齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その4。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その4。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


制作しない、しかし美術

(学校教育が苦手とする)個人を自立させる、または個人が自主的に健全な人格を形成できるようにする、という部分を担う。

美術は非日常とか認識の拡大とか、まず確固たる常識と日常が出来上がっていることが、理解の基本に深く関わり、かつ個人の美意識の上に成立する。

美術的な活動=丁寧に、くわしく、深く見る。の場面で使われるのは「美術的な視点」。近代の自立した市民的視点。私たちが、これまでの美術の歴史を通して獲得してきたものは、感性と過去性とかのような曖昧なものを肯定する基礎となるもの。すなわち「一人一人違っていて、一人一人がそこから見ていることを肯定することができる」というもの。

美術作品の鑑賞は、表現教育の大切なひとつ。=見ることを通した自我の形成、美意識の組み立て。=個人の美意識の形成。

個人が(象徴的な意味で)立ち止まって、よく考え、自分で周りを見ながら決める。決めたことを、自分以外の人の見方など気にしないで、自分の責任と覚悟の上で、みんなに見てもらえるよう努力してみる。というような美術・表現の基本的な姿勢。

美術(Fine Art)は哲学的で内省的で専門的で広範囲に各自の人生や世界観に深く関わる部分を含む、総合的でかつ個別な概念である。基本的に美術は、人間の大人のための仕事、活動なのだ。

一人一人の「体験」を、人間としての「経験」に積み重ねる手伝いが美術にはできる。私の感動は私の感動で、その感動は伝えられない。でも感動というものがあるということ、そして、その感覚はこうすれば磨くことができる、は伝えられる。

描けるのは、頭の中に見えるモノだけ、を自覚できる大人になろう。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その3。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その3。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


美術を使い込んでいくために

美術はもう終わったんではないかと言われたことがあった。でも終わらなかった。
美術は常識を点検し、無理やり世界を広げるのが、仕事。
美術が無くなるとき、それは常識が無くなったのに、それに誰も気付かなくなったときで、それって私たち人間の世界の終わりなんじゃないだろうか。
そうならないために、みんな美術館に行こう。

美術は、全ての人間が全部一人一人違うということを基礎に、人間全体の世界観を拡大してゆくということが、存在の意義である。

一人一人違う人間は、一人一人違う生活経験を組み立ててゆく。その生活経験の積み重ねで、その時のその人の世界観(自分を取り巻く状況とのつじつま合わせ)や人生観(自分の内側で起こっていることのつじつま合わせ)が、一人一人個別に、その人の中に出来上がって行く。まずこの状態が肯定的に、社会の基礎として存在しないと私たちが今知っていると感じている美術は始まらない。

なぜなら美術は、その個人の世界観や人生観を表現したものだからである。
そこに表出されたものが、全く違うということこそが、私たちの美術がここまでかけてやっと獲得してきたものであって、私が今ここにいる、ということの証明なのだ。

今ここに私がいる。そして私はこのように私の世界を見ている。
ただそれだけを自覚して真摯に描いて(表現して)いるかどうかだけが、問われる。

そこにあるのは私が知っている世界ではなく、それを描いた人が見ている世界だ。ということを肯定する。

その人が真摯に描いた世界観を、こちらも真摯に見る。ことを通して私たちは自分の世界観と人生観を点検し、修正し、どのような形であれ理解することによって、自分の世界の見方を拡大してゆく。

肯定された「一人一人違う世界の見方」が集まって初めて私たち一人一人の世界観はより豊かに広がっていく。
このことは練習しなければいけないし、いくら練習しても終わることはない。

みんな一人一人違うということを尊重して大切に想う。美術はそのまったく基礎にあるものの見方を訓練するもの。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その2。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その2。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


小学生と中学生のための「美術って本当のところ、どうなんですか?」

「作ること(描くこと)」は、美術の中の一番大切な部分ではない。上手に描けるとか絵は苦手とかは、美術を楽しんだり考えたりするときには、ほとんど関係ない。

本当は学校でするべき美術って、実は「見ることの楽しみ」を練習すること。

今座っているところから窓が見えるか?そこから外を見る。その窓から外に見える物を5分間で30個「言葉」で書き出してみる。

大きくなるにつれ、生活の体験が増えるにしたがって、どんどん見える物(意識できるもの)が増えてきて、見える物が増えること自体が楽しくなってきて、今の私たちがいる。

自分が知っていることだけが、描ける。頭の中で「見える物」を言葉で書いていくと、その組み合わせで「描ける物」が見える物を超えて増えていく。

言葉で書けるものを「飽きずに丁寧に」を描いていくと、絵は知らないうちに上手に見えてくる。「見える物を書く言葉」を増やす作業/努力をしてこなかった人も、絵を上手く描けない人になってしまうことが多い。

