャラリースペースの棚の整理。お休みと言いつつ仕事ですね(笑)。ただ、このところゆっくり器を並べ直すことが出来ていなかったので、お盆休みのおかげでできた仕事です。蕎麦猪口棚に並ぶサンプルの蕎麦猪口をすべて拭き上げることができたのが、一番嬉しかったかもしれません。

それから、7月からウィンドウに飾っていた「山笠絵皿」を終いました。季節ごとに置き換えています。お盆を境に「鶉(うずら)に桔梗(ききょう)」文様の金襴手の角瓶を出しました。桔梗は秋の七草のひとつです。また中国磁器の文様として人気の高い鶉は、粟(あわ)との組み合わせで描かれることが多く、秋から冬にかけての文様です。

次は英語学習=溜まっていた「the Japan times alpha」の読み込み。お盆休みに入った時点で5週分が手元にありましたので、せっせと音読。ところがこの音読、自分の読み取れるスピード以上に早くなりませんので、なかなか前に進みません。ついつい記事を読み飛ばしたくなることもありますが、本来好きでやっていることですので、時間をかけてもひとつひとつ進むのみ。3日かけてやっと半分読破しました。

それから、ふだんしないところの掃除も少しできました。冷蔵庫の霜取りをし、プラスチック製のごみ箱を内外拭き上げ、掃除機の中を歯ブラシできれいにし…。一見どこがきれいになったのかわからないようなところをきれいにして自己満足。

お盆休みの真ん中には、近所のおさかなセンターで地魚握りを調達。我が家にはお仏壇があるわけでなく、お盆行事をするわけではないのに「お盆の寿司盛注文受付中」に釣られました。「地魚握り」といいながらサーモンも入っているお茶目な寿司盛は、海鮮巻が豪快で、価格的にもお手頃です。寿司盛サービスがはじまったときに、なにかイベントがあるときに注文したらいいねと話していながら、このご時世でイベントの機会は無いもので、このお盆になりました。

季節外れの長雨で気温が少し涼しくなったので、雨の合間に久しぶりにウォーキングを復活することもできました。猛暑でウォーキングに出ることができない日が続いていましたので、これは嬉しかったです。

そんなわけで、ゆっくりペースのお盆休み。いいお休みになりました。

蕎麦猪口棚の写真を撮ってもらいました!

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

蕎麦猪口棚の写真を撮ってもらいました!

蕎麦猪口棚が花祭窯に設置されたのがちょうど1年前。設置の際はもちろん、その後もことあるごとに好い写真が欲しいと自力でチャレンジするも、棚の素晴らしさ・ディスプレイの力がちゃんと伝わる写真が撮れないまま、今に至っておりました。

まず第一に大きいので、全体をきれいに撮ろうとすると、わたしのカメラではかなり引いた位置から撮るしかないものの、距離が足りずに構図が歪んでしまうこと。次に100個以上の蕎麦猪口を並べているので、焦点をうまく合わせられずに、全体にぼんやりしてしまうこと。そして「蕎麦猪口=反射しやすい磁器」がたくさん並んでいるため光ってしまうこと。上手に撮れない言い訳だらけ(笑)。

ようやくプロに撮影を頼み、出来上がった写真を見て思うことは、「最初からお願いすればよかった」の一言。今回もご近所フォトグラファー日浦さんにお願いしました。いつものように「サクッと」撮ってくださいました。どのような写真が欲しいのか、なぜ自分ではうまく撮れないかをお伝えしたところ、必要な機材をピンポイントで担いでいらっしゃいました。約15分の撮影時間で、「こんな絵が欲しかった!」が現実化。

蕎麦猪口 藤吉憲典

それにしても、ご近所に凄腕のプロがいるというありがたさ。今回も心より感謝です。

フォトグラファーであり、3DCGアーティストであり、フィルムメーカーである日浦さんの作品は、写真はインスタグラム動画はYouTubeでサンプルを確認できます。気の向いた仕事しかしないアーティスト気質な方ですが、それだけに、受けた仕事をギリギリまで「よいもの」に仕上げることへのこだわりはすごいです。

Meet Me at Art「コラージュ講座」の位置づけは「心の健康」へのアプローチ。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

Meet Me at Art「コラージュ講座」の位置づけは「心の健康」へのアプローチ。

2021年郷育カレッジ講座の特集テーマは「郷育で心も体も健康に!」。昨年度に続き、今年度もコラージュ講座を準備しています。郷育カレッジのなかに美術系の講座が少ないなか、昨年初めて開催したのでした。

