読書『にんじん』(新潮文庫)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『にんじん』(新潮文庫)ジュール・ルナール著

著者自身の少年時代のエピソードを題材にしたという『にんじん』。一話、二話、三話と読み進めながらどんどん苦しくなり、読むのをいったん止め、先に訳者によるあとがきを読んでみました。

「母親による精神的虐待の物語」と、訳者・高野優氏が「あとがき」ではっきりと書いてくれていました。そして、その虐待の物語がどうして「文学」足りえるのか、心理学的な見地も含めて腑に落ちる解釈があり、最後に「この本を読んだ方が訳者と一緒に、にんじんのために涙を流してくだされば嬉しく思う。」と。この「あとがき」を先に読むことによって、あらためて本書を開くことができました。

「負けるな、にんじん!」と思いながら読みました。にんじんが小さな(とても小さな)勝利を手にすると一緒に喜びました。目をつむってしまわずにいられたのは、にんじんに虐待を生き抜く力(抵抗する力、逃げる力)が備わっていたからで、そのことも訳者あとがきで説明されています。それでも、幼少期に心に負った深い傷は、大人になってもずっと残るのですが。

この物語が、虐待のメカニズムと、そこから子どもを救い出すためのいくつかの示唆を読む人に伝えてくれたら。そしてなにより、読んだ人が虐待を受けた子どものために泣いてくれたら。そんな訳者の気持ちも一緒に伝わってくる『にんじん』でした。

わたしが読んだ新潮文庫版は2014年の高野優氏の翻訳版。比較的新しいので、「母親による精神的虐待」の解釈も昨今の時世にあったものになっていると思います。その前にもいくつも訳されているようなので、どう違うか読んでみたいと思いました。

読書『ブッダに学ぶほんとうの禅語』アルボムッレ・スマナサーラ著

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『ブッダに学ぶほんとうの禅語』アルボムッレ・スマナサーラ著

お盆休み中の読書。入門している茶道南方流が、禅寺である円覚寺で受け継がれてきているところから、禅の言葉に触れる機会が増えました。お寺やお茶室で掛け軸になっているのを目にしたり、和尚さんがさらっと口になさったり、初釜茶会でいただく色紙に書いてあったり。気づけば身の周りに禅語がありました。

あまり意味を深く考えることなく、自然に接していた禅語ですが、少し考える機会があって手に入れたのが本書です。著者のアルボムッレ・スマナサーラ氏はスリランカ上座仏教長老ということで、禅宗の人ではありません。その方が、あえて初期仏教を受け継ぐ立場から、よりブッダの教えに寄り添い「禅に関する言葉」を解釈をするという、試み。

歯に衣着せぬ物言いで、一般に広まっている禅語に対する解釈を補足したり修正していく様子は、とても面白いです。禅の言葉に限らず、日頃いかにわたしたちが、言葉を自分に理解しやすいように、あるいは自分に都合よく、解釈しようとしているかを突き付けられたような気がしました。

禅の言葉はいろいろな解釈を呼ぶものがあるけれども、そのずっと根本にあるブッダの教えは明確で、多様に解釈されるようなものではないというお話が、心に響きました。また、禅と初期仏教では立場や手法が異なっているけれども、そもそものブッダの教えはひとつであり、その目指すところは同じというお話には、安心を覚えました。

ところで禅語に関する書籍は、禅の修業とは関係なく「ふつうの人」が日々の生活に生かせるように解釈したものが、たくさん出ていますね。今回少し調べてみて、類書がたくさんあったこと、つまり「禅のことば」や「禅的なもの」に関心のある人がたくさんあるのだなぁ、と再認識しました。

読書『運命のコイン 上・下』(新潮文庫)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『運命のコイン 上・下』(新潮文庫)ジェフリー・アーチャー

小説から歴史を眺める。今回の舞台はソビエト(ロシア)、イギリス、アメリカの近・現代史でした。1968年から1999年の約30年間の出来事として設定されていて、わたし自身が生まれた(1969年)まさにリアルタイムでの世界情勢を垣間見ることができました。

政治・経済、そしてちょっぴり美術の世界を通じて眺める近現代史。タイトルの「運命のコイン」は、主人公がソビエトを脱出して乗る船の行き先を、アメリカにするかイギリスにするかの二択をコインの裏表で決めようというところからついたもの。

イギリス行きの船に乗った場合と、アメリカ行きの船に乗った場合の、両方のストーリーがあり、面白い手法だなぁと思いました。それぞれのストーリーで、主人公がしばしば「もう一方の船に乗っていたらどうなっていただろうか、この選択は間違っていたのではないだろうか」という思いにとらわれるのに対し、読む側はその結果を知っているのですから、なんとも不思議な立ち位置に立たされている感じがしました。