絵を描く作業は運動神経である。だから本当に上手い絵を描きたい人は、運動神経を研ぎ澄まさなければならない。自分の運動神経を隅々まできちんとコントロールしてやるぞ、という想い。自分の中の世界の見え方を、自分自身で意識的に運動神経に変えてみる作業。

「見てるか?」の点検

目で見ているものは、目で見えている映像を、脳が見えていると思っているので、見えている。
見て描く作業の時、実際に描いているときに見ているものはどこにある?

私たちはよく「見た」「ちゃんと見た」という。でも本当に見えているのは、目の外側にあるものでは無く、目で見て、脳に記憶してあると信じている物だったりする。

私たちが普通見ていると思っている物は、目の外側ではなく目の内側にあるものであることに気づこう。

絵を見ることは、それを描いた人の内側をのぞきこむことなのだということがわかると、自分以外の人が描いた絵を見る楽しみ、そしてあなたがあなたの絵を描く楽しみは一気に広がらないか?そうか、自分の頭の中に、こういう風に写っていたんだ、と。

どう見て良いのかわからない絵を見るときには、絵を「よく」見るしかない。何が見える?自分が既に分かっている/知っていることを使って「見て分かること」を増やす。

見えることだけで、頭の中にお話が湧いてきて、続いていく。
今、頭の中でおこっていることが、本当の「鑑賞」。作者の想いを読みとるのではない。作品を使って、あなたの世界が広がっていくのが鑑賞。それができるのが良い絵。

描いた人の気持なんか、あまり気にしなくても良いから、もし自分がこれを描くとしたら、何をどうやってどうするか、実際の気持ちになって見直してみよう。

美術作品を見ることが感動と結びついている活動だというならば、美術館はもっとうるさい所になって良い。
感動したら声を出してみる。
上手かろうが下手だろうが、感動するのであれば、実はどっちでもいい。

私たちは、自分で考えて、何がかっこいいのかを、皆が各自考えなければいけない世界に生きている。
かっこいいはみんな違う。同じ人でも10代のときと50歳のときとでは違う。でも私たちは、みんな一緒に生きている。

美術館には、好きな絵嫌いな絵、いろんな絵が飾ってある。飾ってある絵が全部違うことが大切。全部違うものを全部大切にとってある/とっておけることが大切。

いろんな考え方のいろんな世界を見る。本当のところ、美術館をみんなで作る楽しみは、そこにある。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


その1はこちら

読書『コラージュ入門』(一麦出版社)藤掛明著

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『コラージュ入門』(一麦出版社)藤掛明著

わたしがコラージュをアートエデュケーションのひとつとして取り入れるきっかけとなった、学芸員技術研修会の「美術館でコラージュ療法」講座。そのとき指導をしてくださった、聖学院大学心理福祉学部心理福祉学科教授・藤掛明先生の新刊です。

思いがけず藤掛先生からメッセージをいただいたのは先週のこと。当ブログ「ふじゆりスタイル」を読んでくださったようで、わたしが美術的アプローチでコラージュを(細々とではありますが)継続していることを、喜んでくださいました。直々に応援をいただき、モチベーションアップ。

さて本書、芸術療法のスペシャリストとして仕事をしてこられた藤掛先生の著書でありながら「コラージュ療法入門」ではなく、あえて「療法」を外して『コラージュ入門』となっています。まずここに大きな意図、すなわち、治療や更生に導くことを目的とした臨床的コラージュの枠を出て、より自由なコラージュ活用の場が広がっていくことへの期待を感じました。

