読書『名画で読み解く ブルボン王朝12の物語』(光文社新書)中野京子

こんにちは、花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『名画で読み解く ブルボン王朝12の物語』(光文社新書)中野京子

中野京子さんによる「ヨーロッパの歴史を名画とともに紐解いていく」シリーズ、『イギリス王家12の物語』に続いては、『ブルボン王朝12の物語』です。

今年に入って「藤本ひとみ祭り」で読んできた『皇妃エリザベート』『王妃マリー・アントワネット<青春の光と影>』『王妃マリー・アントワネット<華やかな悲劇のすべて>』『アンジェリク』『ハプスブルグの宝剣』など、17-18世紀ハプスブルグ家周りのストーリーとして読んでいました。隣り合う両家。マリー・アントワネットはルイ16世妃ですから、どちらかといえば「ブルボン王朝」のお話ですね。すぐにピンとこなかったのは、ひとえに我が浅学故。

さて『名画で読み解く ブルボン王朝12の物語』。フランス文化が花開き絶頂期を迎えたのが、このブルボン家を代表する太陽王・ルイ14世の時代でした。王朝が芸術文化の大パトロンとなり、フランスこそが文化の中心であるという意識を確固とした文化振興策の数々が打ち出され、それらの最大の象徴としてのヴェルサイユ宮殿・宮殿文化ができあがり…という時代。「ブルボン王朝=ヴェルサイユ宮殿」。なるほど文化の中心としてのフランスの位置づけは、ブルボン王朝からはじまったのですね。読み終えてやっと結びつきました。

また、パリからヴェルサイユに王宮を移したために、残されたルーヴル宮は美術の中心拠点としての色合いをより強化することになり、その先にルーヴル美術館の誕生があるということも、あらためて整理することができました。ルイ15世時代の王家コレクションの公開展示、16世の時代に美術館実現へ向けてのプロジェクトがはじまり、革命勃発・王権停止を経て、革命政府による美術館化プロジェクト推進により、1793年ルーヴル美術館オープン。この、政権が大きく変わっても美術館プロジェクトが大切なものとして変わらなかった価値観の定着が、ブルボン王朝の大きな遺産だったのではないかと思えました。

ヴェルサイユ宮殿の門柱には、今もブルボン家の紋章が輝き続けているそうです。わたしはこれまでの人生で2回パリに旅行をして、2回ともヴェルサイユ宮殿に行く予定を組んでいながら実現しなかったという不思議があります。次回フランス渡航の際には、三度目の正直で足を運びたいと思います。

読書『名画で読み解く イギリス王家12の物語』(光文社新書)中野京子

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読書『名画で読み解く イギリス王家12の物語』(光文社新書)中野京子

「怖い絵」シリーズで有名な中野京子さんによる、「ヨーロッパの歴史を名画とともに紐解いていく」シリーズです。ちょうどひと月ほど前に本屋さんをぶらぶらしていて発見したのでした。『プロイセン王家12の物語』『ブルボン王朝 12の物語』『イギリス王家12の物語』『ハプスブルク家12の物語』『ロマノフ家 12の物語』を合わせた「この5冊を読めばわかる!」という魅力的なシリーズ。

本屋さんで発見したときは、衝動的に全巻手に取りそうになるところをぐっと抑えたのでしたが、まずは図書館に新刊で入っていたものを読んでみて、やっぱり「わたしに必要なシリーズ本」認定です。まだ2冊読み終わったばかりですが、少しづつ点がつながっていくのを感じています。

中野京子さんが「片方から見ていた風景が、逆の側からはどんな風に見えるかを知ることで、歴史の複雑でダイナミックな動きを感じていただけるのではないか」と『ブルボン王朝12の物語』の「あとがき」で書いておられるのですが、まずは見えていたものが少しづつつながっていく感じ。5冊全部読み終わったころには、それがダイナミックな動きとして感じられるようになっていることを期待しつつの読書です。

さて 『名画で読み解く イギリス王家12の物語』 。先日DVDで「エリザベス1世」を見るにあたり、手元に用意してパラパラと開き、該当する時代の絵画と解説と家系図を眺め、付焼刃的にではありますが、イメージを補足することができました。

