南坊忌献茶会でした。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

南坊忌献茶会でした。

今年も無事、「南方流遠祖南坊宗啓禅師献茶会」に参加することが出来ました。南方流の祖である南坊宗啓禅師にあらためて感謝する機会であり、献茶のお点前を拝見できる貴重な機会であり、和尚さんから直々に『南方録』の一節をご教授いただく嬉しい機会でもあります。

コロナ禍以降、広間での薄茶だけであったお茶席は、4年ぶりに四畳半のお茶室「無声庵」を開き、お濃茶もいただくという、嬉しい回帰となりました。お濃茶は、回し飲みはまだできず、一服づつ点てられました。久しぶりの四畳半は、まず躙(にじ)り口で帯があたり「こんなに狭かったかしら!?」からスタート。草履を整え、床の間を拝見し、お道具を拝見し、席につこうと毛氈(もうせん)にきっちり並びぶと「そうそう!そうだった!」と、懐かしい密着具合。今回は9名での席でしたが、そういえばコロナ前は11名とかで入っていたなぁ、と思い出しつつ。同じ席のお正客さまが和尚様でしたので、お点前の間やお茶を頂く間にも、道具のことなどを、直々に教えていただくことが出来ました。

露地にはツツジが満開でした。青い紅葉の葉っぱもすがすがしく。午後から雨の予報でしたが、お日さまが顔を出し、帰りまでお天気が持ちました。今年も南坊忌に参加できたことに感謝です。

読書『kotoba(ことば)(2023年春号)』集英社クオータリー

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読書『kotoba(ことば)(2023年春号)』集英社クオータリー

カズオ・イシグロ特集号です。

まずこのような季刊誌があることを知りませんでした。先日観てきた映画『生きる LIVING』の報告ブログを読んで、お友だちが紹介してくださった季刊誌です。『単なる「情報」ではなく、残すべき「コトバ」を紙の本で残したい。』と、その公式サイトにありました。過去の特集で取り上げられたテーマを見てみると、まあ、なんとも興味深く。

一番上の写真は、今号の目次の見開き。そうそうたる文化人の方々が、カズオ・イシグロ作品への思いを語っています。まあその暑苦しいこと(笑)。どなたの文章からも、イシグロ作品への偏愛があふれていました。映画『生きる LIVING』をきっかけになされた特集ですが、それだけでなく、各著作についての掘り下げた論考や、著者その人に対する分析がこれでもかと続き、食傷気味になるほどの情熱を感じました。皆さんほんとうに、カズオ・イシグロ作品が好きなのですね。

わたしはイシグロ作品のなかでは『日の名残り』が一番好きです。邦訳された小説はほとんど読んだと思っていましたが、短編に読んだことのないものがあるのがわかりました。新刊を待ちわびる身には、まだ読んでいない本があったことはとても嬉しく。また、これまでは他の人がイシグロ作品に対して書いた論評には興味が無く、『日の名残り』はもちろん、その他の著作についての論評も、読んだことがほとんどありませんでしたが、今回このようにまとめて拝読してみると、これはこれで面白いことに気がつきました。

本書での特集の寄稿記事には、イシグロ作品を読んだ時に浮かんでくる、いろいろなキーワードが挙がっていました。なかでもわたしが一番考えさせられたのは、「日本的なもの」とはいったい何なのか。わたしたちが「日本的」だと思い込んでいる事象は、実は普遍的にどこにでもあるものかもしれない、ということ。どこにでもあるわけではなくとも、日本固有のものだとも言い切れない、ということ。国や文化や宗教を超えてたくさんの共通点があるからこそ、そこに共感が生まれるのだという事実。そんなことを考えさせられました。

それにしても、雑誌は冬の時代と言われながら、このような良質な情報誌があったのですね。2010年創刊ということでしたので、紙媒体が廃れていくなかでの、起死回生の一矢という感じでしょうか。とても嬉しい、本書との出会いでした。おススメしてくれたお友だちに心より感謝です。好み・関心の傾向を理解してくださっているからこその、ありがたいベストヒット。先日ご紹介した『TRANSIT』同様、内容の文章の質・量、使われている紙の良さも、気に入りました。