医療・福祉の分野では近年「予防医学」や「健康寿命」という言葉をよく聞きます。「コラージュ療法」に対する「美術的コラージュ」は、ちょうどそんな(予防的な)位置づけにもなりうるのではないかと思いました。ここ数年、学芸員技術研修会で学んできたことのひとつは、医療・福祉へのアプローチとしての、美術・美術館の可能性を探るものです。心身ともに健康を保つための方法として、美術・美術館はどのように役立つのか、という視点。わたしにとって「コラージュ」活用は「対話型美術鑑賞法」と並んで、最も使い勝手の良い「美術の使い方」です。

本書を読み終えての第一の感想は、まさに入門書であり、手元に置いて原点確認するのに最適な本であるということ。読みながら、3年前に学んだ講座内容がまざまざと思い出されました。基本的に必要なことは、この一冊に入っていると言えるのではないでしょうか。自分がファシリテーターとなってコラージュの講座をする際に、もしも迷いが出たらここに戻れば良い。そんな本です。

具体的には、まず実際の運営にあたっての実務的な方法と、その方法が選ばれる理由が、わかりやすく示してあります。また、そうした方法を推奨するに至った背景となるストーリーや事例、エビデンスがいくつも挙げられているので、納得して用いることができます。ここに挙げられている方法に沿って、その時々の状況に合わせて応用(先生の言葉では「変法」)してゆけば、いろいろなパターンでコラージュを活用できることが理解できます。

美術的アプローチでのコラージュに強い味方となる一冊を得ることができました。より活動領域を広げることが出来そうです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その1。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その1。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しているのですが、前回読んだのがちょうど一年前でした。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


その光景を見るときに起こるだろう、一人一人まったく違っていて、しかし、人間という種としては、多くの部分で共通もする、広く多様で深い複雑な心の動きの総合が「美」と名付けられた。

美しいも汚いも、上手いも下手も、ビックリするところまで行きついたものに、私たちは驚き、感嘆して見つめる。

人間はみんな違うのだから、一人一人の美ももちろん違う。
しかし私たちは同時に皆人間で、あるものには共通して心を動かすことができる。

ほんの200年程前までは、世界中に本物の王様がいて、私たちの美をその人が決めてくれていた。でも私たちはそういうシステムはやめて、美はみんながそれぞれ決めていいことになっている。

表現は大きく拡大しても、心が動くことは、私たちに共通して未だに起こる。美術館はそのきっかけとなったビックリを描きとめたものをとって置き、後々いつでも誰でも確認できる場所として機能し、存在する。

美術を使おう

小さい人たちが描いている絵は(中略)彼らの世界の見え方を、見えた通りに描いているだけ。彼らの絵に描いてある世界の方が、彼らにとっては正しい。

物をつくる実際の作業は、その人の運動神経と密接に関係する。速い遅い、丁寧雑は、個人の資質なのである。走るのが速い遅いと同じように練習で何とかなる部分と、練習ではどうしようもないところがある。作る/造形する部分は、ごく個人的なのである。でも、納得するまで制作にあなたの時間をかけることは、推奨される。

私たちは、どこの目で、何を見ていた/見ている のだろう。見えている物を見えているように描く、目と手の運動の練習。
見えていると思っている物を、再度点検する。思い込みは、本人が思っているよりも遥かに強く、見ることに影響を与えている。
上手に描くことのまえに、丁寧に、見えるように見ることに気づく練習。

美術館に出かけ「人間はこれまでに何を見てきたのか」を見に行く。作品の意味を知るのではなく、そこに描いてあることを素直に見ることができる視点に支えられると、個人の中の美術の理解は劇的に変化する。

作家の思いなんか、端から無視していいのだ。でも丁寧に、注意深く、描いてあるものを見ていき、自分の思いをめぐらせれば、同じ人類が描いたものだから、自ずと描いた人の想いも見えてくる。それだけでなく自分の想いも、その(作家の)想いを感ずることで広がっていく。作家の想いを超えて、あなたの想いを広げてくれるのが、良い絵。本当の意味の鑑賞。

10才未満の、毎日がほとんど非日常である小さい人たちと、非日常の楽しみである美術。を楽しむには、どのような工夫をしなければならないか。美術の目を生活の中で使う練習。見える物だけでなく、見えない物にも、目を配って見る。見えない物だけで、見えることを実験してみる。小さい頃に美術を学ぶということは、上手に絵が描けるとか工作ができるとは別に、「トトロ(見えない物の存在)はいる」と思える想いを持つことができる子供になること。

