こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。
読書『教養としてのラテン語の授業』(ダイヤモンド社)ハン・ドンイル著/本村凌二監訳・岡崎暢子訳
わたしが新刊書評を確認する場所として主に使っているのは、新聞とメールマガジンと、ときどき雑誌です。そういえば書評サイトはほとんど見ていません。メールマガジンは、出版コンサルタント・土井英司氏の「ビジネスブックマラソン」略して「BBM」を購読(無料です)しています。
BBMで紹介されていた本のなかで、昨年気になりながらそのままになっていたものがありましたので、お正月に数冊まとめて手に入れたのでした。そのなかの一冊が本書『教養としてのラテン語の授業』。タイトルの「教養としての」に、またか…の気持ちもありつつ(笑)、メルマガで内容が気になっていたところに、哲学に造詣の深いお友だちが読んで「良かった!」という感想をSNSに上げていたのを見て、買わねば!と思ったのでした。
ラテン語の授業を書き起こしたような章立てになっています。語学の授業というよりは、ラテン語の背景にある文化を覗き込むことのできる授業だと感じました。著者のやさしい語り口が聞こえてくるような文体でした。本を開く前に少し懸念していた「難解さ」はまったく無く、とても読みやすかったです。読後、すっかりやさしい気持ちになりました。
以下備忘。
- 人は教えている間に、学ぶ(哲学者・セネカの『倫理書簡集』より)
- ラテン語の「丁寧さ」が地中海の平和を生んだ
- 言語は思考の枠組みです。相手についての尊重や配慮、公平性を持つラテン語が、ローマ人たちの思考と態度の寄り拠になっていたはずです。
- 正しい用法がすべての表現の礎となり、それが真の知的体系を形成する
- みなさんの言葉の中に、典雅は発見できますか?
- 言語が、(中略)たゆまぬ習慣を通して身につけていく性質を持っている
- 言語は自分を表現するための手段であり、世界を理解するための枠組みです。
- 川を渡り終えたら、舟は川に置いていかなければならない。
- 私たちは自分自身の、そして何かにおいての「スムマ・クム・ラウデ(最優秀)」
- 周囲の問題は深く考えず、自分が出来ることをやればいい
- あなたなら、他者に何を与えられますか?どんなものを準備すればいいですか?
- 自分がどういう人間で、何に喜び、悲しむのか、自分には何が必要なのかも、走ってみた人にしかわかりません。
- 「一緒に、ともに」の価値が失われてはいけない
- フラットな言語体系が発達すれば、(中略)嗜好や社会構造も柔軟になる
- 「私を上に引っ張り上げる」ティラミス
- 我々は自分が知っているものしか、目に入らない。
- スピノザにとって欲望とは、それ自体が善や悪ではなく、天地万物すべてに共通する自然法則から生まれた本質に過ぎません。
- 真理はそれ以外の何物でもなく当然受け止めるべきものであり、外部の力によるものは真理ではない
- 賽は投げられた
- これもまた過ぎゆく。
『教養としてのラテン語の授業』(ダイヤモンド社)ハン・ドンイル著より
サブタイトルに「古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流」とついているのを、読み終わってから見つけました。本書を読んで、ラテン語を学んだとは言えるものではありませんが、繰り返し読みたくなる本だと思いました。