美術の教育普及ワークショップメニューのひとつですが、「心の健康」へのアプローチを意図しています。コラージュ制作を通じて、自分の内側を可視化し、客観的に受け入れていくことで、心のリフレッシュを図ります。わたしはこのワークショップを「Meet Me at コラージュ(=コラージュ制作を通じて自分に出会う)」と名付けています。

そもそもわたしが「博物館学芸員技術研修」で学んだコラージュは、芸術表現としてのものではなく、アートセラピーのひとつとしてのコラージュ療法でした。指導してくださった、聖学院大学心理福祉学部教授の藤掛明先生によると、アートセラピーには、心理系アプローチと美術系アプローチ、二つの経路があります。わたしはセラピーの専門家ではありませんが、医療や福祉の現場でも、美術系アプローチ活用への注目は年々高まっているように感じます。

今年度のプログラム進行を検討するにあたり、昨年の講座に参加してくださった方々のご感想を振り返ってみました。

  • 集中して一人静かな時間が持てた。
  • コラージュ制作を通じて、自分の好きなことに改めて気づくことができた。
  • 自分で考えを創作していく過程に、希少価値を感じた。
  • 今自分が表現したいことが明確に出て、面白かった。
  • やりだしたら、ついついはまり込んだ。
  • 空間で何かを表現したいという思いが出てきた。

などなど。これらのご感想を拝見すると、コラージュの目的と効果を再確認することができます。「じっくり自分に向き合う」機会を持てていない方は、少なくありません。約1時間半の講座で、参加者の皆さんが楽しく集中力を高め、夢中になる時間を味わい、終わったらリフレッシュを実感できるよう、進行を考えていくところです。

ところで本日のアイキャッチ画像(一番上の写真)は、『美術館っておもしろい!』(河出書房新社/モラヴィア美術館)より拝借。美術・美術館の役割を絵本にしている本書のなかにも、美術の教育普及の仕事の果たす役割・大切さが、わかりやすく描かれています。

本と映像で時間と空間をバーチャル移動。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

本と映像で時間と空間をバーチャル移動。

このお盆は、2020年のお正月以来顔を出せていなかった実家詣でを計画していましたが、折からの「まん延防止等重点措置」「福岡コロナ特別警報」を受けて、延期。ほぼ外出無しの夏休みとなりそうです。

家(=兼仕事場)に居るとついつい仕事をしてしまうので、強制的に物理的に離れた場所に移動することは、わたしにとってはメリハリをつけるのに大切です。が、それがしにくいこの夏休みは、時間と空間をバーチャル移動することに。「バーチャル」なんて言葉を使うと、最新IT技術をイメージする方もあるかもしれませんが、単に仮想とか疑似という意味です。本と想像力さえあればOK!今回はさらにDVDもあるのでばっちりです。

この機会に、長すぎて観るのを躊躇していた「エリザベス1世」を一気に見ることに。前編109分、後編112分。長いなぁ、と思っていましたがさもありなん、映画ではなくイギリスで放映されたテレビドラマでした。ほぼ王宮内で完結するストーリーで、歴史ものというよりは愛憎もの?でも王宮内の人間関係や駆け引きがそのまま政治に反映され、国際的な立場にも影響すること考えると、やはり歴史もの。それを「独身を貫いたエリザベス1世」の人間的側面からクローズアップした物語でした。

エリザベス1世といえば、ミュージカル「レディ・ベス」を博多座で観たのは、ちょうど七年前のこの季節でした。「レディ・ベス」は、エリザベスが少女から女王になるまでの物語。今回見た「エリザベス1世」は、「女王になったあと(けっこう時間が経ってから)亡くなるまで」の物語でしたので、レディ・ベスのエピソードは、「その前」を知る補足となりました。

それでも前提となる知識が足りませんので、前半と後半の間に、中野京子さんの『名画で読み解く イギリス王家12の物語』(光文社新書)をパラパラと開き、該当する時代の絵画と解説と家系図を眺め、付焼刃的にイメージを補足。エリザベス1世は、ロンドン塔の「反逆者の門」をくぐりながらも、そこから出てきて、しかも治政者として長年貢献するというレアな偉業を成し遂げた人物であること、自らもその政敵をロンドン塔に放り込んでいたことを、絵画的にインプット。

