読書記録のアップが継続できる、シンプルなカラクリ。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書記録のアップが継続できる、シンプルなカラクリ。

ブログで立て続けに読書記録をつけていると「よくそんなに本を読む時間があるね」と言われることがあります。たしかに、忙しくても読書記録を続々とアップできるときがあります。これ実は単純なカラクリがあります。それは「サッと読めるもの」を図書館からたくさん借りてきていること。

「サッと読めるもの」具体的にはどんなものかというと…

  • 細切れの時間を上手に使える短編集
  • 図解や表での解説が多いビジネス書
  • 図解や表での解説が多い論文系書籍
  • 写真が多い美術系書籍
  • 写真が多いノウハウ本(料理本とか)
  • 絵本
  • 絵や写真がメインの大型本
  • 字が大きく行間が広めの軽いエッセイ

などなどなど。

特に最近「絵本」のジャンルが広がってきていて、侮れないと感じています。子ども向けと見せつつ、大人にもわかりやすい解説系の絵本も多く、非常に役に立ったものが少なくありません。これまでこのブログで紹介したもののなかでは『美術館っておもしろい!』『Are You Ready?』などもそのひとつです。

借りてきたからといって、読んでしまおうとこだわる必要が無いのも、図書館本の良いところ。興味を持って手に取った本でも、読み進められるかどうかは、その時の自分の状態にも大きく左右されます。すぐに読めそうにないときは無理をせず、「気持ちよくページをめくる」状態になったときにあらためて開くのが一番です。図書館の本ならまた後日借り直せばよいですし、必要だと分かっている本ならば購入していつでも読めるようにしておけば良いのです。

なにはともあれ、わたしにとっては、自転車で気分転換に出かけるのに丁度良い近所に「行きつけの図書館」があること、その図書館の新刊棚に「わたしが借りたくなる本」が必ずあるという信頼感が、読書習慣ひいては「読書記録のアップ」の強い味方になっています。おかげでさまで「タイトル&表紙イメージ」だけで「まずは借りてみる」ことに躊躇が無くなりました。もし「違うな」と思っても、読むのをやめたらよいだけ。たくさん借りて、読みたいものだけ読んで、速やかに返却する。このサイクルが、読書記録の継続につながっています^^

読書『まちづくりと図書館』(青弓社)大串夏身

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読書『まちづくりと図書館』(青弓社)大串夏身

図書館の在り方をまちづくりとの関連で提言する本です。図書館で見つけ借りてきましたが、これは資料として手元に置いておきたい一冊。報告書というか研究論文という感じの内容ですが、とても読みやすく、わかりやすいです。

図書館を「まちづくり」の中心に置いた取り組みを具体的に紹介しつつ、考察しています。「まちづくり三法」による政策に伴って地方自治体が事業化・計画し取り組んだ、全国各地の事例が載っています。情報源(参考書籍、サイトなど)も巻末にきちんと載っていますので、この本からさらに個別の取り組みをもっと知りたいときには、調べることも容易でしょう。

本書は「図書館」の事例ですが、要は「文化」をまちづくりの中心に据えた自治体の取り組みと考えることができます。「図書館」は「美術館博物館」に置き換えて考えることも可能。公共文化施設としての図書館がその意義を大いに発揮するための取り組み事例の数々は、これからの美術館博物館の在り方を考えるうえでも、とても参考になります。

それにしても、全国各地で図書館を中心にしたまちづくりに取り組んでいる事例がこんなにあるとは思いませんでした。個人的には、福津市の図書館協議会の一員として視察訪問したことのある「伊万里市民図書館」が取り上げられていたのが、嬉しかったです。

公共文化施設としての図書館は、一部の本好き、図書館好きのためだけにあるのではなく、広く市民に使われる場所でなければなりません。市民や市政に対して良い意味で影響力を持つ図書館を目指して、さらに頑張って欲しいな、応援していきたいな、との想いも新たになりました。

