読書『すごい論語』(ミシマ社)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『すごい論語』(ミシマ社)安田登

花祭窯は、創業地の近くに孔子廟(佐賀県多久市)があったことがきっかけで、なんとなく「論語」との縁が続いていています。 今回も、本書を読んであまりにも面白かったので、このところお休みしていた「論語を声に出して読もう!」を再開することを決めました。

論語に関する本ですが、これまでに出ているものと同様の解釈本だと思ったら、肩透かしを食らいます。著者の安田登さんは、論語の専門家ではなく、能の世界の人。対話によって、より深く、より真理に近づこうという本で、対話相手の方々、いとうせいこう氏、釈徹宗氏、ドミニク・チェン氏もまた論語の専門家ではありません。だからこその、真理への飛躍が面白い本です。

著者がプロローグで「社会資源としての『論語』」と書いていました。なるほど論語に限らず、時代も国境も超えて遺ってきている古典は、まさに社会資源。これらの資源をよく生かすことができるかどうか、いにしえの著者に試されているような気がします。

以下、備忘


  • 欠落をもつ者だけが「君子」になれる(いとうせいこう氏との対話より)
  • 文字は「言葉を定着させる」呪術的なツールである (いとうせいこう氏との対話より)
  • 「表」と「裏」片方だけではダメで、両方必要 (いとうせいこう氏との対話より)
  • 衣食住の宗教性(釈徹宗氏との対話より)
  • 分からないものに自分を合わせる (釈徹宗氏との対話より)
  • 芸能・アートの宗教性 (釈徹宗氏との対話より)
  • いかに内在時間を伸ばすか (釈徹宗氏との対話より)
  • 外在化(ドミニク・チェン氏との対話より)
  • ヒューマン2.0 (ドミニク・チェン氏との対話より)
  • 和して同せず (ドミニク・チェン氏との対話より)


読みはじめる前にお名前を知っていたのは、いとうせいこうさんだけでした。が、他のお二方との対話も素晴らしく面白かったので、これから気にかけていきたいと思います。

エピローグで著者が現代の日本の状況を『「俺が、俺が」の世界』と称しているのを見て、ずいぶん前に読んだ、中島らもの本のなかにあった一文を思い出しました。らもの本たくさん読んだので、どれに書いてあったのか記憶が曖昧ですが。

曰く「俺が俺がの『我』を捨てて、おかげおかげの『げ』で生きよ」。登場人物のセリフで言わせていたものです。ストーリー全体としてはギャグというか、笑いながら読んでいたなかに出てきたセリフで、ふと我に返らされたのを思い出しました。

ともあれ、これだけの備忘録では、わけが分からないかもしれませんね。興味のある方は、『すごい論語』ぜひ読んでみてくださいね。

読書『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)

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読書『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)山口周

ニュータイプと言っても『ガンダム』の話ではありません。と、わざわざ書くのは、わたし自身が「ニュータイプ=ガンダム」をイメージしたからにほかならず。現代を生きる我々への問題提起本です。

わたしにとって山口周さんと言えば『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』。今年はアートフェアアジア福岡のプレイベントで講演を聞くこともできました。

本書『ニュータイプの時代』は、七月の講演でお聴きした内容とほぼ重なっていました。講演ではその場に応じた解説や余談がたくさん入り、より理解しやすく共感につながったと思います。こういう心遣いを受け取ることができるのが、直接ご本人の口から話を聞く機会の、最大のメリットかも知れませんね。

かといって、本が難解ということではありません。各項とも「ああ、たしかに」とうなずきながら読むことができます。「なぜそうなのか」理由をより丁寧に説明するために字数の多くを割いている印象があり、「ひとりでも多くの人に、少しでも早く気付いてほしい」著者の思い入れの強さを感じました。

オールドタイプからニュータイプへの変容として、「問題を解く」から「問題を見つける」へ、「役に立つ」から「意味がある」へ、「ルール」から「倫理観」へ、「権威」から「問題意識」へ、「経験」から「学習」へ‥‥と色々出てきます。

なかでもわたしが「やっぱ、これよね」と思ったのは、「役に立つ」から「意味がある」へ。講演の中でも一番「うんうん」と思いながら聞いていた部分でしたが、本のなかでもやはり目に留まりました。