それにしても、その結末をどう理解したらよいか、考えさせられました。アメリカ行きとイギリス行き、最初はかなり異なった道になるように見えたのが、同じようなお終いを迎えることになった二つのストーリーに、苦いものが残りました。

その人の行き先(将来)を決めるのは、結局は環境ではなくその人自身だということでしょうか。持って生まれた宿命があるのか。あるいは母国への抗えない帰巣本能とでもいうべきものがあるのか。それとも、ある種の「欲」ゆえの結果なのか。いずれにしても、タイトルで「運命のコイン」といいながら、コインの表裏は主人公の運命を最終的に決めるものではなかったということになります。

ジェフリー・アーチャーその人自身にも興味が湧いてきました。作品を読み広げていきたいと思います。

読書『クリスマス・キャロル』(新潮文庫)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『クリスマス・キャロル』(新潮文庫)ディケンズ

続々と、読んでいなかった名作シリーズ。『大いなる遺産』からディケンズ作品に興味が湧き、季節外れですが『クリスマス・キャロル』。これもまた、映画になっていたのですね。写真はロンドン・パディントン駅のクリスマスツリー。

「幽霊が三人出てくる話」と聞いていましたが、幽霊の話ではなく、人間の話。「過去」「現在」「未来」にいざなう幽霊が主人公スクルージに見せたものと、スクルージの悔恨。訳者の村岡花子さんがあとがきで、毎年クリスマスがめぐってくるごとに読むと書いておられ、その気持ちがわかるような気がしました。

ディケンズは10代から働きに出ながら、独学で勉強を続け新聞記者になり、ついには文豪と呼ばれるようになった人。その目線で眺めたロンドンの街と人々とが、背景として大きいことをこの本でも感じました。

作品のあらゆるシーンに涙と笑いが同居しているのは、先日自伝を読んだチャップリンに通じるなぁ、と思いました。時代的には、ディケンズが少し先で、そのあとにチャップリンです。これも訳者の村岡花子さんが書いているのですが、「つまるところ、彼は役者であり、彼の演劇の終局の目的はヒューマニズムであったのだ」に、大きくうなずきました。

チャップリンが自伝で「芸術作品には、歴史書などよりずっと多くの貴重な事実や詳細が含まれている」と書いていました。ディケンズの小説もまさにそんな芸術作品のひとつだと思いながら読んでいます。

読書『チャップリン自伝 栄光と波瀾の日々』(新潮文庫)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『チャップリン自伝 栄光と波瀾の日々』(新潮文庫)チャールズ・チャップリン著

チャップリン自伝の後半。前半の読書『チャップリン自伝 若き日々』はこちら。写真はロンドントラファルガー広場。

成功を手に入れてからのチャップリンです。本書の最初の方で、「わたしはあまりにも急に成功を掴んだので、いまだに追いつけないでいるのです。」と話す場面があり、自分自身の「栄光と波瀾の日々」を遠くから眺めているチャップリンの姿を感じました。

前半は、やや冗長です。ハリウッドでの成功=アメリカン・ドリームの体現者としての日々が綴られているのですが、セレブやスキャンダル話には興味のない読者としては、少々退屈を感じました。ただ、業界も国も超えた、その時代の寵児たちとの交流が垣間見られたのは、興味深く。

ともあれ、中盤からラストにかけてが「栄光と波瀾の日々」の読みどころでした。政治に巻き込まれつつ、政治の問題ではなく人間の問題として、口を閉ざさず、正面から向き合った態度に、強さと美しさを感じました。映画『独裁者』での結びの演説の書き起こし文が引用されて載っているのが、必見です。

さいごに、一番心に残った文章をひとつ。

「最近起きた出来事でさえ大幅に歪められてしまうことを考えると、わたしは、歴史そのものに懐疑的になる。その反面、詩的な解釈なら、その時代の全体的な雰囲気を伝えることができる。何といっても芸術作品には、歴史書などよりずっと多くの貴重な事実や詳細が含まれているのだ。」『チャップリン自伝 栄光と波瀾の日々』より。

小説を読んだり、絵画を見たりすることは、その時代を知るための貴重な手がかり。まずはチャップリン作品を腰を据えて見なければと強く思いました。

読書『チャップリン自伝 若き日々』(新潮文庫)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『チャップリン自伝 若き日々』(新潮文庫)