読書『文豪たちの断謝離 断り、謝り、離れる』(秀和システム)豊岡昭彦・高見澤秀編

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読書『文豪たちの断謝離 断り、謝り、離れる』(秀和システム)豊岡昭彦・高見澤秀編

「文豪ブーム」が来ていたらしい!と知ったのは、先日読んだ『文豪たちの住宅事情』がきっかけでした。

知るとアンテナがそちらに反応するのかもしれませんね、またまた新刊の「文豪本」を発見しました。タイトルの「断捨離(だんしゃり)」ならぬ「断謝離(だんしゃり)」は、「捨てる」ではなく「謝る」の「しゃ」です。文豪たちが実際に書いた手紙を資料とした本。手紙って、残ってしまうものですね。なんとも生々しいやり取りが迫ってきます。

上の写真、本書の表紙を見ただけでも、そうそうたる文豪の顔ぶれ。皆さん期待(!?)を裏切らない強烈なインパクトの手紙を残していらっしゃいます。個人的には、中島敦、中原中也、太宰治が、トップスリーでした。伝わってきたのは、文豪たちの切実さ弱さだけでなく、その図太さ厚顔さ。自らのことでありながら、どこか他人事を書いているのようにも見える文面に唖然とするものもありましたが、その筆力もまた「文豪」故なのかもしれません。

巻末に載っている「参考文献」のタイトルが、いちいち気になりました。面白いこと間違いないでしょうね。文豪ブーム、まだまだ楽しめそうです。

読書『名画小説』(河出書房新社)深水黎一郎

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読書『名画小説』(河出書房新社)深水黎一郎

新刊棚で表紙に描かれた美術館の雰囲気に惹かれて手を取った一冊。タイトルも作者も存じませんでしたが、大正解でした。上の写真は、その表紙の画から連想した、ロンドンナショナルギャラリー。

タイトルの『名画小説』は、「名画についての小説」ではなく、「名画から連想してできた小説」を意味しています。13の短編=13の名画が題材となっている、短編集。短編ながら、いずれも一筋縄ではいかないストーリー展開に引き込まれ、一気に読みました。

絵画に描かれているものからイメージを読みとり、自らの言葉で「お話」を紡ぎあげていく手法は、アートエデュケーションのプログラム「対話型鑑賞法」でやっていることとつながります。もちろん「お話」をつくっているのがプロの小説家で、「本」としてたくさんの人に読んでもらう前提で書いているというのは、大きな違いではありますが。

それぞれに絵画から導き出されている13の短編にあふれているのは、まさに著者独特の世界観です。こんなふうに作品(小説)化するところまで昇華できると、絵画鑑賞の楽しみもさぞかし大きいことでしょう。そういえば子どもの頃は、絵画からそのような空想世界のお話を導き出していたことを思い出しました。この感覚は、今後のアートエデュケーションプログラムに生かせそうです。

ひとつだけ難を言えば、カタカナ語、とくに固有名詞の多くを漢字表記にしているため、フリガナはついているものの読みにくいというところでしょうか。それもまた敢えてのことでしょう。読み飛ばしたくなるところを、読み飛ばすと訳が分からなくなりますのでグッと我慢して(笑)読み続けました。

深水黎一郎さんの本はこれまで読んだことがありませんでしたが、独特の世界観に俄然興味が湧いてきました。このように、偶然見つけた本からの著者との出会いは、とても嬉しいです。遡って読んでみようと思います。

『アンナと王様』で「マルフォイ」発見。

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『アンナと王様』で「マルフォイ」発見。

マルフォイ、でピンときた方は、ハリー・ポッターファンですね^^上の写真は『アンナと王様』の物語の舞台シャム(現在のタイ王国)のイメージから。

秋の休日、DVDでジョディ・フォスター&チョウ・ユンファの『アンナと王様』を観ました。『アンナと王様』=渡辺謙と、ついつい頭に浮かぶのですが、それはブロードウェイ・ミュージカルの話。こちらは2000年公開の映画版です。チョウ・ユンファの甘い男前ぶりと、セット・美術の豪華さ、の映画評に釣られて手に取りました。

