TNC「華丸・大吉のなんしようと?」(9/3放送)に撮影協力しました。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

TNC「華丸・大吉のなんしようと?」(9/3放送)に撮影協力しました。

福岡ローカルですが、テレビ西日本(TNC)さんの博多華丸・大吉さんの番組「華丸・大吉のなんしようと?」(9/3放送)に撮影協力しました。毎週、博多華丸・大吉さんが福岡県内の市町村を巡り、地元の人々と触れ合う人情バラエティー番組。

「華丸・大吉のなんしようと?」(9/3放送)に撮影協力
「華丸・大吉のなんしようと?」(9/3放送)に撮影協力

番組サイトでアーカイブを拝見すると2009年からの記録があり、10年以上続く人気番組であることがわかります。ここ福津の特集もすでに何回かあった模様。事前打ち合わせの際に、だからこそまだ取材していない場所を紹介していきたいとおっしゃるプロデューザーさんの熱意が伝わってきました。

レッドウルフ 藤吉憲典

当日は、特にフィギュア系のアート作品で盛り上がりました。短い放送時間枠で、バラエティーですから面白く笑える会話にしていきながらも、作り手への敬意をもってきちんと人物紹介をしていこうとしてくださる手腕が垣間見え、さすがプロだなぁと思いました。華丸・大吉さんのお人柄が伝わってきたのはもちろん、事前打ち合わせから当日、そして後撮りまで、携わってくださったスタッフの方々の、心配りが伝わってくる放送でした。

7月に放映されたのNHKBSプレミアム『美の壺』もそうでしたが、番組制作にかかわる方々のプロフェッショナルな仕事を拝見することができました。テレビは特に、見る人が減っているとはいえまだまだ影響力は大きく、実際に放送されるまでどのように扱われるかがわかりにくいこともあり、メディアとしては諸刃の剣にもなりえます。そんな懸念もあり、仕事の性格上お断りすることも多々ありました。でもこの夏は、つくづく恵まれた取材が続き、ほんとうにありがたく感謝しています。

花祭窯のある津屋崎は、福岡ローカルのテレビ局がよく取材に来ます。明治時代から続く豊村酒蔵さん国登録有形文化財の藍の家民泊兼コミュニティスペースの王丸屋さんなど、昔ながらの画になる街並みが残っていることや、すぐ近くに海があるロケーションが、映像的に良いイメージなのだろうなと思います。最近はここにリサイクル着物と着付けのプロ・時代屋さんも加わり、街並み歩きの魅力が増してきています。

津屋崎方面お越しの際は、ぜひ街歩きをお楽しみください。もし花祭窯にも訪問を、という時は、必ずあらかじめご連絡くださいね。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その5。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その5。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


美術探検

「美術作品」を読みとるのではなく、「美術」を見る/知る=鑑賞は個人が各自の体験(知っていること)を存分に使って積極的に作品の中に出かける「表現」になる。

日常の常識でいっぱいの毎日の中に、美術作品によって非日常がするりと入ってきて、ふと自分の今日までを振り返る。自分の個人的な体験の点検と再構築が起こって、これまでの世界が広がる。
各自の世界観が知らないうちに拡大される喜びが、美術を鑑賞する楽しさと目的である。

表現行為としての鑑賞

本物を見るということは、何を見ることなのか。

「鑑賞を表現行為として行う」には、作品と対峙したときに
①作家の想いを含め、描いた人のことは忘れる。
②美術館にあることを含め、権威にまつわることは忘れる。
③キャプションを含め、作品を巡って「字で書いてあること」は忘れる。
→それによって、初めてそこにある作品を「注意深く丁寧に見る」ことができる。

自分で見て「その人自身」が「作品から読み取れることだけ」を使って「自分のお話」を「組み立てる」作業の結果、各自が持っている世界観が自然い拡大するという状況が起こる。そのことを「鑑賞」という。

★鑑賞のアートワークで押さるべきこと。

ものを見て判断する場合に、依るべき基準として使うことができるのは、その時その人の脳に既に保存されている記憶又は試験だけ。
鑑賞するときに使えるのは、その人が既に知っていることだけ。
その時彼らに教えることができるのは「既に持っているモノの使い方」だけ。

=伝えるべきは新しい見方ではなく、見ているものから読みとる方法と、それをもとに、自分が既に持っている情報をどのようにそこに絡めて使うか、というような部分。(←いかにアドバイスするか)

すでに知っていることを縦横に使ってみることによって、もっと知るべき(知りたい)方向と深さが自ずと見えてくる。
無意識に「知らされる」のではなく、意識的に「知る」。

美術はそのほとんどが「見る人の目の問題」である。
自分のために、様々なものを丁寧に注意深く見よう。
それが好きだという感覚は、個人でしか決められない。又は自分で決めなくてはいけないコト。
自分で決めるということは具体的に何をどうすることなのか、その点検に美術は使える。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


その1

その2

その3

その4

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その4。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その4。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