おかげさまで、少しは流れがつかめたような気がしています。中野京子さんの解説が、学術的というよりは会話っぽくて、読んでいて親しみやすく、わかりやすいです。絵がすべてカラーで載っているのも嬉しく贅沢です。新書サイズですので、手軽に持ち運べるのもいいですね。しばらくお出かけのお伴になりそうです。

本書に登場する絵画は、見たことのあるものもあれば、初見のものも多数。見たことがあったかもしれなくても、覚えていないものも多々。ロンドンに行ったときは、いつもナショナルギャラリーには足を運ぶのですが、お隣にあるポートレートギャラリーに入る前にお腹いっぱいになったり、閉館時間になってしまうことが続いていました。それだけナショナルギャラリーの見ごたえがあるということなのですが、次回はまずポートレートギャラリーに足を運びたいと思います。

Meet Me at Art「コラージュ講座」の位置づけは「心の健康」へのアプローチ。

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Meet Me at Art「コラージュ講座」の位置づけは「心の健康」へのアプローチ。

2021年郷育カレッジ講座の特集テーマは「郷育で心も体も健康に!」。昨年度に続き、今年度もコラージュ講座を準備しています。郷育カレッジのなかに美術系の講座が少ないなか、昨年初めて開催したのでした。

美術の教育普及ワークショップメニューのひとつですが、「心の健康」へのアプローチを意図しています。コラージュ制作を通じて、自分の内側を可視化し、客観的に受け入れていくことで、心のリフレッシュを図ります。わたしはこのワークショップを「Meet Me at コラージュ(=コラージュ制作を通じて自分に出会う)」と名付けています。

そもそもわたしが「博物館学芸員技術研修」で学んだコラージュは、芸術表現としてのものではなく、アートセラピーのひとつとしてのコラージュ療法でした。指導してくださった、聖学院大学心理福祉学部教授の藤掛明先生によると、アートセラピーには、心理系アプローチと美術系アプローチ、二つの経路があります。わたしはセラピーの専門家ではありませんが、医療や福祉の現場でも、美術系アプローチ活用への注目は年々高まっているように感じます。

今年度のプログラム進行を検討するにあたり、昨年の講座に参加してくださった方々のご感想を振り返ってみました。

  • 集中して一人静かな時間が持てた。
  • コラージュ制作を通じて、自分の好きなことに改めて気づくことができた。
  • 自分で考えを創作していく過程に、希少価値を感じた。
  • 今自分が表現したいことが明確に出て、面白かった。
  • やりだしたら、ついついはまり込んだ。
  • 空間で何かを表現したいという思いが出てきた。

などなど。これらのご感想を拝見すると、コラージュの目的と効果を再確認することができます。「じっくり自分に向き合う」機会を持てていない方は、少なくありません。約1時間半の講座で、参加者の皆さんが楽しく集中力を高め、夢中になる時間を味わい、終わったらリフレッシュを実感できるよう、進行を考えていくところです。

ところで本日のアイキャッチ画像(一番上の写真)は、『美術館っておもしろい!』(河出書房新社/モラヴィア美術館)より拝借。美術・美術館の役割を絵本にしている本書のなかにも、美術の教育普及の仕事の果たす役割・大切さが、わかりやすく描かれています。

本と映像で時間と空間をバーチャル移動。

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本と映像で時間と空間をバーチャル移動。

このお盆は、2020年のお正月以来顔を出せていなかった実家詣でを計画していましたが、折からの「まん延防止等重点措置」「福岡コロナ特別警報」を受けて、延期。ほぼ外出無しの夏休みとなりそうです。

家(=兼仕事場)に居るとついつい仕事をしてしまうので、強制的に物理的に離れた場所に移動することは、わたしにとってはメリハリをつけるのに大切です。が、それがしにくいこの夏休みは、時間と空間をバーチャル移動することに。「バーチャル」なんて言葉を使うと、最新IT技術をイメージする方もあるかもしれませんが、単に仮想とか疑似という意味です。本と想像力さえあればOK!今回はさらにDVDもあるのでばっちりです。

この機会に、長すぎて観るのを躊躇していた「エリザベス1世」を一気に見ることに。前編109分、後編112分。長いなぁ、と思っていましたがさもありなん、映画ではなくイギリスで放映されたテレビドラマでした。ほぼ王宮内で完結するストーリーで、歴史ものというよりは愛憎もの?でも王宮内の人間関係や駆け引きがそのまま政治に反映され、国際的な立場にも影響すること考えると、やはり歴史もの。それを「独身を貫いたエリザベス1世」の人間的側面からクローズアップした物語でした。