ところが実際に見はじめると、気になったのはチョウ・ユンファでも豪華美術でもなく、主役ジョディ・フォスター演じる家庭教師アンナでもなく、その息子。可愛いよね、どっかで見たことあるよね、あれ…ちょっとマルフォイに似てない!?ということで、こうなるともう目が離せません。画面に映るたびに「やっぱ、マルフォイよね!」の確信を深めつつ、鑑賞終了。

ネットで調べると、やっぱり!でした。ドラコ・マルフォイを演じたトム・フェルトン。彼の名前がトム・フェルトンであるということも、初めて知りました。なにせ、わたしのなかではずっと「マルフォイ」だったもので。それにしても、映画のハリー・ポッターシリーズでは、子役の俳優たちが子どもから青年へ、そして大人になっていく様子をそのまま追うことができたのも魅力のひとつだったのだなぁと、あらためて思いました。

さて『アンナと王様』のトム・フェルトン氏は、ハリー・ポッターの第1作目よりもさらに幼く可愛らしい印象。映画のなかでの設定は10歳でした。ハリー・ポッターで魔法学校のホグワーツに入学できる年齢は11歳。そうかそうか、このすぐあとにドラコ・マルフォイになるのね…と、勝手に合点。

ヤフーニュースに、今年34歳になったという彼のニュースを発見。最近の写真の数々を眺め、年齢を重ねた美形ぶりに、さらに嬉しくなったのでした。そんなわけで『アンナと王様』のストーリーはほとんど印象に残っておりません(笑)。今後機会があればミュージカル版を見たいな、と思いつつ。

読書『文豪たちの住宅事情』(笠間書院)田村景子編著

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読書『文豪たちの住宅事情』(笠間書院)田村景子編著

「文豪」という単語を久しぶりに見たように思いました。ところが巷では、2012年あたりから漫画をスタートとして、ゲーム、書籍と「文豪ブーム」が起こっていたというのです。文豪ブーム。まったく知りませんでしたが、面白い流れだなぁと思います。

文豪と家との関りに興味が湧くのは、一読者としては「あの名作はそんな場所で生まれたのね」との思いから。文豪の書斎を再現した展示が博物館などで見られるのも、そういう想いを持つ人が少なくないからなのでしょう。

本書のタイトルは「住宅事情」となっていて、その考察は「家」という空間にとどまりません。転居の背景、地理的な情報、そして外観や間取りといった家そのものと、まさに「住宅事情」をとりまくお話になっています。

上の写真は本書『文豪たちの住宅事情』の目次ページの一部。ご覧になってわかる通り、まさに文豪の名前がずらりと並んでいます。総勢30名。どこから読んでも面白そうで、ついつい気になる文豪から読もうとしてしまいそうですが、ここはあえて順番通りに読んでみました。文豪一人当たりの文章量は10ページ前後でしたので、読みやすいです。

読み終わって、これまでに持っていたイメージが変わった文豪が数名。それぞれの文豪のイメージは、小説や有名なエピソードや写真を通して頭の中に勝手に作り上げられていましたが、本書で「住宅事情」を知ることで、意外な面を垣間見ることにもなりました。

なぜ今、文豪なのか。「はじめに」に編著者の田村景子さんが書いている論拠に、考えさせられました。いわく「自らが投げ入れられた未知の状況に表現を与えたい、与えなければいられないという切実な欲求」「わたしたちが表現したくとも容易に表現できないことに、鮮烈な表現を与える「文豪」が渇望された」と。時代が文豪を求めているという考えは、決して大げさではないのかもしれません。

映画『永遠の門 ゴッホの見た未来』を見た。

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映画『永遠の門 ゴッホの見た未来』を見た。

図書館で偶然見つけてDVD鑑賞。ここ数年、近代絵画の画家にスポットを当てた映画がよく作られているなぁ…と思っていました。「観に行きたい!」と思いつつ、ひとつも映画館で見るに至らず上映期間が終わる、ということが続いていたので、図書館での出会いはラッキーでした。

