読書『グレート・ギャッツビー』(新潮文庫)フィッツジェラルド著/野崎孝訳

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『グレート・ギャッツビー』(新潮文庫)フィッツジェラルド著/野崎孝訳

ゴールデンウィークの読書旅は、ロシア読書『グッバイ、レニングラード』(文藝春秋)小林文乃著、イタリア(読書『ボローニャの吐息』(小学館)内田洋子著)、英国(読書『英国貴族の城館』(河出書房新社)増田彰久(写真・文))と欧州方面を巡っておりましたが、続いてはアメリカ大陸へ。

我が家にある『グレート・ギャッツビー』は昭和49年初版の新潮文庫。カバーには、1974年の映画『華麗なるギャッツビー』から写真が使われています。映画のギャッツビーといえば、わたしが観たのは2013年のデカプリオ版。ですが、1974年版のスナップを見ても、まったく違和感を感じることなく、小説の世界観がいかにしっかりとイメージされていたかを感じます。

『グレート・ギャッツビー』(新潮文庫)フィッツジェラルド著/野崎孝訳

↑こちらで紹介しているのは、同じ新潮文庫でも1989年版。改訳されている点もあるかとは思いますが、訳者は同じ野崎孝さんです。名著の例に洩れず、複数の出版社から文庫が出ていますので、読み比べてみても面白いかもしれないなぁと思いました。

さて何度目かの読書のグレード・ギャッツビー。映画を観て以来2度目ですが、ギャッツビーはレオ様、ストーリーテラーである「ぼく」は初代スパイダーマン(トビー・マグワイア)に脳内でイメージ変換されてお話が進みます。不思議なのは、最初から最後まで登場しているのは「ぼく=ニック」であるのにもかかわらず、わたしにはモノクローム的にしか印象が残っていないこと。ストーリーテラー=黒子に徹したトビー・マグワイアと、対照的に、色鮮やかによみがえってくる「ギャッツビー」レオ様の美しさ。どちらもすごいな、と本を読みながらあらためて思いました。

何度読んでも切ないですね。個人的な悲劇物語のようでありながら、戦争、格差など、当時の社会問題が色濃く反映されていることを強く思った、何度目かのギャッツビーでした。北米の西部と東部。その違い(格差)がどのようであるのか、行ったこともないわたしには、文中から推し量りながら読み進めるしかありません。そのような背景を補うものとして、巻末の、訳者による解説が、この文庫版の読みどころかもしれません。