出来ない自分をすんなりと受け入れることが出来る、お茶室。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

出来ない自分をすんなりと受け入れることが出来る、お茶室。

昨日はお茶のお稽古でした。博多の禅寺・円覚寺で南方流に入門しています。コロナ禍で2年間のお休み期間を経て、今年の3月からようやく再開したお茶のお稽古。「ウィズコロナの新様式」は、お茶のお稽古においても同様で、南方会でもいくつもの新たなルールが設けられています。ですから前とまったく同じにはなりませんが、再開から3か月を過ぎてようやく、「お茶のお稽古のある日常」が戻ってきた実感をかみしめつつあるところです。

わたしにとって、お茶のお稽古に出かけることは、お点前の作法を倣うこと以上の大きな意味があることを、あらためて実感しています。タイトルの「出来ない自分をすんなりと受け入れることができる」は、昨日のお稽古でつくづくと感じたこと。

お稽古に足を運ぶことが出来なかった2年間、薄茶を点てていただくぐらいのことは、自宅で一人でもできることと、頭ではわかっていても、できませんでした。やっと花祭窯のお茶室徳り庵に座ることが出来たのは、お稽古が再開してから。

そんなことをおしゃべりしていたら、先生がポツリと「いえいえ、わたしだってそうですよ、気持ちが向かないときはそういうものです」とおっしゃってくださいました。そして、先生もまたお稽古が休みの間にお点前についての考え方をまとめようと思い、時間もたっぷりあったのに、結局まったく手を付けることが出来なかったのだとおっしゃいました。

実はその間、先生が入院闘病なさっていたことを、その場にいた人は、皆知っていました。にもかかわらず、そのことには一言も触れず、わたしたちが安心できる空気を作ってくださったお心遣い。その場にいたみんなが、「お稽古できるはずだったのに、しなかった自分」を責めるではなく、そのままに認めることが出来たように思います。

この一件はわかりやすいエピソードですが、このような場の空気が常にあるのが、円覚寺でのお茶のお稽古。できない自分を素直にそのまま受け入れることができる場所であり、そんな自分を温かくも厳しくも受け入れてくださる先生方がいらっしゃることが、とてもありがたいのです。