制作しない、しかし美術

(学校教育が苦手とする)個人を自立させる、または個人が自主的に健全な人格を形成できるようにする、という部分を担う。

美術は非日常とか認識の拡大とか、まず確固たる常識と日常が出来上がっていることが、理解の基本に深く関わり、かつ個人の美意識の上に成立する。

美術的な活動=丁寧に、くわしく、深く見る。の場面で使われるのは「美術的な視点」。近代の自立した市民的視点。私たちが、これまでの美術の歴史を通して獲得してきたものは、感性と過去性とかのような曖昧なものを肯定する基礎となるもの。すなわち「一人一人違っていて、一人一人がそこから見ていることを肯定することができる」というもの。

美術作品の鑑賞は、表現教育の大切なひとつ。=見ることを通した自我の形成、美意識の組み立て。=個人の美意識の形成。

個人が(象徴的な意味で)立ち止まって、よく考え、自分で周りを見ながら決める。決めたことを、自分以外の人の見方など気にしないで、自分の責任と覚悟の上で、みんなに見てもらえるよう努力してみる。というような美術・表現の基本的な姿勢。

美術(Fine Art)は哲学的で内省的で専門的で広範囲に各自の人生や世界観に深く関わる部分を含む、総合的でかつ個別な概念である。基本的に美術は、人間の大人のための仕事、活動なのだ。

一人一人の「体験」を、人間としての「経験」に積み重ねる手伝いが美術にはできる。私の感動は私の感動で、その感動は伝えられない。でも感動というものがあるということ、そして、その感覚はこうすれば磨くことができる、は伝えられる。

描けるのは、頭の中に見えるモノだけ、を自覚できる大人になろう。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


藤吉憲典《古典とアート》展。岡山和気のギャラリー栂さんで。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

藤吉憲典《古典とアート》展。岡山和気のギャラリー栂さんで。

9月20日(月祝)が初日です。昨日、栂さんから案内状が届きました。オーナー栂さんの思いが伝わってくるような素敵な案内状で、昨今の状況のなか機会をいただけることに、あらためて作り手ともども感謝している次第です。

今回の展覧会の内容については、栂さんが「器でもアートでも、藤吉さんにお任せします!」とおっしゃってくださいました。せっかくだからどちらもお持ちしようとDM用の作品もいろいろ取り混ぜてお送りしていたところ、このような案内状になりました。

タイトルは「 磁器作家 藤吉憲典《古典とアート》展 」。7月のNHK BSプレミアム『美の壺「青と白の粋 染付の器」』放映後としては、藤吉の最初の個展ということで、栂さんがなにかと心配りしてくださったことがわかります。

ギャラリー栂 (とが)
〒709-0431 岡山県和気郡和気町清水288-1
電話0869-92-9817

磁器作家 藤吉憲典《古典とアート》展

会期:2021年9月20日(月祝)-10月3日(日)
※9月27日(月)休み
営業時間:11時~17時

会期中、9月27日(月)だけお休みが入っています。どうぞお間違いの無いよう、ご注意ください。また、全国的にコロナ禍の感染拡大が続いておりますので、ご来場は無理をなさらないようお願いいたします。ご来場の際には、マスク着用をはじめとした感染防止マナーをお守りくださいね。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その3。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その3。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


美術を使い込んでいくために

美術はもう終わったんではないかと言われたことがあった。でも終わらなかった。
美術は常識を点検し、無理やり世界を広げるのが、仕事。
美術が無くなるとき、それは常識が無くなったのに、それに誰も気付かなくなったときで、それって私たち人間の世界の終わりなんじゃないだろうか。
そうならないために、みんな美術館に行こう。

美術は、全ての人間が全部一人一人違うということを基礎に、人間全体の世界観を拡大してゆくということが、存在の意義である。

一人一人違う人間は、一人一人違う生活経験を組み立ててゆく。その生活経験の積み重ねで、その時のその人の世界観(自分を取り巻く状況とのつじつま合わせ)や人生観(自分の内側で起こっていることのつじつま合わせ)が、一人一人個別に、その人の中に出来上がって行く。まずこの状態が肯定的に、社会の基礎として存在しないと私たちが今知っていると感じている美術は始まらない。

なぜなら美術は、その個人の世界観や人生観を表現したものだからである。
そこに表出されたものが、全く違うということこそが、私たちの美術がここまでかけてやっと獲得してきたものであって、私が今ここにいる、ということの証明なのだ。

今ここに私がいる。そして私はこのように私の世界を見ている。
ただそれだけを自覚して真摯に描いて(表現して)いるかどうかだけが、問われる。

そこにあるのは私が知っている世界ではなく、それを描いた人が見ている世界だ。ということを肯定する。

その人が真摯に描いた世界観を、こちらも真摯に見る。ことを通して私たちは自分の世界観と人生観を点検し、修正し、どのような形であれ理解することによって、自分の世界の見方を拡大してゆく。

肯定された「一人一人違う世界の見方」が集まって初めて私たち一人一人の世界観はより豊かに広がっていく。
このことは練習しなければいけないし、いくら練習しても終わることはない。

みんな一人一人違うということを尊重して大切に想う。美術はそのまったく基礎にあるものの見方を訓練するもの。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より