続々・あらためて蕎麦猪口、文様編。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

続々・あらためて蕎麦猪口、文様編。

文様編、つづきの続きです。

江戸時代中後期、江戸の庶民に広がった蕎麦やうどんとともに、蕎麦猪口も広まっていきます。いわば、庶民文化。文様がたくさん生み出されたと同時に、たくさんの数の蕎麦猪口が生み出されました。

これはつまり、職人たちによる「大量生産」が始まったことを意味しています。肥前磁器の制作工程は細かく分業化されており、「絵付け」ひとつとっても、染付(藍色)の線描き、ダミ(色塗り)、赤絵の線描き、赤絵のダミ(色塗り)と分かれます。さらに線描きのなかでも「器裾の二重線ばかり描き続ける人」「口縁の文様ばかり描き続ける人」「メインの文様を描く人」など…。

それぞれの職人さんは、文様全体ではなく「部分」だけを描き続けるため、次第に文様の意味を考えることなくスピード重視になっていきます。繰り返し、複数の職人さんの手で描き継がれることにより、元の文様が何であったか不明なものが、たくさん生まれました。描き間違えたり、省略してしまったりしたものが、そのまま引き継がれた結果です。

そんな背景もあって、文様の解釈も、時代により、地域により人により実にさまざまです。どの解釈が正しいということではなく、扱う人がそれぞれに自分なりの解釈をして想像を広げていくことも、文様の楽しみの一つであると思います。

だからこそ、現代に蕎麦猪口を作る藤吉憲典のスタンスは、「古典をきっちりその通りに写す」のではなく「最初の一作目の気持ちで、丁寧に写し直す」。縦長の線一本とっても、上から下に向かって描くべきなのか、下から上に向かって描くべきなのかは、それがもともと何を描いたものなのかによって変わってくるのです。

蕎麦猪口という限られた形状に広がる文様世界。日本の四季の美しさ、江戸の人々の生活、異国文化の影響など、扱う人の想像力とともに、世界はどんどん広がっていきます。文様に込められた願い、縁起のいわれなどを知ることで、蕎麦猪口を一層楽しんでいただけるといいな、と思っています。

このブログでも何度もご紹介していますが、やきもの文化は「写し」の文化です。「写し」については、こちらにもご紹介しています。

※『蕎麦猪口の文様小話』「ふじゆりの蕎麦ちょこ蒐集」編より 、一部加筆修正。

続・あらためて蕎麦猪口、文様編。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

続・あらためて蕎麦猪口、文様編。

文様編の続きです。

日本の磁器文化は、1600年初頭に朝鮮半島から伝わり、その後中国大陸のやきもの文化・技術に学び、独自の進化を遂げてきました。その歴史、約400年。やきものの文様世界には、中国・朝鮮の文化が影響しているのはもちろん、遠くインドやペルシャ文化の流れを感じさせるもの、仏教文化の影響を感じさせるものもあります。

こうした渡来文化を倣いつつ、日本(肥前地域=現在の佐賀)の季節や自然など陶工たちの生活文化のなかにある身近なテーマが加わったり、蕎麦猪口が運ばれ使われた江戸の風俗が反映されたりして、日本独自の発展を遂げていきました。

日本の四季折々の美しさが描かれた蕎麦猪口は、季節により器を変え、器で季節を感じる和食文化を、手軽に感じることができる道具のひとつ。蕎麦猪口と呼ばれる筒型の器ひとつの形に、「桜」ひとつとっても百種を超える文様がデザインされているとも言われています。

次回はその文様を「引き継ぐ」ことの実際についてお話します。

※『蕎麦猪口の文様小話』「ふじゆりの蕎麦ちょこ蒐集」編より 、一部加筆修正。

あらためて蕎麦猪口、文様編。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

あらためて蕎麦猪口、文様編。

に続いての三篇目は文様について。

現代作家として、藤吉憲典が蕎麦猪口にどのように文様をつけているか。これは蕎麦猪口以外の和食器にも当てはまるところがありますので、「蕎麦猪口」と書いているところを「器」と読み替えていただいても大丈夫です。

一般に、やきものにおける和食器のデザインは、古典文様の写しが引き継がれていることが多いです。これは藤吉に関しても同じく。今、我が家の展示スペースに並んでいる器の顔ぶれを見ても、八割から九割方は、江戸時代の古典に倣い、発展させたものです。

骨董の世界でも収集者の多い蕎麦猪口の面白さ、人気の秘密のひとつは、バラエティに富んだ文様世界。研究者により数百種、数千種ともいわれる多様な文様が大きな魅力です。

骨董品の実物や破片あるいは写真資料で垣間見ることのできる、蕎麦猪口に描かれた文様の種類は、干支、昆虫、動物、草花、幾何学文、人物、山水、気象、季節の風物など多種多様。世の中のあらゆる事象が文様の素材となるのでは、と思えるほどにデザインの宝庫です。