エリザベス1世といえば、ミュージカル「レディ・ベス」を博多座で観たのは、ちょうど七年前のこの季節でした。「レディ・ベス」は、エリザベスが少女から女王になるまでの物語。今回見た「エリザベス1世」は、「女王になったあと(けっこう時間が経ってから)亡くなるまで」の物語でしたので、レディ・ベスのエピソードは、「その前」を知る補足となりました。

それでも前提となる知識が足りませんので、前半と後半の間に、中野京子さんの『名画で読み解く イギリス王家12の物語』(光文社新書)をパラパラと開き、該当する時代の絵画と解説と家系図を眺め、付焼刃的にイメージを補足。エリザベス1世は、ロンドン塔の「反逆者の門」をくぐりながらも、そこから出てきて、しかも治政者として長年貢献するというレアな偉業を成し遂げた人物であること、自らもその政敵をロンドン塔に放り込んでいたことを、絵画的にインプット。

トータル約4時間のバーチャル移動、十分に楽しみました。せっかくなので、次はケイト・ブランシェットの映画版によるエリザベス1世『エリザベス ザ・ゴールデンエイジ』も観たいな、と思います。

読書『希望の一滴 中村哲、アフガン最後の言葉』(西日本新聞社)

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読書『希望の一滴 中村哲、アフガン最後の言葉』(西日本新聞社)

2019年12月4日に亡くなった、ペシャワール会中村哲先生の、生前の記事やインタビューをまとめた一冊。亡くなられて1年以上が過ぎ、関連するたくさんの本が出版されていますが、本書は中村先生自身による西日本新聞への連載記事と、ペシャワール会の会報への原稿が中心になっています。

ペシャワール会は1983年、中村哲医師のパキスタンでの医療活動を支援する目的で結成された国際NGOです。以後、中村医師の活動がアフガニスタンへと広がって行く中、中村医師が率いた現地事業体PMS(Peace Japan Medical Services 平和医療団・日本)を支援し続けています。( 『希望の一滴 中村哲、アフガン最後の言葉』(西日本新聞社) より)。

福岡県は中村医師の故郷であり、ペシャワール会の事務局も福岡にあります。そのため、ほかのエリアよりは、中村哲さんのアフガニスタンでの活動について見聞きする機会が多い方であると思います。わたしの周りにも、直接間接的に中村医師と関わっている方々が少なからずあり、なかにはご親戚や、ともにアフガニスタンで活動した方もいらっしゃいます。

それでも、実際にどれほどの活動をなさっていたのかを、もっとしっかり知らなければとわたし自身が自覚したのは、中村医師の訃報に接してからでした。本書でもあとがきにありましたが、亡くなったことによる喪失感の大きさと、亡くなったことにより広くその事業と理念が知られるようになり、支援の輪がさらに広がっているという現実が、両方あるのだと思います。

特に福岡県内においては、2020年以降、各地で中村医師の活動の軌跡を知らしめる展示や講演などのさまざまな活動が、地道に展開されていました。コロナ禍において、それぞれの活動は制限を伴ってはいましたが、ほんとうにあちらこちらで、あらためて中村医師の活動・理念を知るための機会が設けられ、その流れは今も続いています。生前から実際に関わってきた方々が、使命感を引き継ぎ、声を上げ始めている感じがいたします。

我が家では、ここ津屋崎に移転して以来西日本新聞を購読していますので、中村医師の連載もリアルタイムで読んでいたはずですが、すっかり忘れていることも多々。あらためて書籍になったものを読み直すと、やはり感嘆せずにはいられません。なかでも「第4章水のよもやま話」は、困難ななかでの活動継続を支えた中村哲さんの源泉・人となり、自然界や人間へのまなざし、文化感・歴史観が伝わる文章となっています。アフガニスタンの問題は、アフガニスタンだけでの問題だけではないということが、切迫感をもって伝わってきます。ほんとうに憂うべきは何か、自分自身の問題として考えることが求められます。

活動内容の詳細については、本書をはじめとした関連書籍や、ペシャワール会事務局ホームページでの情報提供をご参照いただくと、より理解が深まるかと思います。

読書『グレゴワールと老書店主』(東京創元社)マルク・ロジェ著、藤田真利子訳

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読書『グレゴワールと老書店主』(東京創元社)マルク・ロジェ著、藤田真利子訳