時間をかけ、頭をひねり、完成度が高くない文章でも、それを自分で書く意味。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

時間をかけ、頭をひねり、完成度が高くない文章でも、それを自分で書く意味。

わたしの友人にはIT系の情報感度がとても高い方々が多く、皆さんのSNS上の発信を拝見しているおかげで、世の中の動きを知ることが出来ています。昨今の話題で急に増えてきた単語が、CHAT GPT。生成系AI=Artificial Intelligence(人工知能)と呼ばれる技術を使ったサービスのひとつ、ということです。

質問や課題を投げかけることで、AIがインターネット上の情報を集めて、AIなりの回答を用意してくれるものらしい…というのが、現段階におけるわたしの認識。なかでもCHAT GPTは返事=文章(テキスト)を返すことから、文書作成に使えるということで、効果的な活用方法を見出すべく試している方が増えています。わたしはまだ試したことがありませんが、聞けば、文章の添削に使えたり、そもそもの文章制作にも使えそう、ということで。より適した文章を導くためには、AIに対して「どんな投げかけをするか」、つまり質問力が肝だそうです。

文法的に違和感のない文章を素早く作ってくれるだけでなく、「○○風」という味付けまでできるとなると、今後巷には、AIが作成した文章があふれてくるのだろうな、と思います。商業的な文章制作を仕事をしている方々にとっては、短時間でたくさんの文章を作り上げることが出来るようになるのですから、これを使うのが当たり前になるかもしれませんね。既に「生成系AIの登場で、今後無くなるであろう職業」のなかに、「ライター・作家」も含まれているようです。

そんななか、ブログを自分で書き続ける=わざわざ頭をひねって時間をかけて完成度の低い文章を作る意味は、それが読む人のためではなく自分(書く人)のための作業であるからに他ならない、ということになります。アーティストが、売れようが売れまいが作品を作り続けるのをやめないのと同様、売れる売れない以前に自分以外に読む人がいようがいまいが、わたしは文章を書き続けるのだと思います。

何を目的に、どう使うか、どの程度使うか。新しい技術が出てくるときはいつもそうなのですが、使い方の技術的な問題だけでなく、倫理観とか意識の問題を置き去りにしないように、と思います。そういっている間に世の中がどんどんと進んでしまい、自分が置き去りにされてしまう可能性もありますが(笑)。

ともあれ、まだまだ分からないことばかりでありつつも、情報感度の高いお友だちの皆さんのおかげで、「そういうものがある」という程度には認識できている今日この頃。思えば20年以上前ネットショップを始めたときから、わたしはこんな感じなのです。信頼できる方々の発信をもとに、世の中の流れをなんとか読もうとしています。今も変わらずそんな皆さんとつながれているのは、とてもありがたいことだと思います。

あと0.5秒ゆっくり。

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あと0.5秒ゆっくり。

昨日はお茶のお稽古でした。月に2回のお稽古は、自分の心身の状態に向き合う時間でもあります。前回のお稽古から、一足早く風炉になりました。季節により設えが変わり、設えが変わることにより作法が少々変わります。稽古をする者としては、作法のひとつひとつを習得しきれないままに変わってしまうことが悩ましい半面、この変化があるからこそ楽しいのだとも思います。

現在わたしがお稽古しているのは、奥点前のひとつ「袋茶碗」。基本の作法は濃茶ですが、仕覆(しふく)からお茶碗を出したり、仕覆を拝見に出したりと、付随する所作が相応に増えます。この次はこれ、その次はこれ、と、忙しい気持ちが動きに現れていたのでしょう、ひと通りのお稽古を終えた後に、見てくださっていた先生から言われたのが「あと0.5秒ゆっくり」でした。

「全体にはとっても良くできていますから、あとは、一つ一つの所作に、あと0.5秒ゆっくりかける気持ちでやってごらんなさい。そうしたら、もっとお点前が落ち着いてきれいに見えますよ」と。