トータル約4時間のバーチャル移動、十分に楽しみました。せっかくなので、次はケイト・ブランシェットの映画版によるエリザベス1世『エリザベス ザ・ゴールデンエイジ』も観たいな、と思います。

「見る」のプロ。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

「見る」のプロ。

NHK BSプレミアム『美の壺 File543 「青と白の粋 染付の器」』の後日談です。

取材撮影にいらしてくださった制作チームの皆さんが素晴らしくプロフェッショナルで、そのお仕事ぶりに感嘆したことは、「たま~にメディア取材。」としてブログ記事にアップしておりました。放送終了後、お世話になった制作チームの皆さんにダンナがお礼状を書いておりましたが、つい先日そのお一人からお手紙が届きました。そのなかに、とてもありがたい一文がありました。

いわく「藤吉さんがこれらの仕事を長年の熟練によって楽々とこなしているのでもありませんでした。作業の節目で生き返ったように大きく息継ぎするのが印象的でした」と。

まさにそうなのです。長年の熟練ではありながら、一つ一つの仕事は、常に「最初のひとつ」として向き合うのが、藤吉憲典の仕事です。たとえ同じ文様を何百回何千回と描いてきていても、惰性でこなせる仕事などひとつもありません。仕事のどの部分を切り取られても「これは自分の仕事」だと胸を張って言えるものでなければ、お金を出して購入してくださるお客さまに対して失礼であるというのが、独立以来の考え方です。

「大きく息継ぎ」は、テレビには映っていない場面でしたが、日ごろから仕事ぶりを見ているわたしには見慣れた姿です。制作チームの方がその意味を理解してくださっていたことを、とてもありがたく思いました。たとえば絵付の手元だけを見ていると、とても自然にさらさらと筆が動いています。そこは熟練を感じるところ。けれどもその背後にはものすごい集中力があり、それがわかるのが、ひと作業終わるたびに「ふうーっ」と大きな息をつく姿だったのだということです。

思えば、カメラを通してではありますが、いえ、カメラを通しているからこそ、かなりの至近距離で磁器作家・藤吉憲典の動きや表情をご覧になっていたのですね。一日半の撮影は、長いようでいて対象の本質を知るには十分な時間ではなかったのではないかと思っていましたが、プロの「見る力」の凄さを感じました。こんなふうに、表面に見えるものの奥までを捉えようと撮ってくださったからこそ、あのような映像が出来上がったのだなぁと、あらためて感慨深く思いました。

「有名」が意味するものについて考えた。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

「有名」が意味するものについて考えた。

先日、初めてお見えになったお客さまが開口一番「ここの先生は昔から有名なんですか?」と尋ねられました。おっしゃっていることの意味を計りかねていると、「美の壺に出ていたから、有名なのかと思って」と。お返事としては「ぜんぜん、一般的に有名ということではないです。ただ25年この仕事をしていますので、ご存じの方はご存じかもしれません」と申し上げたところでした。

「同じ県内にいて、テレビに出るような人だけれども、今まで知らなかった」ということでのご質問だったのですね。たしかに「陶芸作家」は自分の名前で仕事をする職業ですが、でも一般的に広く有名になるような仕事ではないと、わたしは思っています。陶芸作家を名乗る人は全国にたくさんいても、業界関係者や「やきもの(陶芸)ファン」以外にはほとんど名前を知られていないというのが実情ではないでしょうか。そして陶芸ファンの人口比率は、決して高くないと思うのです。実のところわたしも、ダンナと知り合う前までは、有田焼の人間国宝の名前さえ知りませんでした(笑)。

さておき、お客さまの「この陶芸家は有名なのか?」のご質問の背後には、もうひとつの理由が見えました。ご来店前に想定なさっていたよりも器の値段が高かったようで、「とりあえず記念的に購入する」には躊躇が伴うお気持ちです。もともと「作家物の器」はアートや他の嗜好品と同様、それが好きな人にとっては価値があるけれど、興味のない方にとっては価格なりの価値を理解するのが難しいこともあります。ですから、このお客さまの反応も、珍しいことではまったくありません。

実のところ、価格をどうつけるかを考えるのは、とても難しい仕事のひとつです。けれども少なくとも花祭窯・藤吉憲典においては、「有名だから」という理由で、価格を高くすることはありません(そもそも有名という自覚も無く)。市場の原理でいえば「有名だから」は、価格高騰の理由になるのかもしれません。特にアート作品においては、作家の手を離れた後の二次市場以降の売買において、その傾向が強くなることは否めません。けれども、作り手が最初にお客さまに出す時の価格は、あくまでも制作にかかった技術・時間・精神力・労力その他、「もとにかかっているもの」がベースです。