何かをなすための作業ではなく、そのこと自体を楽しむ。

物を意識的にきちんと壊してみるという作業が、生活の中からなくなっている。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


その2、以降に続く。

ちょっとした「嬉しい」の積み重ね。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

ちょっとした「嬉しい」の積み重ね。

今日はようやく朝からお日さまが出て、青空がまぶしい一日でした。雨が一週間以上続くと、やっぱり気分的にうつうつとしがちになるもので、そんななか「あら」と嬉しくなる景色が目に飛び込んでくると、気分が明るくなります。

2階からふと庭に目を向けたら、いつの間にかサルスベリが咲いていました。毎日チェックしていたはずなのに、葉っぱに隠れていて気づきませんでした。我が家の百日紅は毎年遅いので、まだ咲いていないだろうと思い込んでいたところへ、嬉しいサプライズ。雨のなか、華やかなピンク色が映えていました。

百日紅
百日紅。

夜、戸締りをしようとしたときに玄関にヤモリ発見。ヤモリ=家守で縁起が良いので大好きです。それに、なんといっても姿が可愛らしい。ガラスの反対側から足の吸盤の様子など見ていると、生きる力を感じます。この子はまだ小さかったので、これから我が家で育ってくれると良いな、と思いつつ。

ヤモリ
玄関にヤモリ。

花祭窯の露地を庭師さんにお願いしたときに植えた百合は、ヤマユリとカノコユリの2種類でした。が、昨年からこの白百合が咲くようになって、今年も伸びてきたなぁ、と思っていたら雨の中きれいに開花。ご近所から種が飛んできたのでしょうね。花の少ない季節に嬉しい華やかさです。

白百合
どこかから飛んできて咲いた白百合。

10年以上前になりますが、僧侶であり著作も多数お持ちの小池龍之介さんの本のなかに、なるほどと思ったものがありました。いわく、良いことを連鎖させたいと思ったら、どんなに小さなことでもいいから「良いこと」を発見して、その発見を積み重ねていくとそれがすなわち「良いことの連鎖」につながる、と。

実際にこの習慣を始めてみると、「嬉しい」は身の周りにたくさんあることに気づきます。そして嬉しいことがあったと意識したり、数えてみたりすると、さらに気持ちが上向いてきます。ちょっとした「嬉しい」の積み重ね。単純ですが、なかなかの効用です。

地域における社会教育(生涯学習)の拠点について考えた。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

地域における社会教育(生涯学習)の拠点について考えた。

ローカルな話題ではありますが、現在、福津市では第3次福津市行財政改革大綱へのパブリックコメント(市民意見公募)を受け付けています。『時代に応じた市民生活の質の向上を図るため、効果的・効率的な行財政運営を実現し、「持続可能なまちづくり」を行うための行財政改革の理念と基本方針を定めるもの』(福津市ホームページより)に、市民の声を反映させる方法のひとつです。

このなかに、公共施設の統廃合・再配置が取り上げられていて、福津市が掲げる社会教育「郷育カレッジ」の主な講座会場となっている福津市中央公民館も、その検討対象として名前が挙がっています。福津市には、カメリアホール(福津市複合文化センター・文化会館)という施設もあるので、そちらに統合できるのではないかというのが、統廃合推進論の根拠となるのだろうな、と思いつつ。

「ここが地域の社会教育の中心ですよ!」を体現する施設があることは、その地域の社会・文化教育を活性化するのに、大きな役割を果たすと思います。ただ、それも「どれだけ活用されているか」によるもの。中身が伴わなければ意味がありません。そういう意味では、福津市には市民のための社会教育システム「郷育カレッジ」がありますので、中身はバッチリ。

わたしは個人的には、学べる場がありさえすれば「象徴的な場所」が無くてもOKと考えています。象徴的な場所が必要なのだとしても、コンセプトと実際の働き(中身)さえしっかりとしたものがあれば、会議室ひとつでも足りるかも、と。一方で、「ここがその場所」と集約的な役割を果たす空間があれば、より多くの人に機会を届けやすいのは間違いないとも思っています。たとえば公共の博物館や美術館は、建物自体(時には周辺環境をも含め)がその役割をも兼ねていて、年々その重要性への認識が高まっていると感じています。