が、見始めて数分で「やっぱり映画館で見るべきものだった」との想いでいっぱいになりました。風景はもちろん、一つ一つのシーンがとても美しかったのです。自然の景色だけでなく、街の様子、室内の様子など、ゴッホの遺した絵画に登場する場所が、いくつも忠実に再現されていて、大きいな画面で没入して観たかったなぁ、と。

なんといってもゴッホを演じたウィレム・デフォーが秀逸でした。わたしにとっては、映画スパイダーマンの「親友のお父さん=ゴブリン」のイメージが一番強かった俳優さんですが、ゴッホ(の自画像)にそっくりでびっくり。ゴッホは自画像をたくさん残していますので、わたしたちはその自画像を通してゴッホのビジュアルイメージを持っていますが、そのイメージを全く裏切りませんでした。

弟テオとの関係性、ゴーギャンとの関係性。どちらも分かりやすく描かれていたと思います。ゴッホと彼らとの「手紙」のやりとりを通して残っている史実があるので、リアリティをもって描くことができるのかもしれませんね。特にゴーギャンとの関係性については、切なさがひしひしと感じられました。この辺りのエピソードについては、アートエデュケーター宮本由紀さんの著書『メンタルに効く西洋美術』がとても参考になります。「メンタルマッチョなゴーギャン」「ハイリ-・センシティブ男子、ゴッホ」として巻頭エピソードを飾っています。

映画のラスト。ゴッホは自殺だというのが定説だと思っていましたが、諸説あるうちの「他殺説」をほのめかすラストでした。たしかに映画の通りであれば、やっと心の安定が少しづつ取り戻せるかもしれない環境にたどり着いたゴッホが自殺をするというのは、考えにくいかもしれないなぁ、と考えさせられました。

終盤のゴッホのセリフに、神様が彼を産み落とす時代を間違えた(早過ぎた)、というニュアンスのものがありました。それは、古今東西ゴッホを評価するすべての人の想いだったかもしれません。それをゴッホ自身に言わせることは、ゴッホが自分が評価されないことを悲観してはいなかったということにつながります。映画のなかだけでなく、ほんとうにそうだったらいいな、と思いました。

読書『クララとお日さま』(早川書房)カズオ・イシグロ

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『クララとお日さま』(早川書房)カズオ・イシグロ

久しぶりの、カズオ・イシグロ。日本ではこの3月に刊行された最新刊です。ノーベル文学賞受賞後の第一作目。読むのをとっても楽しみにしていました。そしてその大きすぎる期待を裏切らない読み応えでした。

今回も訳は土屋政雄さん。日本でのカズオ・イシグロ作品は、「早川書房×土屋政雄」が定着しているような気がします。今回もストーリーと日本語の感覚がとてもしっくりする訳でした。読みやすくて、優しくて、情景と心象が浮かんでくる日本語です。

書評が発売以前から書評があちらこちらに出ていますので、大まかなストーリーはご存じの方も多いと思います。人工頭脳を搭載したクララ(ロボットという言い方が、本書中でも意図的に避けられているように感じました)と、病弱な少女ジョジーとの、出会いから別れまでの物語。クララは「AF」なのですが、そのAFが何の略であるかの説明は本書内にはありません。「『A』I」を搭載した「『F』riend」ということなのだろうなと思いつつ。

『クララとお日さま』では、時間軸はひとつであり、シンプルです。そのなかに、人工知能活用の問題、貧富・学歴など社会格差の問題、家族の在り方、愛情の在り方などがテーマとして自然に盛り込まれていました。もちろん、説教臭いものでは決して無く、淡々と問いかけられているような感じがしました。それも頭にではなく、心に対する問いかけ。

クララが持つ自分の仕事に対する誇りと使命への忠実さ。そして「お日さま」への信仰心ともいえる敬意と信頼。その純粋さが切なくなります。気が付けば、なんとかその思いが報われて欲しいと、一緒になって願う自分がいました。わたしはこれまでのカズオ・イシグロ作品のなかでは『日の名残り』が一番好きです。『クララとお日さま』はその次に来るかも、という本。何度も読み返したい本です。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その5。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その5。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


