『スカーレット』

読書『スカーレット』(新潮社)アレクサンドラ・リプリー著/森瑤子訳

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『スカーレット』(新潮社)アレクサンドラ・リプリー著/森瑤子訳

林真理子著『私はスカーレット』にすっかり魅了され、このあとスカーレットはいったいどうなるのやら…と、気にかけていたわたくし。

マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』の後を受けたアレクサンドラ・リプリーによる続編『スカーレット』が、ちゃんと図書館にありました!で、さっそく借りに行き、まず驚いたのがその厚さ。上の写真を見るとわかりますが、なんと6cm超、ページ数にして1090ページ。今なら文庫版でなくても分冊にするだろうな、というところですが、この厚さと重さも含めて迫力の一冊でした。

スカーレットの「その後」は、マーガレット・ミッチェル本人が書くことを良しとしなかったため公募されたといわれており、世界中の熱烈なスカーレットファンが、それぞれに「その後」の物語を紡いだのだと思うと、ドキドキしました。たくさん寄せられたであろう「続編」のなかから見事その座を射止めた本書は、質・量ともに期待に違わずお腹いっぱいになるものでした。

森瑤子さん訳の本書、林真理子著を読んだ後で、ほぼ違和感なくしっくりときました。もしかしたら、林真理子氏が森瑤子訳の『スカーレット』のイメージをある程度意図的に踏襲していたのかもしれないな、と感じました。森瑤子さんと少しだけ異なる点としては、林真理子さんは黒人や地方の登場人物のセリフに方言のような日本語を当てていません。これは出版された時代の違いだと思います。ともあれ、とてもスムーズにストーリーに入り込めたのは、世界観に大きなずれが無かったからであり、大切なポイントだったと思います。『私はスカーレット』は一人称での訳本ですが、スカーレットの一人称語りはアレクサンドラ・リプリーの『スカーレット』から始まっていたので、そこが踏襲されていたのも良かったのかもしれません。

さて『スカーレット』。『風と共に去りぬ』のアメリカ南北戦争に対して、イギリスのアイルランド問題を持ってきたところに、ただの大恋愛小説としては終わらせない著者の意気込みを感じました。人種と階級、持つ者と持たざる者。わたしにとっては、アメリカとイギリスの歴史の一側面を知るための興味深い教材にもなりました。そして、スカーレットとレット・バトラーのすれ違いは、これでもかというようにまた繰り返されながらも、少しづつ距離を詰めていく感じが絶妙でした。読者に二人の愛が成就するという確信を疑わせないあたりは、続編を書く上で不文律だったのでしょう、安心して読み進めることが出来ました。

残りのページ数が少なくなるにつれ、もうすぐスカーレットとバトラーが今度こそ気持ちを通じさせるはず!という期待と、もうすぐストーリーが終わってしまうことに対する寂しさが、ないまぜになって押し寄せてきました。林真理子氏の『わたしはスカーレット』にはじまり、こんなに気持ちを持っていかれた読書は久しぶりでした。こうなると次は、もう一度『風と共に去りぬ』に立ち返らねばと感じています。その次は原著に挑戦することが出来たら良いな、と。続編の『スカーレット』も、原著からするとずいぶん意訳されているという評価もあるようなので、やはり原著を読んでみるべきかな…と。これを全部果たそうとしたら、読書時間がいくらあっても足りなくなりそうですが(笑)。おかげさまで、すっかりスカーレットのとりこです。

投稿者:

ふじゆり@花祭窯

花祭窯(はなまつりがま)の内儀(おかみ)であり、Meet Me at Artを主宰するアートエデュケーターでもある、ふじゆり のブログです。