とてもありがたいご助言でした。せっかちで大雑把な性格が所作に出ますね…と反省の弁を申しますと、「お茶のお稽古の時だけでなく、ふだんの生活から、一つ一つの動きに0.5秒余分に時間をかけてごらんなさい。そうすると動きが優雅になりますよ」と。お茶室でだけ意識をしても、結局は常日頃の動き方(生き方)が所作に現れるということですね。お稽古をしていていつも思うことであり、先生方から助言をいただくたびに心あたることでもあり。

50年以上生きてきての、動きや思考の癖ですから、一朝一夕には変えることはできないでしょう。ここから50年かけて、「0.5秒ゆっくり」が習慣になり、自然と所作に現れるよう、まずは意識していきたいと思います。

上の写真は、昨年のお茶会のときのもの。床の間で季節を感じるのも、お茶の楽しみのひとつです。筍シーズンですね。

足したり、引いたり。

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足したり、引いたり。

花祭窯の建物は、昭和元年(1926年)に建てられた商家。もうすぐ築100年というところです。当時栄えていた津屋崎千軒のなかにあって、商いをしているお宅ゆえの粋がちりばめられた建物です。堅実なつくりで、建築士さんが「これだけ時間が経っているのに、歪みが少ないのがすごい」とおっしゃっていました。わたしたちがここに入った11年前には、途中で入った方々が住みやすいようにリフォームした跡があちらこちらに残っていましたので、できる限り古い状態に戻す方向で「引き算」の修繕を施したのでした。

入居の際の「やや大規模な修繕」から10年以上が経ちましたが、古民家にはその維持がテーマとしてついてくるもので、常に「ここはそろそろ直さねば」のメンテナンス箇所との追いかけっこです。むやみに近代化することなく、古い状態(材料)をできる限りそのまま生かすことを心がけて…というと格好いいですが、実際には、ぜんぶ完璧に修繕するのには莫大なお金がかかる…という側面があるのも確かです。花祭窯の佐賀時代も築80年を超える古民家でしたので、「古い木造日本家屋」の不便さには慣れていて、不便だからこその良さも楽しんでいます。

ちょっとした不具合は、手先の器用なダンナが治せることもあります。なかでも一番多いのは、建具の不具合。その修正作業を見ていると、基本は表からは見えない部分での「足したり、引いたり」の微調整で解決しているようです。もちろん、根本的な解決にはならないことも多いのですが、上手に付き合っていくことが肝要かな、と。

そうはいいつつ、ご近所の古民家住まいのお友だちと会えば、日々どんな困りごとがあるか、どうやって維持する方向に考えるか、修理をどこの大工さんに頼んだか等々、おしゃべり&情報交換に花が咲く今日この頃。ご近所にそのように雑談できる人があるというのもまた、ありがたいことですね。

お久しぶりです、と、はじめまして。

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お久しぶりです、と、はじめまして。

お誘いいただいて、とある集まりに参加。大切なお友だちを応援する会でした。そこには、その友人を応援する人たちが集まっていて、久しぶりにお会いする方もあれば、初めましての方もあり。コロナ禍以降「初めまして」の方と食事の席でご一緒するケースがほとんどありませんでしたので、なんとなく新鮮な感じでした。

「応援する会」とはいっても、美味しいものを食べながら、近況を伺うぐらいのもの。そう、ほとんどのことは本人がすでに前進の準備を整えていますし、わたしよりも近い場所で現実的なサポートをしている人たちもあります。わたしが具体的に力になれることはほとんどありませんが、なにげない時間のなかで、少しでも彼女と一緒に笑う時間を共有できたら嬉しいな、と思いつつ。

初めましての方々も含めて、「これからの話」が出来たのは、面白かったです。なかでも残ったキーワードは、「教育」「インバウンド」「海外とのつながり」。事業としての教育の話が出てくるのは、世代的なものもあるかもしれませんが、このところさらにこの傾向が強くなっていると思います。『あらゆる企業は教育化する』の本を読んだのは、約2年前のことでしたが、確実に加速していますね。

