齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その1。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その1。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しているのですが、前回読んだのがちょうど一年前でした。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


その光景を見るときに起こるだろう、一人一人まったく違っていて、しかし、人間という種としては、多くの部分で共通もする、広く多様で深い複雑な心の動きの総合が「美」と名付けられた。

美しいも汚いも、上手いも下手も、ビックリするところまで行きついたものに、私たちは驚き、感嘆して見つめる。

人間はみんな違うのだから、一人一人の美ももちろん違う。
しかし私たちは同時に皆人間で、あるものには共通して心を動かすことができる。

ほんの200年程前までは、世界中に本物の王様がいて、私たちの美をその人が決めてくれていた。でも私たちはそういうシステムはやめて、美はみんながそれぞれ決めていいことになっている。

表現は大きく拡大しても、心が動くことは、私たちに共通して未だに起こる。美術館はそのきっかけとなったビックリを描きとめたものをとって置き、後々いつでも誰でも確認できる場所として機能し、存在する。

美術を使おう

小さい人たちが描いている絵は(中略)彼らの世界の見え方を、見えた通りに描いているだけ。彼らの絵に描いてある世界の方が、彼らにとっては正しい。

物をつくる実際の作業は、その人の運動神経と密接に関係する。速い遅い、丁寧雑は、個人の資質なのである。走るのが速い遅いと同じように練習で何とかなる部分と、練習ではどうしようもないところがある。作る/造形する部分は、ごく個人的なのである。でも、納得するまで制作にあなたの時間をかけることは、推奨される。

私たちは、どこの目で、何を見ていた/見ている のだろう。見えている物を見えているように描く、目と手の運動の練習。
見えていると思っている物を、再度点検する。思い込みは、本人が思っているよりも遥かに強く、見ることに影響を与えている。
上手に描くことのまえに、丁寧に、見えるように見ることに気づく練習。

美術館に出かけ「人間はこれまでに何を見てきたのか」を見に行く。作品の意味を知るのではなく、そこに描いてあることを素直に見ることができる視点に支えられると、個人の中の美術の理解は劇的に変化する。

作家の思いなんか、端から無視していいのだ。でも丁寧に、注意深く、描いてあるものを見ていき、自分の思いをめぐらせれば、同じ人類が描いたものだから、自ずと描いた人の想いも見えてくる。それだけでなく自分の想いも、その(作家の)想いを感ずることで広がっていく。作家の想いを超えて、あなたの想いを広げてくれるのが、良い絵。本当の意味の鑑賞。

10才未満の、毎日がほとんど非日常である小さい人たちと、非日常の楽しみである美術。を楽しむには、どのような工夫をしなければならないか。美術の目を生活の中で使う練習。見える物だけでなく、見えない物にも、目を配って見る。見えない物だけで、見えることを実験してみる。小さい頃に美術を学ぶということは、上手に絵が描けるとか工作ができるとは別に、「トトロ(見えない物の存在)はいる」と思える想いを持つことができる子供になること。

何かをなすための作業ではなく、そのこと自体を楽しむ。

物を意識的にきちんと壊してみるという作業が、生活の中からなくなっている。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


その2、以降に続く。