次回は、その中身を少し見てまいりましょう。

※『蕎麦猪口の文様小話』「ふじゆりの蕎麦ちょこ蒐集」編より 、一部加筆修正。

続・あらためて、蕎麦猪口。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

続・あらためて、蕎麦猪口。

昨日の「あらためて、蕎麦猪口」の続きです。2004年に発行した、蕎麦猪口の魅力をまとめた小冊子「蕎麦猪口の文様小話」から抜粋してご紹介。


はじめに~そばちょこって(後半)

※「はじめに~そばちょこって」前半はこちら

猪口(ちょこ/ちょく)の語源としては、中国語で盃(さかずき)の意味を持つ「鍾」(しょう)の発音からきているというのが有力のようです。「猪口」の漢字を当てはめたのは、器の形が猪(イノシシ)の口に似ているから、とか。

現在では「猪口=おちょこ」で盃などを呼ぶのに使われるのが一般的ですが、古くは今で言う小鉢の役割に近いものが猪口と呼ばれ、かたちも大きさもさまざま。用途も和え物などの料理を盛る、調味料を入れて皿に添えて出す、飲み物を飲むのに用いるなど幅広く、いろいろな形のものを総称して猪口だったのだろうと想像されます。

そんななかで蕎麦のつけ汁用に程好く、また蕎麦湯のの身勝手の良い形、サイズのものが蕎麦猪口と呼ばれるようになったわけですね。そんな背景を知ってみると、現代のわたしたちが「食べる」「飲む」さまざまな場面で便利に蕎麦猪口を使うのも、なるほどあたりまえに思えてきます。

※『蕎麦猪口の文様小話』「ふじゆりの蕎麦ちょこ蒐集」編より


次は文様の話に続きます。

あらためて、蕎麦猪口。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

あらためて、蕎麦猪口。

蕎麦猪口は、作家・藤吉憲典にとっても、わたし自身にとっても、花祭窯を営んでいくうえでの一つの精神的支柱です。いわば、基本のなかの基本。

藤吉憲典の器=肥前磁器の素晴らしさを知っていただく入門編として、ご相談があった時には、蕎麦猪口をお勧めしています。その理由は、もともとはやきもののド素人であったわたし自身が、蕎麦猪口の魅力に引っ張られて学んできたからにほかなりません。

蕎麦猪口を楽しむことは、日本の磁器の歴史や江戸時代の風俗を学ぶことにつながり、食べる器・飲む器と食文化を考えることにつながります。実用的に楽しみながら教養が身につく。そのきっかけとなる器が、蕎麦猪口です。

そんな蕎麦猪口の魅力をまとめた小冊子「蕎麦猪口の文様小話」をまとめたのは、16年前。引き出しを整理していたら出てきたので、少しづつ内容をご紹介することにいたしますね♪


はじめに~そばちょこって

「蕎麦猪口」ってなんでしょう。そもそも小碗、小鉢のような形のものが「猪口」と呼ばれており、「そばちょこ」は「蕎麦」用の「猪口」だから、蕎麦やうどんのつけ汁を入れる器。

わたしたちが「蕎麦猪口」と呼ぶ器が盛んに作られたのは、蕎麦やうどんが庶民の食文化として広まった江戸時代中期~後期。ところがそのころ既に「そばちょこ」という言葉で呼ばれていたかというと定かではないそうです。

※『蕎麦猪口の文様小話』「ふじゆりの蕎麦ちょこ蒐集」編より


つづく。

写しで、質を上げていく。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

写しで、質を上げていく。

「写し」の文化については、過去にもたびたび話をしています。

江戸時代から続く、日本のやきもの(和食器)文化の継承は、「写し」によってなされてきたとも言えます。「コピー」が質を劣化させながらの表層的な真似であるのに対して、「写し」はオリジナルを超える良いものを生み出そうとする行為。

創業から20年以上経つと「古典文様を写してつくったもの」もたくさん。そこからさらに「自分が過去に写したものを、さらにグレードアップさせる」制作へと続いていきます。かたちをつくるときも、文様を描くときも、前作よりもっと良いものを、と。永遠にゴールは無いなぁと、見ていてつくづく感じます。

写真は、藤吉憲典の「染錦丸文そら豆型小皿」。現代的な三つ足のそら豆型小皿に、江戸の人気文様「丸文」を写した、創業初期からの定番です。昨日、久しぶりに窯から上がってきたのを見て、あらためて写しの面白さを思いました。

染錦丸文そら豆型小皿 藤吉憲典

思わぬところから、お題。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

思わぬところから、お題。

創作のヒントはどこに転がっているかわからないものですね。ほんとうに、思わぬところから、絶妙なタイミングでお題が降ってきました。

実際のところ、客観的に面白そうと思えるお題が降ってきても、作家本人・藤吉憲典が「面白そう!やってみたい!」と思わなければ決して「かたち」にならないので、これはまさにタイミングです。

昨年から藤吉憲典が積極的に制作をはじめた「陶板レリーフ」。磁器彫塑による半立体に彩色での表現というのは、誰にでもできるものではなく、技術とセンスが最大限に発揮できる土俵です。これまでに、人魚シリーズやシマウマシリーズの作品ができていますが、ここに「歌舞伎」というお題が降ってきました。

上の写真は、さっそくの第一作目。ひとつ作ると「甘いところ=ここをこうすればもっと良くなる」が見えてくるそうで、ここから先の展開が待ち遠しいところです。どうぞお楽しみに!