ともあれ、久しぶりの友人の笑顔にあえて嬉しい時間でした。そんな友人とも、もう20年来のお付き合いになるのだと気づき、時の流れの速さをあらためて。

四月八日は花まつり。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

四月八日は花まつり。

お釈迦様の誕生日です。花祭窯の窯名は、創業地の通称である地名「花祭」からいただいたもので、お釈迦様の誕生日とは関係ありませんが、毎年なんとなくお祝い気分になります。創業時に窯の名前を考えていたときには、実は「花まつり」の意味を知りませんでしたが、つくづくと良い名前を頂いたと思います。

現在わたしは、禅寺で茶道に入門しておりますが、花祭窯の名前を付けたときには、将来そんなことになるとは思いもよらず。茶道を習い直そうと思ってさまざまな流派の情報を探した結果、自分に合いそうだと感じたところが、たまたま禅寺で受け継がれていた流派だったのです。

そういえば、わたしが博物館学芸員資格を修了したのは佛教大学で、それは単に通信教育をメインにした学習で学ぶことが出来るから、でしたが、修了に向けて書いた論文の中に、お釈迦様が誕生したとされる蓮の花についての考察があったのを思い出しました。知らず知らずのうちに、なんとなく関心が向いているのだなぁ、と我ながら面白く思います。

現在、株式会社Natu Rise(ナチュライズ)さんが発行するニュースレターに、コラム「日日是好日」の提供しており、そのなかで「日常の禅語なるコーナーを書いています。素人の禅語考ですが、この原稿を書くのに毎回かなり頭に汗をかいていますので、よかったら読んでみてくださいね。

お釈迦様は誕生の時に、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」とおっしゃった、と語り継がれています。その真偽はさておき、そんな偉大な存在が生まれた花まつり。毎年この日には、なんとなくありがたい気持ちになるのです。

再読『コレクションと資本主義』(角川新書)水野和夫・山本豊津 著

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

再読『コレクションと資本主義』(角川新書)水野和夫・山本豊津 著

『「美術と蒐集」を知れば経済の核心がわかる』とサブタイトルにあります。経済学者の水野和夫さんと、東京画廊社長の山本豊津さんとの対談本。思うところがあり、本棚から引っ張り出してきました。本書が刊行されたのが2017年9月で、すぐに読んでいましたので、最初に読んでから5年半ほどが経っています。その間にコロナ禍下の3年間がありましたので、いろいろなことが大きく変わりました。

アート分野においても、コロナ禍は、将来振り返ったときにエポックメイキングな出来事であったと位置づけられるのではないかと言われるのを耳にします。それは、アーティストの表現方法や作品そのものに現れるものもあれば、アート市場の動きやアートの社会的な位置付けの変化もあると思います。そしてそのような兆しは既に現れつつあるのを、感じます。そのように考えたときに、もう一度読んでみよう、と思ったのが本書でした。

上の写真は、コロナ禍前2019年秋に開催されたアートフェアアジア福岡のイベントで、宮津大輔さんによる「現代アート経済学」の講演のときのもの。ここからでも既に3年半が経っていますね。