さてお客さま、その後、器を手に取ってじっくりご覧になり、いろいろとお話をしていくなかで、器や作り手についての理解を深めてくださいました。ご自身の好み(価値観)をはっきりとお持ちのお客さまで、その美意識にかなうものを藤吉の作品のなかに発見なさり、お帰りの時には、すっかりお気に召した器をいくつかお買い上げ。ご満足いただいたようすの笑顔に、こちらも嬉しく一安心でした。

わたし自身はブランド物などの情報に疎く、買い物の際にも「有名か無名か」はまったく判断の根拠になりません。なので「名前」を気にする方々の心情は、きっと本質的には理解できていないのだろうな、と思います。それでも「有名か無名か」ということではなく、作品そのものや作り手自身のこと(事実)を淡々とご説明差し上げることで、お客さまが安心感をもって選ぶことができるのならば、それは大切な仕事のひとつだと、つくづくと思った出来事でした。

作家のキャリアを象徴する5つの作品。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

作家のキャリアを象徴する5つの作品。

花祭窯の「創る以外なんでも係」であるわたしの仕事のなかで、最も時間を使っているのは「肥前磁器作家・藤吉憲典のプロモーション」です。たぶん。時間を計ったことはありませんが。

作家を紹介する方法・資料として、「バイオグラフィ(履歴書)」「陶芸家・アーティストとしての略歴」「主要展覧会歴・受賞歴・コレクション」「アーティストステイトメント」「ポートフォリオ(作品紹介)」などがあります。それぞれ、どのような内容が求められるのかは、場面や目的により異なります。ひな型となる資料はありますが、これらの資料を出す必要が発生するたびに、毎回見直して微修正するので、内容は常に更新しています。

今回ポートフォリオとして、「作家のキャリアを象徴する5つの作品」を提出するように求められました。藤吉憲典の独立以来25年のキャリアのなかから5つ。「キャリアを象徴する作品」ということで、作家本人とも相談して、制作活動の転機になったものをピックアップしてみました。


1.栄螺型香炉(さざえがたこうろ)

染付栄螺型香炉 藤吉憲典
染付栄螺型香炉 藤吉憲典

2.金襴手角瓶(きんらんでかくびん)

金襴手角瓶 藤吉憲典作
金襴手角瓶 藤吉憲典

3.3.11 Natural Disaster

3.11 Natural Disaster 藤吉憲典
3.11 Natural Disaster 藤吉憲典

4.龍の子(Dragon Boy)

藤吉憲典 オブジェ 龍の子
龍の子 藤吉憲典

5.貝尽くし陶箱(別名:津屋崎箱)

貝尽くし陶箱 藤吉憲典

キャリア初期のものから順に並べています。1.から3.までは、佐賀時代につくったもの。4.と5.は津屋崎に移転した後のものになります。意外とすんなり出そろったのは、やはりそれぞれの作品ができたタイミングとその背景が共有できていたから。どれも、暑苦しいほどのストーリーを語ることのできる作品ばかりです。

こういう形でポートフォリオを提出したのは初めてでしたが、こうして並べるだけで制作の変遷がくっきりと見えてくることがわかり、求められた資料の意図に感心したところでした。「どんな作家なのかを知りたい」という気持ちが伝わってきます。文字によるキャリア紹介ではなく、作品によるキャリア紹介は、恣意の入る余地が無くていいな、と思いました。

読書『希望の一滴 中村哲、アフガン最後の言葉』(西日本新聞社)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『希望の一滴 中村哲、アフガン最後の言葉』(西日本新聞社)

2019年12月4日に亡くなった、ペシャワール会中村哲先生の、生前の記事やインタビューをまとめた一冊。亡くなられて1年以上が過ぎ、関連するたくさんの本が出版されていますが、本書は中村先生自身による西日本新聞への連載記事と、ペシャワール会の会報への原稿が中心になっています。

ペシャワール会は1983年、中村哲医師のパキスタンでの医療活動を支援する目的で結成された国際NGOです。以後、中村医師の活動がアフガニスタンへと広がって行く中、中村医師が率いた現地事業体PMS(Peace Japan Medical Services 平和医療団・日本)を支援し続けています。( 『希望の一滴 中村哲、アフガン最後の言葉』(西日本新聞社) より)。