着々と納品中。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

着々と納品中。

ダンナ・藤吉憲典が今年の書き初めで 「目の前のことを丁寧に一つずつ」 と書いたとおり、昨年からお待たせしていたご注文品の制作・納品が、ひとつづつ進んでいます。この上半期は特に、そこにしっかり注力してまいります。

お客様に器や作品をお届けできるのは、やっぱり嬉しいです。お届け前に「お待たせいたしました」と発送のご連絡をすると、皆さん喜んでくださいます。つくり手を信頼してお待ちくださっていることが伝わってきて、ありがたいなぁと、つくづく思います。

特に和食器は、季節にタイミングよくお使いいただけるよう順番を意識したり、お店のオープンに合わせてお送りできるようにしたり、出来るだけ心配りしたいと考えています。一人でつくる=限られたキャパシティのなかで、どう割り振りするか。

「待った甲斐があった!」とおっしゃっていただけると、「よかった!」と安堵します。器もアートも、旧作も新作も、ご期待以上のものを作ってお届けしたいと、全力で取り組んでいるつくり手の姿を見ているので。

ご注文をくださっている皆さま、ぜひ楽しみにお待ちいただけると幸いです。

日本で、藤吉憲典のアートを。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

日本で、藤吉憲典のアートを。

ご覧いただき、お買い上げいただける場所ができました!

これまで海外個展用か、特定のお客さま用に作ることがほとんどでしたので、津屋崎の花祭窯にお越しくださっても作品をご覧いただけないこともありました。「国内ではどこに行けば見れるの?」とのお問い合わせに、ようやくお返事できることを嬉しく思います。

「インテリアアート」を提唱する、インポートインテリア・DONO(ドーノ)さん。東京・青山エリアにあるDONOさんのショールームで、ご覧いただくことができます。 数は多くはありませんが、藤吉憲典の作品世界と、アートを自分の生活空間に採り入れたときの豊かなイメージを感じていただける場所です。

オーナーの上田桐子さんのアートに対する考え方は、これまでのわたしたちのスタンスと共通点がとても多く、ぜひ作品をお任せしたいと思いました。藤吉憲典のアート作品は、特別な展示スペースを必要とするアートではなく、ふだんの生活空間・仕事空間を彩るアートが多いです。桐子さんから「インテリアアート」という言葉を聞いたとき、そのコンセプトがぴったりと理解できました。

日本でのアート作品紹介はここがスタート。これからの展開がとっても楽しみです。

美しい英文。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

美しい英文。

何年か前に『英語のお手本 そのままマネしたい「敬語」集』という本を手に入れて、いつも手元に置いています。同じ意味でも、より丁寧で品のある言い回しや表現ができるといいな、という思いです。瞬発力の求められる会話の場面では難しくても、せめて少々時間をかけることのできるメールでは、少しでも丁寧な英語を使えるようになりたいと思いつつ。

ところが実際には、なんとか伝えるので精いっぱい。「より丁寧で品のある言い回し」への道のりははるか遠く。そんなわたしにとって、一番身近なお手本は、ロンドンのギャラリーからくるメールの文面や、彼らが作ってくれる、藤吉憲典の紹介文など。「そっか、こんなふうに言ったらいいんだ!」と発見ばかりです。

昨年12月のロンドン個展の際に彼らが作ってくれたカタログが先日手元に届き、あらためて英文表現の妙に嘆息。わたしも英文でも作ってみていたのですが、日本語原文は同じなのに、英文表現がまったく違っていました。

以下、藤吉憲典のアーティストステートメントをご紹介。ロンドンのハイエンドギャラリーが英訳すると、このような表現になる!のです。


Kensuke Fujiyoshi artist statement

For me, making art is about filling in the gap between the world of reality that you see before your eyes and the world of fantasy inside your head.

I create because I want to create. I don’t create anything I don’t desire to. These desires come to me one after another. I think that the reason I exist is to create.

I’m always thinking about how I can make works that I find satisfying. Day by day, I constantly make small improvements; I imagine that I’ll never be able to create something that is perfect to me. This makes me want to keep creating all the more.

My creativity finds its source both in the familiar beauty of nature experienced in everyday life, and in the beauty possessed by traditional objects. To see, and feel, shape and colour. The primary experience of one’s own senses is everything.

For someone simply to tell me that they like my works is my greatest happiness. As for the message I’d like to convey through them. I leave that for each person receiving it to interpret. The message of each work is simply the feelings of the people who experience it.

If however, I do have one particular obsession, it is this; to use traditional techniques to express something new. There is meaning in continuing to create through the work of your own hands. Without excessive concern for originality, I use the techniques I have inherited to build my own form of expression.

Pottery is something fragile. But if handled carefully it can be last hundreds of years. My aim is to make things that will be loved a thousand years from now.


日本語での言い回しの意図を汲んで、このように英文化してくださるギャラリースタッフに、心より感謝です。