「役に立つけれど意味が無い」と「役に立たないけれど意味がある」

これは、わたし自身が伝統工芸・工芸美術の世界から現代アートの世界を二十数年眺めてきたなかで、まさに鍵となってきた概念でした。日本の伝統工芸を語るとき便利に使われる「用途美」という言葉があります。言い換えれば「意味があるうえに、役に立つ」ということですが、現代の伝統工芸産業界においては、言葉ばかりがもてはやされて、実際のモノはそれを体現することなく、本質が見失われつつあると感じています。今こそ、その過ちに気づくべきと、本書が代弁してくれている気がしました。

オールドタイプからニュータイプへ。わかりやすいカテゴライズで、読む人それぞれが今持っているモヤモヤを晴らしてくれそうです。

郷育カレッジ:ふくつ散歩 福間南編に参加してきました。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

郷育カレッジ:ふくつ散歩 福間南編に参加してきました。

「郷育カレッジ」は福津市が誇る市民生涯学習の仕組みです。様々な分野で年間約100講座。福津市民または市内の事業所に勤務している人は、入会金500円と年会費1000円(+講座により材料費)でいくつでも受講できます。ただし、希望者の多い講座は抽選。近年は満員御礼の講座も多数です。

「ふくつ散歩」も人気講座のひとつ。市内の各地区で、地元のボランティアガイドさんが見どころを案内してくれるシリーズです。住んでいても、行ったことのない場所はたくさん。ふだん車で通り過ぎてしまうところにも、さまざまなストーリーを見つけ出すことができます。

最初に福間南での地域の取り組みなど現状のお話をお聞きした後に、散歩に出かけました。歩いた距離は3キロほどでしたでしょうか。道々ガイドさんが教えてくださった多様なエピソードで、これまで何度となく通った場所にも、少し違って見える景色が生まれました。

今回は「文化財めぐり」ということで、個人的には、亀山神社(古墳)、大日堂の大日如来とお不動さん、うがみ(八龍)神社の絵馬あたりが特に興味深かったです。お堂など、ふだんは閉めているところも、地域で管理なさっている方が、ふくつ散歩のために開けてくださって、拝観することができました。

ご協力くださいました皆さま、誠にありがとうございました!

読書『書くことについて』(小学館文庫)

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読書『書くことについて』(小学館文庫)スティーヴン・キング著、田村義進訳

先日読んだ『読みたいことを、書けばいい。』に触発されて、「文字を書く」ことに意識が向いています。

スティーヴン・キングといえば、わたしの頭に浮かんでくるのは「シャイニング」であり「ミザリー」であり。小説を読むより先に映画を観てしまっているので、自動的にジャック・ニコルソンやキャシー・ベイツの顔が浮かんできます。

本書はタイトルからイメージする文章術の本であった以上に、スティーヴン・キングがいかにして「モダン・ホラーの旗手、スティーヴン・キング」になったかという自伝的な要素が強く、その人生がまた読み物として興味深いものでした。

巻末にある「補遺その二」に、「大原則は、もちろん、たくさん読んで、たくさん書くことである。」(『書くことについて』388ページ)とあり、文章術という側面については、このことをスティーヴン・キングから聞くことができたので大満足。

大御所のイメージのあるスティーヴン・キングが、自分と20歳ほどしか違わないことにあらためて気づき、驚愕するというオマケつきの読書でした。

【開催報告】世界史を建築家の視点で学ぶ!第7回「モダンスタイル」

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【開催報告】世界史を建築家の視点で学ぶ!第7回「モダンスタイル」