チャールズ・チャップリン著。写真は、昨年ロンドンに行ったときのもの。

読みはじめてまず「そういえばチャップリンは英国人で、ロンドン生まれだったのだ!」と、衝撃を受けました。なにを今更と、チャップリンファンから怒られてしまいそうですね。ハリウッドの印象はありましたが、かといって米国人だとは思わず…つまり「よく知らなかった」ということです。

なにげなく図書館で手にした本書。このところ英国の階級・格差を扱った本を読むことが多かったのですが、図らずもそのことを一番考えさせられる本となりました。

「若き日々」と「栄光と波瀾の日々」の二巻からなる自伝。分量的には、幼少期から米国に渡るまでの「若き日々」が全体の三分の一で、米国で成功を手にしてからの「栄光と波瀾の日々」が三分の二というところです。

さてチャップリン。名前はもちろん知っているし、映画は子どものころにテレビ放送されたものを何回か見たことはありましたから、チャップリンと聞いてぱっと頭に浮かぶ映画のシーンはいくつかあります。でも、ちゃんと腰を据えて観たことが無かったな…と思い至りました。

彼に対してわたしがずっと抱いていた印象は、「目が悲しそう」というもので、「喜劇王」の呼称がしっくり来ていませんでした。今回「若き日々」を読んで、その印象の理由がわかったような気がしています。小さなチャップリンが置かれた厳しい現実を読んでいくのは、苦しさを伴うものでした。「お話」ではなく、当事者の言葉で綴られた自伝だからこそ、ですね。

「若き日々」は、ディケンズの少し後で、シャーロックホームズのブーム到来とほぼ同時代。これらの本を読んでいたことが、時代背景への理解に多少なりとも役立ったように思います。

読書『Google サービス プロ技ベストセレクション』(リンクアップ著)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『Google サービス プロ技ベストセレクション』(リンクアップ著)

この手のマニュアル本を購入したのは、何年ぶりかしら?という感じです。日常的に仕事をする中で、技術的にわからないことは、とりあえずインターネットで検索すれば解決案が出てくる昨今。基本的にはわたしもそれで日々をしのいでいます。

どんどん技術が新しくなっていくので、情報の賞味期限が短いということもあるのでしょう。本を読むひまがあったら、とりあえず試しながら覚えていくのが、一番効率的なのだろうとも思います。いわば「感覚的に身に付ける」のがあたりまえになっている分野。でも実は「身に付けた気になっている」落とし穴があるなぁとも反省。わたくし、スマホもグーグルもまったく使いこなせておりません。

そもそも「紙派」なので、ネットで調べても、画面を印刷して情報を紙に落とし込まないとうまく活用できません。それはまた、結構面倒なんですね(笑)このままでは浦島太郎になってしまうと憂いていたところに本書を発見。最新の2020年版を手に入れました。

「プライベートからビジネスまで プロのテクニックが満載!」とありますが、ビジネスでグーグルサービスを使いこなしている方々にとっては、ほとんどが「知っていること」「もうやっていること」だと思います。なので、どちらかというと「ビジネス利用初心者向け」という印象。

オールカラーで見やすくわかりやすいです。「ググったほうが早い」という声が聞こえてきそうですが、わたし的には、手元において仕事中に「グーグルでこんなことできたよね?」「たしかできたはず!」が出てきたら開く、辞書的に使えて便利な本です。

読書『大いなる遺産』(新潮文庫)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『大いなる遺産』(新潮文庫)チャールズ・ディケンズ著

写真は昨冬訪問したロンドン。

どんどん続く「読んでいなかった名作を」シリーズ。読んでいなかった名作、というよりは、あまたある名作の数を考えれば「わたしはそのほとんど読んでいなかった」と言わざるを得ない(笑)と実感する今日この頃です。それはつまり、これからもいくらでも読むべきものがある!という嬉しい現実でもあり。

ディケンズの自叙伝的要素も含む物語と言われていますが、ストーリーのなかに現れる偶然の出来事(設定)の数々には、いかにも出来すぎている感もあります。だからこそ「お話」としての面白さが盛り上がるのはもちろんですが。「そことそこまで繋げちゃう!?」的な、ばらまかれた伏線を残らず拾っていく感じがありました。

ともあれ劇的で、最近読んだ他の名作同様、『大いなる遺産』もまた映画に舞台にと引っ張りだこなのが理解できます。物語の時代は英国産業革命初期。「資本家」と「労働者」が生まれ、「都会」と「田舎」の対比が大きくなっていく、まさにその時代の葛藤が描かれています。

最近『7つの階級 英国階級調査報告』(東洋経済新報社)、『<英国紳士>の生態学』(講談社学術文庫)で英国の階級社会についての分析を読んでいましたが、その時代に生まれた物語を読むことで、よりその事実が生々しく伝わってくる感じがしました。物語のなかに入って自分自身の感情の動きを通した方が、時代背景を理解しやすいこともありますね。

