読書『希望の一滴 中村哲、アフガン最後の言葉』(西日本新聞社)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『希望の一滴 中村哲、アフガン最後の言葉』(西日本新聞社)

2019年12月4日に亡くなった、ペシャワール会中村哲先生の、生前の記事やインタビューをまとめた一冊。亡くなられて1年以上が過ぎ、関連するたくさんの本が出版されていますが、本書は中村先生自身による西日本新聞への連載記事と、ペシャワール会の会報への原稿が中心になっています。

ペシャワール会は1983年、中村哲医師のパキスタンでの医療活動を支援する目的で結成された国際NGOです。以後、中村医師の活動がアフガニスタンへと広がって行く中、中村医師が率いた現地事業体PMS(Peace Japan Medical Services 平和医療団・日本)を支援し続けています。( 『希望の一滴 中村哲、アフガン最後の言葉』(西日本新聞社) より)。

福岡県は中村医師の故郷であり、ペシャワール会の事務局も福岡にあります。そのため、ほかのエリアよりは、中村哲さんのアフガニスタンでの活動について見聞きする機会が多い方であると思います。わたしの周りにも、直接間接的に中村医師と関わっている方々が少なからずあり、なかにはご親戚や、ともにアフガニスタンで活動した方もいらっしゃいます。

それでも、実際にどれほどの活動をなさっていたのかを、もっとしっかり知らなければとわたし自身が自覚したのは、中村医師の訃報に接してからでした。本書でもあとがきにありましたが、亡くなったことによる喪失感の大きさと、亡くなったことにより広くその事業と理念が知られるようになり、支援の輪がさらに広がっているという現実が、両方あるのだと思います。

特に福岡県内においては、2020年以降、各地で中村医師の活動の軌跡を知らしめる展示や講演などのさまざまな活動が、地道に展開されていました。コロナ禍において、それぞれの活動は制限を伴ってはいましたが、ほんとうにあちらこちらで、あらためて中村医師の活動・理念を知るための機会が設けられ、その流れは今も続いています。生前から実際に関わってきた方々が、使命感を引き継ぎ、声を上げ始めている感じがいたします。

我が家では、ここ津屋崎に移転して以来西日本新聞を購読していますので、中村医師の連載もリアルタイムで読んでいたはずですが、すっかり忘れていることも多々。あらためて書籍になったものを読み直すと、やはり感嘆せずにはいられません。なかでも「第4章水のよもやま話」は、困難ななかでの活動継続を支えた中村哲さんの源泉・人となり、自然界や人間へのまなざし、文化感・歴史観が伝わる文章となっています。アフガニスタンの問題は、アフガニスタンだけでの問題だけではないということが、切迫感をもって伝わってきます。ほんとうに憂うべきは何か、自分自身の問題として考えることが求められます。

活動内容の詳細については、本書をはじめとした関連書籍や、ペシャワール会事務局ホームページでの情報提供をご参照いただくと、より理解が深まるかと思います。

読書『グレゴワールと老書店主』(東京創元社)マルク・ロジェ著、藤田真利子訳

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読書『グレゴワールと老書店主』(東京創元社)マルク・ロジェ著、藤田真利子訳

こちらもいつものカメリアステージ図書館新刊棚から。「老書店主」のタイトルに釣られて借りてきました。「老書店主」は智恵と教養の宝庫!のイメージ(思い込み)があります(笑)。まったく前情報無しに読みました。読み終わってから確認したら、著者は西アフリカ・マリ共和国生まれとのこと。著者の詳細は分かりませんでしたが、フランスで朗読活動をなさっているようです。初著となるこの物語の舞台もフランスの地方の町。

そういえば今年の初めに読んだ『忘却についての一般論』の舞台が、アフリカ・アンゴラであり、著者のジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ氏はアフリカ生まれでした。原著はポルトガル語で書かれていたと思います。いろいろな国で出版される本を(言語を)翻訳してくださる方々のおかげで、いろいろな国にルーツを持つ作者の紡ぎだすいろいろなお話を読むことができるありがたさ。

さて『グレゴワールと老書店主』の舞台は、高齢者福祉施設と思しきホーム。高校を卒業したばかりの施設職員「グレゴワール」青年と、人生のすべてであった書店を売り払い施設で残りの人生を送る老書店主との、「本の音読」を通じた交流の物語。青年が、老書店主との「音読の訓練」によってたくましく成長していくようすを、ときおり拳を握りつつ見守る読書となりました。

ときおり拳を握りつつ、というのは、この物語が単純に心温まる美しいストーリーではなく、生々しく、ときに蓋をしてしまいたくなるような現実を突き付けてくるからです。そんな部分も含めて、人間の弱さと生きざま(=死にざま)を考えさせられました。そして、それぞれの人生に、本がどれだけの糧を与えてくれるかということも。

上の写真は、4年ほど前に読んだ医学博士の川島隆太氏と独文学者の安藤忠夫氏による音読論『脳と音読』。実験や研究の結果を通して論じられる音読論でした。『グレゴワールと老書店主』での、ホームでの音読の試みは、まさに音読がもたらすものを知ることのできる実験場となっていました。実はわたしはこの秋に「図書音訳」の技術講習を受講予定で、思いがけずタイムリーな読書となりました。