株式会社藤井設計室藤井昌宏氏を講師に迎えての「世界史を建築家の視点で学ぶ!」シリーズ第7回目のテーマは「モダンスタイル」。現代に直接つながる時代でした。

以下、備忘。


  • モダンスタイルと、それまでの時代の建築との間にある溝=現代に続く切実な問題。
  • デザインの要素が大きく変化した。
  • 窓、ベランダなど部品のバランス、配置のリズム、必要な要素・素材の組み合わせ、パターンの繰り返し。
  • 例えば、ベルリンの集合住宅=低所得労働者のために、政府が推奨した都市生活(平日は都市で働き、週末は郊外に出かける)。
  • 平面に広がっていた町を、縦に積み上げる。
  • 1920年代、第一次世界大戦後。
  • 〇〇イズム(主義)の出現。
  • 「モダニズム」と「インターナショナリズム(=反ナショナリズム)」。
  • あらゆる分野で才能を発揮するユダヤ人にとって、インターナショナリズムは隠れ蓑になった。
  • インターナショナルな動き=ユダヤ的思考の拡大が、(それを恐れる人たちによる)反対向きの動きにつながってしまった。
  • 歴史建築の軽視=時代の変化、施主の変化。歴史的建築を作れる場がなくなってしまった時代。
  • モダニズムの悪影響「低コスト建築の正当化」「デザイン手抜きの正当化」「合理的思考への偏執」「誠実でない建築家の台頭」。
  • ル・コルビジェ=モダニズム建築。素材の使い方、連続のさせ方、バランスよくまとめあげる力。
  • ファシズム、ダダイズム、構造主義、表現主義。
  • 自分のやることの後ろ盾としての、思想、哲学的考え方。
  • 建築・都市計画・モノのデザイン…すべて同列であり、いろいろやって当たり前。
  • どれだけ苦労して、どれだけ失敗してきたか、が差となって現れる。


話がいろいろな方向に広がり、つながりが前後した内容もありますが、講座内で話題になったそのままの順番でまとめています。

最初の「現代に続く切実な問題」という提起を、参加者それぞれが実感したからこそでしょう。意見交換タイムはこれまで以上に盛り上がり、時間が少々足りませんでした。

次回の第8回は、世界史を建築家の視点で学ぶ!シリーズのまとめ「人の住むところ」です。ここまでの7回で学んできたことの復習もかねて、とても楽しみです。

読書『読みたいことを、書けばいい。』(ダイヤモンド社)

こんにちは。花祭窯・おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『読みたいことを、書けばいい。』(ダイヤモンド社)

写真は、ここ数年で、本屋さんにてわたしに「手招き」した本。

電通を辞めて「青年失業家」となり「書く」と決めた田中泰延氏の初めての著書。

先日、博多マルイのなかにあるHMV & BOOKSでぶらぶらと書架を眺めていたら、この本に手招きされたのでした。同じ博多駅界隈でも、ふだんは紀伊國屋書店か丸善に行くことがほとんどなので、珍しい行動パターンのなかでの手招き。

そういえば前回「手招き」されたのはいつだったかしら、と振り返ってみると、そもそも2年ほど前に読んだ、池上彰さんの『考える力がつく本』(プレジデント社)のなかで、ドン・キホーテ創業者の安田隆夫さんとの対談のなかに「書店めぐりをしているとありますよね。(中略)本のほうから手招きするんです。」という会話が あって、その本を読んだひと月ほど後に、『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』山口周(光文社新書)に手招きされたのでした。そのときは近所のイオンモール内にある未来屋書店。

それまで漠然と積み重ねてきたものが、『世界のエリートは…』によって「アートエデュケーター」というはっきりした仕事へと加速しはじめた2年前。今回の『読みたいことを、書けばいい。』からの手招きもまた、わたしの「書く」への道を加速させるだろうと確信しました。

さて読んでみての一番の感想は、「手招き」は裏切らないなぁ、ということ。わたしにとっては、( 気づいていませんでしたが)今まさに欲しかった本でした。ここ数年、わたしが一番文字を書いているのは、このブログです。ブログを書き続けるにあたり、「(自分が)書きたいことを、書けばいい」スタンスを重視していましたが、もう一歩先に進んで「(自分が)読みたいことを、書けばいい」に至ると、もっとよいのだとわかりました。

「書きたいことを、書く」と「読みたいことを、書く」。その違いを、伝わるように易しいことばで説明するのは、今のわたしには少々難しく。気になった方は、ぜひ『読みたいことを、書けばいい。』を読んでみてくださいね!

映画「記憶にございません!」観てきました。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

映画「記憶にございません!」観てきました。

写真はTOHOシネマズマガジンの最新号から。

タランティーノ監督の「ワンスアポンアタイムイン・ハリウッド」を観る予定が、上映時間と都合が合わず変更。三谷幸喜作品で笑ってまいりました。

邦画を映画館で観るのは久しぶり。ついつい「邦画はDVDでいいか」と思いそうになるところ、原田マハ作『キネマの神様』の巻末解説で、片桐はいりさんが「最初から家で見てもらえばいいと思って映画を作っている人は一人もいない」というようなことを書いていたのを思い出します。