美術探検

「美術作品」を読みとるのではなく、「美術」を見る/知る=鑑賞は個人が各自の体験(知っていること)を存分に使って積極的に作品の中に出かける「表現」になる。

日常の常識でいっぱいの毎日の中に、美術作品によって非日常がするりと入ってきて、ふと自分の今日までを振り返る。自分の個人的な体験の点検と再構築が起こって、これまでの世界が広がる。
各自の世界観が知らないうちに拡大される喜びが、美術を鑑賞する楽しさと目的である。

表現行為としての鑑賞

本物を見るということは、何を見ることなのか。

「鑑賞を表現行為として行う」には、作品と対峙したときに
①作家の想いを含め、描いた人のことは忘れる。
②美術館にあることを含め、権威にまつわることは忘れる。
③キャプションを含め、作品を巡って「字で書いてあること」は忘れる。
→それによって、初めてそこにある作品を「注意深く丁寧に見る」ことができる。

自分で見て「その人自身」が「作品から読み取れることだけ」を使って「自分のお話」を「組み立てる」作業の結果、各自が持っている世界観が自然い拡大するという状況が起こる。そのことを「鑑賞」という。

★鑑賞のアートワークで押さるべきこと。

ものを見て判断する場合に、依るべき基準として使うことができるのは、その時その人の脳に既に保存されている記憶又は試験だけ。
鑑賞するときに使えるのは、その人が既に知っていることだけ。
その時彼らに教えることができるのは「既に持っているモノの使い方」だけ。

=伝えるべきは新しい見方ではなく、見ているものから読みとる方法と、それをもとに、自分が既に持っている情報をどのようにそこに絡めて使うか、というような部分。(←いかにアドバイスするか)

すでに知っていることを縦横に使ってみることによって、もっと知るべき(知りたい)方向と深さが自ずと見えてくる。
無意識に「知らされる」のではなく、意識的に「知る」。

美術はそのほとんどが「見る人の目の問題」である。
自分のために、様々なものを丁寧に注意深く見よう。
それが好きだという感覚は、個人でしか決められない。又は自分で決めなくてはいけないコト。
自分で決めるということは具体的に何をどうすることなのか、その点検に美術は使える。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


その1

その2

その3

その4

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その4。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その4。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


制作しない、しかし美術

(学校教育が苦手とする)個人を自立させる、または個人が自主的に健全な人格を形成できるようにする、という部分を担う。

美術は非日常とか認識の拡大とか、まず確固たる常識と日常が出来上がっていることが、理解の基本に深く関わり、かつ個人の美意識の上に成立する。

美術的な活動=丁寧に、くわしく、深く見る。の場面で使われるのは「美術的な視点」。近代の自立した市民的視点。私たちが、これまでの美術の歴史を通して獲得してきたものは、感性と過去性とかのような曖昧なものを肯定する基礎となるもの。すなわち「一人一人違っていて、一人一人がそこから見ていることを肯定することができる」というもの。

美術作品の鑑賞は、表現教育の大切なひとつ。=見ることを通した自我の形成、美意識の組み立て。=個人の美意識の形成。

個人が(象徴的な意味で)立ち止まって、よく考え、自分で周りを見ながら決める。決めたことを、自分以外の人の見方など気にしないで、自分の責任と覚悟の上で、みんなに見てもらえるよう努力してみる。というような美術・表現の基本的な姿勢。

美術(Fine Art)は哲学的で内省的で専門的で広範囲に各自の人生や世界観に深く関わる部分を含む、総合的でかつ個別な概念である。基本的に美術は、人間の大人のための仕事、活動なのだ。

一人一人の「体験」を、人間としての「経験」に積み重ねる手伝いが美術にはできる。私の感動は私の感動で、その感動は伝えられない。でも感動というものがあるということ、そして、その感覚はこうすれば磨くことができる、は伝えられる。

描けるのは、頭の中に見えるモノだけ、を自覚できる大人になろう。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より