以下、『コレクションと資本主義』再読で目に留まったフレーズ備忘。


  • 美術品や文化遺産を自分たちのもとに集め、自分たちの価値基準によって分類し、評価する。それは自分たちの価値基準で一元化しようとする試みでもあるのでしょう。
  • コレクションを展示することで、自分たちの国家や文化の優位性を誇示する
  • 「蒐集」の本質が「自らの価値を広げていこうとする暴力性」
  • 経済・軍事力から文化力に価値をシフトさせる
  • 「長い二十一世紀」
  • 「長い十六世紀」
  • 自我意識が誕生することによって、美術が宗教的な装飾から、独立した「作品」としての価値を持つものになる
  • 知識と情報を共有することで、モノの価値が定まる
  • 客観性の根本には、「ものを見る」という行為があります。それは絵画や芸術の態度そのものでしょう。科学と芸術というのはその意味で、親和性がある
  • 利子率ゼロというのは、希少性を否定する世界
  • スターリンは個人の自由な芸術活動を抑制したけれど、作品を捨ててはいなかった。
  • 最後に頼るのは国家でもシステムでもない、自分自身と自分の身体一つ、確かなのは自分の感覚や肉体だけ
  • 「花」ではなく「種」を買う、言い換えればそれこそが「投資」
  • 西欧には、美術作品は半永久的に残していくものという意識がある
  • いまやアートに関しては世界の中心は再びヨーロッパに戻っています。
  • 絵画と三次元的表現の垣根がなくなったという意味で、絵画そのものも終焉を迎えた
  • 芸術は必ず、反芸術によって延命してきた
  • テーマを失った時代にあえて模倣すること自体から新しい価値を提示
  • アート作品が持っている価値転換、すなわち使用価値の低いものほど交換価値が上がるというパラドックス
  • 人類は虚構の物象化を時間をかけて積み上げ、それが今日の資本主義社会の土台となった
  • 芸術の資産化
  • (美術品は)希少性を持ちながらも無限性を有しています

『コレクションと資本主義』(角川新書)水野和夫・山本豊津 著 より


コロナ禍を経て、本書で述べられていることが、よりイメージでき、理解できたような気がします。投資先をなくしたお金が軍事・戦争に流れるのではなく、アート作品・芸術的活動がそのお金の受け皿になることを願います。

花祭窯の卯月の庭。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

花祭窯の卯月の庭。

ここ津屋崎では花散らしの雨が降り、桜シーズンもそろそろお終いです。新芽も雑草もすくすくと伸び出しました。これからは新緑が楽しみですね。そんな雨上がりの露地を撮ってみました。

スノーフレーク

↑カブが年々増えて行くスノーフレーク。他の花のスペースを侵食するので、適度に間引かねばなりません。

庭

↑植えてはいないけれども、どこからともなく蔓が伸びてきて、夏になると色を添えてくれます。

庭

↑二階から庭を見下ろしていて、たくさん赤い蕾がついているのを見つけたのは、ほんの数日前。一気に花が開いてきました。

柘榴の木

↑ザクロの木の赤い新芽がたくさん出ています。今年も花が咲いてくれることやら、楽しみです。

庭

↑昨年は花がつかなかった芍薬。今年は咲くといいなと期待しています。奥にはカノコユリの葉も伸びてきています。

芝桜

↑シバザクラも一気に花が咲きました。これからしばらく楽しめます。

映画『生きる LIVING』を観て参りました。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

映画『生きる LIVING』を観て参りました。

「月に1本映画を観に行く」。2023年はスタートから「月1回」の波に乗れなかったので、「月1回ぐらいのペース」ということで、仕切り直し。2023年の2本目は、いつものご近所イオンTOHOシネマではなく、博多で。というのも、久々に「これは絶対観たい!」と思った最寄りの館が博多だったのです。

さて『生きる LIVING』。絶対観たいと思った理由は、脚本がカズオ・イシグロだったから、の一点です。黒澤明の映画『生きる』が元であり、イギリスを舞台に撮り直したもの、ということで話題になっていますが、わたしは黒澤版を観ておらず、ストーリーも何もまったく知らない状態で、映画館に参りました。

カズオ・イシグロ脚本の『生きる』。舞台は第二次世界大戦後のイギリスです。余命宣告を受けた市役所職員の主人公が、「死ぬ前に、生きたい」と願うところから動き出すストーリー。全編にただよう静かさが、登場人物の心の変化や揺らぎを際立たせていました。主人公の抑制された雰囲気が、物語をぐいぐいと引っ張っていく不思議な感覚。時代もストーリーもまったく異なりますが、カズオ・イシグロ原作で映画になった『日の名残り』をほうふつとさせるものを感じました。

周りの観客は、ほぼわたしより上の年齢層の皆さま。平日の午前中にもかかわらず、わりと席が埋まっていたのは、やはり「黒澤明」と「カズオ・イシグロ」効果かしら、と思いつつ。本家の黒澤版も観てみたいと思いました。