まずは実際に社会教育(生涯学習)の場(教室)として使える場所が、どれくらいあるのかを知ることが必要だなぁ、と。これまでの稼働率を出せば、「不足しているのか、余っているのか」もわかるはずです。そして統廃合というよりは、施設の目的・役割を見直す「再配置」を促すのであれば、今までよりももっと「社会教育(生涯学習)の拠点」たる位置づけの場所を確保できるのかもしれないなぁ、と考えています。

まずは一市民として、第3次福津市行財政改革大綱へのパブリックコメント(市民意見公募) に意見を出すことから始めたいと思います。せっかくの機会ですからね。

アートフェアアジア福岡2021のポスターが到着。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

アートフェアアジア福岡2021のポスターが到着。

さっそく、花祭窯にもポスターを貼って宣伝。チラシもありますので、興味のある方は、お声掛けくださいね。アートフェアアジア福岡2021(以下、AFAF)の関係者でも何でもありませんが、福岡でこのようなアートイベントがあることは、文化芸術関係の仕事をしている一人として、とっても嬉しく、応援していきたいと思っています。

昨年はコロナ禍で開催が見送られた「アートフェアアジア福岡」。2019年以来、2年ぶりの開催となります。時節柄、一昨年のような「今が旬のアート関係者」によるトークなどのイベントは予定されていないようです。それは残念ではありますが、仕方がないですね。代わりにと言いましょうか、一昨年よりも、一般の人が入りやすい形になっていると思います。

まず、会期が9月22日(水)~9月26日(日)と5日間あります。前回は一般公開は2日間だけでしたので、5日間あると、忙しい人でも足を運びやすくなると思います。次に、入場料が無料です。アートフェアは通常入場料をとることがほとんどで、AFAFも2019年は1日券1500円フリーパス3000円でしたから、「入場無料」は大きいと思います。無料なら「ちょっと見てみようか?」と足が向きやすくなりますよね。場所も博多阪急の7階8階とまとまっています。

出展ギャラリーは45軒。顔ぶれを拝見して思ったのは、年々、地元であるはずの九州内のギャラリーの割合が減っているのではないかということ。逆に言えば、全国から参加してくれるようになった(それだけの価値を認めてもらえるようになった)とも言え、AFAFが育ってきた証ともいえるのかもしれませんが。どう考えるべきか、ちょっと複雑な気もします。

ただ一般客としては、ふだんなかなか足を運ぶことのできない、全国各地のギャラリーさんのブースを見ることができるというのは、嬉しいことですね。今年も、たったひとつでも「お!」と響くものを発見できるといいな、と期待しているところです。

福岡では、30年間続いたアジアフォーカス・福岡国際映画祭が、2020年の開催を最後に、残念ながら実行委員会を解散してしまいました。わたしは身近な場所で参加できる芸術体験の機会をひとつでも多く持ち続けることが、その地域の活力につながると思っています。このアートフェアが、博多でいうなら山笠やドンタク祭りのように、季節の顔となってずっと続くイベントになったらとても嬉しいな、と思っています。

Meet Me at Art「コラージュ講座」の位置づけは「心の健康」へのアプローチ。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

Meet Me at Art「コラージュ講座」の位置づけは「心の健康」へのアプローチ。

2021年郷育カレッジ講座の特集テーマは「郷育で心も体も健康に!」。昨年度に続き、今年度もコラージュ講座を準備しています。郷育カレッジのなかに美術系の講座が少ないなか、昨年初めて開催したのでした。

美術の教育普及ワークショップメニューのひとつですが、「心の健康」へのアプローチを意図しています。コラージュ制作を通じて、自分の内側を可視化し、客観的に受け入れていくことで、心のリフレッシュを図ります。わたしはこのワークショップを「Meet Me at コラージュ(=コラージュ制作を通じて自分に出会う)」と名付けています。

そもそもわたしが「博物館学芸員技術研修」で学んだコラージュは、芸術表現としてのものではなく、アートセラピーのひとつとしてのコラージュ療法でした。指導してくださった、聖学院大学心理福祉学部教授の藤掛明先生によると、アートセラピーには、心理系アプローチと美術系アプローチ、二つの経路があります。わたしはセラピーの専門家ではありませんが、医療や福祉の現場でも、美術系アプローチ活用への注目は年々高まっているように感じます。