福岡県は中村医師の故郷であり、ペシャワール会の事務局も福岡にあります。そのため、ほかのエリアよりは、中村哲さんのアフガニスタンでの活動について見聞きする機会が多い方であると思います。わたしの周りにも、直接間接的に中村医師と関わっている方々が少なからずあり、なかにはご親戚や、ともにアフガニスタンで活動した方もいらっしゃいます。

それでも、実際にどれほどの活動をなさっていたのかを、もっとしっかり知らなければとわたし自身が自覚したのは、中村医師の訃報に接してからでした。本書でもあとがきにありましたが、亡くなったことによる喪失感の大きさと、亡くなったことにより広くその事業と理念が知られるようになり、支援の輪がさらに広がっているという現実が、両方あるのだと思います。

特に福岡県内においては、2020年以降、各地で中村医師の活動の軌跡を知らしめる展示や講演などのさまざまな活動が、地道に展開されていました。コロナ禍において、それぞれの活動は制限を伴ってはいましたが、ほんとうにあちらこちらで、あらためて中村医師の活動・理念を知るための機会が設けられ、その流れは今も続いています。生前から実際に関わってきた方々が、使命感を引き継ぎ、声を上げ始めている感じがいたします。

我が家では、ここ津屋崎に移転して以来西日本新聞を購読していますので、中村医師の連載もリアルタイムで読んでいたはずですが、すっかり忘れていることも多々。あらためて書籍になったものを読み直すと、やはり感嘆せずにはいられません。なかでも「第4章水のよもやま話」は、困難ななかでの活動継続を支えた中村哲さんの源泉・人となり、自然界や人間へのまなざし、文化感・歴史観が伝わる文章となっています。アフガニスタンの問題は、アフガニスタンだけでの問題だけではないということが、切迫感をもって伝わってきます。ほんとうに憂うべきは何か、自分自身の問題として考えることが求められます。

活動内容の詳細については、本書をはじめとした関連書籍や、ペシャワール会事務局ホームページでの情報提供をご参照いただくと、より理解が深まるかと思います。

読書『グレゴワールと老書店主』(東京創元社)マルク・ロジェ著、藤田真利子訳

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『グレゴワールと老書店主』(東京創元社)マルク・ロジェ著、藤田真利子訳

こちらもいつものカメリアステージ図書館新刊棚から。「老書店主」のタイトルに釣られて借りてきました。「老書店主」は智恵と教養の宝庫!のイメージ(思い込み)があります(笑)。まったく前情報無しに読みました。読み終わってから確認したら、著者は西アフリカ・マリ共和国生まれとのこと。著者の詳細は分かりませんでしたが、フランスで朗読活動をなさっているようです。初著となるこの物語の舞台もフランスの地方の町。

そういえば今年の初めに読んだ『忘却についての一般論』の舞台が、アフリカ・アンゴラであり、著者のジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ氏はアフリカ生まれでした。原著はポルトガル語で書かれていたと思います。いろいろな国で出版される本を(言語を)翻訳してくださる方々のおかげで、いろいろな国にルーツを持つ作者の紡ぎだすいろいろなお話を読むことができるありがたさ。

さて『グレゴワールと老書店主』の舞台は、高齢者福祉施設と思しきホーム。高校を卒業したばかりの施設職員「グレゴワール」青年と、人生のすべてであった書店を売り払い施設で残りの人生を送る老書店主との、「本の音読」を通じた交流の物語。青年が、老書店主との「音読の訓練」によってたくましく成長していくようすを、ときおり拳を握りつつ見守る読書となりました。

ときおり拳を握りつつ、というのは、この物語が単純に心温まる美しいストーリーではなく、生々しく、ときに蓋をしてしまいたくなるような現実を突き付けてくるからです。そんな部分も含めて、人間の弱さと生きざま(=死にざま)を考えさせられました。そして、それぞれの人生に、本がどれだけの糧を与えてくれるかということも。

上の写真は、4年ほど前に読んだ医学博士の川島隆太氏と独文学者の安藤忠夫氏による音読論『脳と音読』。実験や研究の結果を通して論じられる音読論でした。『グレゴワールと老書店主』での、ホームでの音読の試みは、まさに音読がもたらすものを知ることのできる実験場となっていました。実はわたしはこの秋に「図書音訳」の技術講習を受講予定で、思いがけずタイムリーな読書となりました。