「聴く」の訓練と、「見る」の訓練に、共通点。

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「聴く」の訓練と、「見る」の訓練に、共通点。

英字新聞「the japan times alpha」購読をスタートして半年以上が経過しました。購読者会員向けのサポートが充実したサイトClub Alphaが、自習での学習をサポートしてくれます。紙で届いた英文記事を読み上げてくれる音声と、それらに質疑応答も含めて「多聴」を促す「リスニングとインプット」のための音声コーナー。おかげさまで「目で読む」だけでなく「耳で聴く」訓練も取り入れられるようになってきました。

コーナーのひとつに『「英語が聞き取れない」を治療するイングリッシュ・ドクター西澤ロイのListening Lecture』なるものがあります。そのレクチャーの最初に「リスニングは意味を考えずに聴くべし」というものがありました。いわく、広い意味でのリスニングという行為は「1.音を聞き取る、2.言葉に変換する、3.意味を理解する」の3つに分けられるということ。そしてそれぞれは、別々に鍛えられるべし、と。

それによると、まずは「何と聞こえるか(耳)」に集中することが大切で、そのあとの「言葉に置き換える」はいわば「リーディング」の仕事。まず聞く(リスニング)、次に言葉に置き換える(リーディング)、ここまでで「聞こえたものと言葉を一致」させ、最後に意味を理解する。これを繰り返し訓練していった結果として、最終的に「音が聞き取れて、(無意識に)意味が分かる」という状態になるのだということです。この手順は、赤ちゃんが言葉を覚えて話せるようになるまでのステップと全く同じだという解説に、なるほど納得。( Club Alpha 『「英語が聞き取れない」を治療するイングリッシュ・ドクター西澤ロイのListening Lecture』 参照。)

これを読んで、美術鑑賞の手順と共通点があることに気づきました。本来の(と、わたしが考える)美術鑑賞は、まずは意味(文字・テキスト)のことを考えずに絵や彫刻などの美術作品そのものを観て「何が見えるか(目)」に集中することがなによりも大切です。「何が見えるか」が出てきたら、「何が見えるか、どう見えるか」を書き出し(リーディング)、最終的に「それはなぜだと思うか(意味)」を自分で導き出します。「受け取る→言葉に置き換える→意味を導く」という手順ですね。受け取る器官が、リスニングは耳であり、美術鑑賞は目であり。

美術鑑賞と英語のリスニングとの大きな違いは、英語の場合は、音と結びつけられる言葉にも意味にも一般的に共通理解される「正解(おおよその)」があるのに対して、美術鑑賞から導き出される意味には決まった正解は無く、すべての解は鑑賞者それぞれのなかにあるということ。

いずれも、最初の段階「何と聞こえるか」あるいは「何が見えるか」で、雑念(文字情報)を入れずにそのままに受け取ることが重要です。そして一見簡単そうにみえる「そのままに受け取る」ことも、それができる耳や目を手に入れるのには、繰り返しの訓練が役に立つということも共通点。思いがけず英語学習の手順に美術鑑賞教育との共通点を発見したところでした。

葉月スタート。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

葉月スタート。

夏真っ盛り。とっても個人的なことですが、夏生まれなので、7月8月はなんとなく嬉しくてテンションが上がります。単純ですね。もともと単純ではあるのですが、年齢を重ねるごとに、こういう単純さをさらに大切にしたいと思うようになってきました。

朝から賑やかだったセミは、お昼前に少し静かになりました。赤トンボが目につくようになり、夏茜(なつあかね)とはよく言ったものですね。夕方から遠雷が聞こえていたと思ったら、昨晩はザーッと雨。このところ津屋崎はずっと晴れ続きでしたので、農家の皆さんには恵みの雨になったかもしれません。

数日前に、近くの海の沖合でシュモクザメの群れが目撃されたと注意が来ていて心配しましたが、今日も浜辺にはたくさんの人。この夏のトピックスとしては、ご近所に「グランピング」なる今風の施設が完成しました。アウトドアのイメージとはかけ離れている感じがするのは気のせいでしょうか。そのエリアから直接浜に降りることはできませんが、それでも海の近くというのは立地イメージ的に強いのでしょうね。

そのほかにご近所での変化と言えば、コミュニティスペース&民泊の王丸屋さんで、イチゴミルクのカキ氷販売がはじまりました。お友だちでもある店主がカキ氷を始めたというので、試しにいただいたところ、期待を大幅に上回る美味しさでした。イチゴと特濃ミルクで作った氷をカキ氷にしていて、水を使っていないというこだわりよう。濃厚な味わいです。これが一杯300円ですから、かなりお得♪津屋崎千軒方面お散歩の際には、王丸屋さんでの避暑休憩をおススメいたします。冷たい飲み物も販売していますし、何も買わなくてもOKです。

花祭窯の小さな露地には、濃い緑が生き生きとしています。百合の花が終わったあと、しばらく花の無い状態が続いていますが、昨日は百日紅(さるすべり)の木につぼみを発見。我が家の百日紅は、毎年ご近所よりひと月近く遅咲きで、これからが楽しみなのです。

そんな夏を生活のなかで体感しつつ、今日も淡々とお仕事です^^