今年度のプログラム進行を検討するにあたり、昨年の講座に参加してくださった方々のご感想を振り返ってみました。

  • 集中して一人静かな時間が持てた。
  • コラージュ制作を通じて、自分の好きなことに改めて気づくことができた。
  • 自分で考えを創作していく過程に、希少価値を感じた。
  • 今自分が表現したいことが明確に出て、面白かった。
  • やりだしたら、ついついはまり込んだ。
  • 空間で何かを表現したいという思いが出てきた。

などなど。これらのご感想を拝見すると、コラージュの目的と効果を再確認することができます。「じっくり自分に向き合う」機会を持てていない方は、少なくありません。約1時間半の講座で、参加者の皆さんが楽しく集中力を高め、夢中になる時間を味わい、終わったらリフレッシュを実感できるよう、進行を考えていくところです。

ところで本日のアイキャッチ画像(一番上の写真)は、『美術館っておもしろい!』(河出書房新社/モラヴィア美術館)より拝借。美術・美術館の役割を絵本にしている本書のなかにも、美術の教育普及の仕事の果たす役割・大切さが、わかりやすく描かれています。

「聴く」の訓練と、「見る」の訓練に、共通点。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

「聴く」の訓練と、「見る」の訓練に、共通点。

英字新聞「the japan times alpha」購読をスタートして半年以上が経過しました。購読者会員向けのサポートが充実したサイトClub Alphaが、自習での学習をサポートしてくれます。紙で届いた英文記事を読み上げてくれる音声と、それらに質疑応答も含めて「多聴」を促す「リスニングとインプット」のための音声コーナー。おかげさまで「目で読む」だけでなく「耳で聴く」訓練も取り入れられるようになってきました。

コーナーのひとつに『「英語が聞き取れない」を治療するイングリッシュ・ドクター西澤ロイのListening Lecture』なるものがあります。そのレクチャーの最初に「リスニングは意味を考えずに聴くべし」というものがありました。いわく、広い意味でのリスニングという行為は「1.音を聞き取る、2.言葉に変換する、3.意味を理解する」の3つに分けられるということ。そしてそれぞれは、別々に鍛えられるべし、と。

それによると、まずは「何と聞こえるか(耳)」に集中することが大切で、そのあとの「言葉に置き換える」はいわば「リーディング」の仕事。まず聞く(リスニング)、次に言葉に置き換える(リーディング)、ここまでで「聞こえたものと言葉を一致」させ、最後に意味を理解する。これを繰り返し訓練していった結果として、最終的に「音が聞き取れて、(無意識に)意味が分かる」という状態になるのだということです。この手順は、赤ちゃんが言葉を覚えて話せるようになるまでのステップと全く同じだという解説に、なるほど納得。( Club Alpha 『「英語が聞き取れない」を治療するイングリッシュ・ドクター西澤ロイのListening Lecture』 参照。)

これを読んで、美術鑑賞の手順と共通点があることに気づきました。本来の(と、わたしが考える)美術鑑賞は、まずは意味(文字・テキスト)のことを考えずに絵や彫刻などの美術作品そのものを観て「何が見えるか(目)」に集中することがなによりも大切です。「何が見えるか」が出てきたら、「何が見えるか、どう見えるか」を書き出し(リーディング)、最終的に「それはなぜだと思うか(意味)」を自分で導き出します。「受け取る→言葉に置き換える→意味を導く」という手順ですね。受け取る器官が、リスニングは耳であり、美術鑑賞は目であり。

美術鑑賞と英語のリスニングとの大きな違いは、英語の場合は、音と結びつけられる言葉にも意味にも一般的に共通理解される「正解(おおよその)」があるのに対して、美術鑑賞から導き出される意味には決まった正解は無く、すべての解は鑑賞者それぞれのなかにあるということ。

いずれも、最初の段階「何と聞こえるか」あるいは「何が見えるか」で、雑念(文字情報)を入れずにそのままに受け取ることが重要です。そして一見簡単そうにみえる「そのままに受け取る」ことも、それができる耳や目を手に入れるのには、繰り返しの訓練が役に立つということも共通点。思いがけず英語学習の手順に美術鑑賞教育との共通点を発見したところでした。