三連休中のTOHOシネマズデイ(大人1200円)とあって、まあまあの人の入り。年齢層はわたしに近い方々が多く、安心して(?)声を出して笑ってきました。

随所に三谷節がピリリと効いていました。批判を笑いにくるめて人々の前に差し出すコメディーの力。ストレートな理想論をセリフに載せても偽善めくことなく、白々しさを感じさせない役者の力。現代に漂うあきらめ感に対して、まだあきらめちゃいかんのだ!と言ってくれる映画でした。

やっぱり、映画館で観るのが一番ですね。

2019年9月の書道部。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

2019年9月の書道部。

読書の秋、食欲の秋、スポーツの秋、芸術の秋。アートフェアを観てきたばかりだったので、今月は「芸術の秋」で。

今回は、5枚目で清書。10枚20枚と書いてもダメなときは全然ダメで、たくさん書けば上手くいくかというとそうでもなく。集中して書けるときと、そうでないときの差が自分でよくわかります。

月に一度、自分に向き合う書道、おすすめです。

タランティーノ。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

タランティーノ。

本日公開の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を観に行きたいなと思いつつ、ちょっぴり振り返り。

タランティーノ作品を初めて映画館で観たのは『パルプ・フィクション』で、その後『ジャッキー・ブラウン』『キル・ビル』と観たのち、遠ざかっていました。タランティーノは10本監督作品を撮ったら引退すると公言していると何かで読んだことがありましたが、最新作は9作目だそうですね。

映画館で観た三本の、ストーリーはほとんど覚えていないのですが、共通して「音楽がカッコよかった」ことが印象に残っています。それまで映画のサウンドトラックを買ったことがなかったわたしが、初めて購入したサントラ盤が『パルプ・フィクション』。

そして、もうひとつこの三本に共通していたのが「キレッキレの女性」の存在。パルプ・フィクションのユマ・サーマン、ジャッキー・ブラウンのジャッキー・ブラウン(パム・グリア)、キル・ビルの栗山千明。

パルプ・フィクションでずっと印象に残っているのが、ユマ・サーマンとジョン・トラボルタがツイストを踊るなんともシュールでコミカルなシーン。この音楽が聞こえてくると、いまだにそのときの両者の表情が鮮明に思い出されます。映画の力、そのなかでの音楽の力って、やっぱりすごいですね。

ジョン・トラボルタといえば『サタデーナイトフィーバー』を観たのはそのはるか昔。当時の面影はどこへやら、ぷよぷよの中年となって『パルプ・フィクション』のスクリーンに現れた彼が、靴を脱ぎ棄ててツイストを踊り出した時に、おおー!と感激したのでした。

読書『ディック・ブルーナ ミッフィーと歩いた60年』(文春文庫)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『ディック・ブルーナ ミッフィーと歩いた60年』(文春文庫)森本俊司 著

ご存知ミッフィー。その生みの親ディック・ブルーナの生涯や制作の背景を、著者が見て、聞いて、調べてまとめたものです。著者は「僕は(ディック・ブルーナの)研究者ではない」と書いておられますが、実際にブルーナ本人やその周りの人たちに何度も会ってインタビューしており、ブルーナが生み出す世界をとっても愛しておられることがわかります。

この本のなかでミッフィーのことを「うさこちゃん」という言い方をすることの理由が書かれていますが、たしかにわたしにとっても、ミッフィーはもともと「小さなうさこちゃん」だったことを思い出しました。

わたし自身がブルーナの絵本に出会ったのは、もう40年以上前、幼少期を過ごした町田の市立図書館でした。子どもの絵本コーナーでブルーナの絵本を開いていた思い出は、今でも鮮明です。そして子どもが生まれたとき、あちらこちらからブルーナの絵本をいただき、再会したのでした。

ブルーナの生涯のどんな出来事や環境が、この世界観をつくりだしたのか。そこには、子ども時代の母親からの大きな愛情だけでなく、戦争やナチスの影、父親との葛藤などもありました。すべての子どもの「子ども時代」を守ってあげたいという気持ちが根底に感じられました。

芸術家としてのブルーナが、どんな時代に生き、どんな人たちの影響を受けたのか、また受けなかったのか。これもまた興味深いものがありました。「現実から出発」することを好み「理論やコンセプトから始まる」ことを好まなかったことや、「見る側の自由な態度に任せ」るというブルーナのスタンスは、わたしにとっては「我が意を得たり」で、ますます好きになりました。

そのブルーナが亡くなったのは、つい2年前。これからますます「ディック・ブルーナ」研究が進むのかな、と感じさせる本書でした。