今回わたしが読んだのは新潮文庫版でしたが、とてもわかりやすく面白く読めました。これもまた各出版社から多様な訳者の方の翻訳で出ていますので、いろいろ読み比べてみるのもいいですね。

読書『嵐が丘(上・下)』(光文社古典新訳文庫)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『嵐が丘(上・下)』(光文社古典新訳文庫)エミリー・ブロンテ著

「読んでいなかった名作を」シリーズ。発行元が光文社さんの「古典新訳文庫」となっているのに、目が留まりました。古典を新訳して出版する文庫文化のおかげで、自分の関心が向いたタイミングで、古典名作を「さあどうぞ」と目の前に差し出してもらえるわけです。ありがたいことですね。

最近はそれに加えて、訳者との相性といいましょうか、同じ本でも読みやすさが変わってくるということに気が付きました。例え一度トライしてすんなり読むことができなくても、訳者が変わると印象が変わるということもあるのが面白さ。今回の訳は、小野寺健氏。

図書館の海外文庫本コーナーで、何度もタイトルが目に留まりながら、はじめて手に取ってきました。著者についても、ストーリーについても、まったく予備知識無しで読書スタート。

びっくりしました。

タイトルから勝手に、英国の丘陵地帯を治める貴族の美しいお話を連想していましたが、間違っておりました。いえ、まったく間違っていたとも言い切れないでしょうか。とにかく読後の第一印象は「ドロドロ路線の昼メロ(昼ドラ)」顔負け(笑)。「昼メロ」がわからない方は、ウィキペディアをご参照くださいね。

さて上下巻通して読み終わり、残ったのは登場人物たちのあまりにも強烈なキャラクター。特にストーリーの中心であった最初のキャサリンとヒースクリフの言動。(「最初の」としたのは、キャサリンもヒースクリフも、もう一人づつ出てくるので。)そのすべての根底にあったのは、彼らに言わせれば「愛ゆえ」でしたが、あまりにも凄まじい自己愛でありました。

解説で、刊行当初はあまり評価されなかったという『嵐が丘』。たしかに諸手を挙げて「素晴らしい!」と称えるには難しいストーリーかも、という気がします。よくぞ名作古典として残ったなぁ、というのが正直な感想でした。刊行当時、この本をめぐってどんな論評がなされたのか、覗いてみたい気がします。

今回読んだのは、光文社古典新訳文庫版。他にも文庫が出ていますし、映画も出ていたのですね。また機会をみつけて読んだり観たりしたいと思います。

読書『オズの魔法使い』(新潮文庫)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『オズの魔法使い』(新潮文庫)ライマン・フランク・ボーム著、河野万里子訳

『オズの魔法使い』と言えば、ジュディ・ガーランドが主人公ドロシーを演じ「オーバー・ザ・レインボー」が大ヒットしたというミュージカル。我が家にも、子どもが何歳の時だったか忘れましたがプレゼントしたDVDがあります。わたしはずっと興味が向かず、観ていなかったのですが、ダンナのお気に入りで「子どもにも見て欲しい」ということで。

さて、文庫のおかげで手に取った『オズの魔法使い』。著者が「現代のおとぎ話になれると嬉しい」と「はじめに」で書いているのが1900年4月。それから100年以上経っている今もなお、ミュージカル映画として世界に知られているのですから、現代のおとぎ話として定着したといえるのではないでしょうか。

映画では設定やストーリーがずいぶん変わっているようですね。映画のストーリーに慣れていた息子は、文庫を少し読んで「だいぶ違う」と本を置きました。映画の方が設定が細かく、わかりやすくなっていたようです。幸いわたしはDVDをちゃんと見ていなかったので、純粋におとぎ話そのものを楽しむことができました。ざっくりした描写や設定も、想像力を自由に働かせるのにはむしろ好都合です。

古典的な「おとぎ話」同様、子ども向けといいながら大人にも刺さる物語でした。訳者の河野万里子さんが「あとがき」で、「アメリカの財産のひとつ」と書いておられましたが、100年以上が経って、本の先にミュージカル映画があって、ストーリーと映像と音楽が合わさって、ひとつの文化的財産になったのですね。

実はわたしが『オズの魔法使い』に興味が出てきたのは、ジュディ・ガーランドの映画「ジュディ 虹の彼方に」の予告編を見てからのこと。映画館に観に行きたいと思いつつ行けませんでしたので、観れる機会を楽しみにしておくことにいたします。今回も、本を読むタイミングの面白さを感じました。