こちらもいつものカメリアステージ図書館新刊棚から。「老書店主」のタイトルに釣られて借りてきました。「老書店主」は智恵と教養の宝庫!のイメージ(思い込み)があります(笑)。まったく前情報無しに読みました。読み終わってから確認したら、著者は西アフリカ・マリ共和国生まれとのこと。著者の詳細は分かりませんでしたが、フランスで朗読活動をなさっているようです。初著となるこの物語の舞台もフランスの地方の町。

そういえば今年の初めに読んだ『忘却についての一般論』の舞台が、アフリカ・アンゴラであり、著者のジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ氏はアフリカ生まれでした。原著はポルトガル語で書かれていたと思います。いろいろな国で出版される本を(言語を)翻訳してくださる方々のおかげで、いろいろな国にルーツを持つ作者の紡ぎだすいろいろなお話を読むことができるありがたさ。

さて『グレゴワールと老書店主』の舞台は、高齢者福祉施設と思しきホーム。高校を卒業したばかりの施設職員「グレゴワール」青年と、人生のすべてであった書店を売り払い施設で残りの人生を送る老書店主との、「本の音読」を通じた交流の物語。青年が、老書店主との「音読の訓練」によってたくましく成長していくようすを、ときおり拳を握りつつ見守る読書となりました。

ときおり拳を握りつつ、というのは、この物語が単純に心温まる美しいストーリーではなく、生々しく、ときに蓋をしてしまいたくなるような現実を突き付けてくるからです。そんな部分も含めて、人間の弱さと生きざま(=死にざま)を考えさせられました。そして、それぞれの人生に、本がどれだけの糧を与えてくれるかということも。

上の写真は、4年ほど前に読んだ医学博士の川島隆太氏と独文学者の安藤忠夫氏による音読論『脳と音読』。実験や研究の結果を通して論じられる音読論でした。『グレゴワールと老書店主』での、ホームでの音読の試みは、まさに音読がもたらすものを知ることのできる実験場となっていました。実はわたしはこの秋に「図書音訳」の技術講習を受講予定で、思いがけずタイムリーな読書となりました。

「聴く」の訓練と、「見る」の訓練に、共通点。

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「聴く」の訓練と、「見る」の訓練に、共通点。

英字新聞「the japan times alpha」購読をスタートして半年以上が経過しました。購読者会員向けのサポートが充実したサイトClub Alphaが、自習での学習をサポートしてくれます。紙で届いた英文記事を読み上げてくれる音声と、それらに質疑応答も含めて「多聴」を促す「リスニングとインプット」のための音声コーナー。おかげさまで「目で読む」だけでなく「耳で聴く」訓練も取り入れられるようになってきました。

コーナーのひとつに『「英語が聞き取れない」を治療するイングリッシュ・ドクター西澤ロイのListening Lecture』なるものがあります。そのレクチャーの最初に「リスニングは意味を考えずに聴くべし」というものがありました。いわく、広い意味でのリスニングという行為は「1.音を聞き取る、2.言葉に変換する、3.意味を理解する」の3つに分けられるということ。そしてそれぞれは、別々に鍛えられるべし、と。

それによると、まずは「何と聞こえるか(耳)」に集中することが大切で、そのあとの「言葉に置き換える」はいわば「リーディング」の仕事。まず聞く(リスニング)、次に言葉に置き換える(リーディング)、ここまでで「聞こえたものと言葉を一致」させ、最後に意味を理解する。これを繰り返し訓練していった結果として、最終的に「音が聞き取れて、(無意識に)意味が分かる」という状態になるのだということです。この手順は、赤ちゃんが言葉を覚えて話せるようになるまでのステップと全く同じだという解説に、なるほど納得。( Club Alpha 『「英語が聞き取れない」を治療するイングリッシュ・ドクター西澤ロイのListening Lecture』 参照。)

これを読んで、美術鑑賞の手順と共通点があることに気づきました。本来の(と、わたしが考える)美術鑑賞は、まずは意味(文字・テキスト)のことを考えずに絵や彫刻などの美術作品そのものを観て「何が見えるか(目)」に集中することがなによりも大切です。「何が見えるか」が出てきたら、「何が見えるか、どう見えるか」を書き出し(リーディング)、最終的に「それはなぜだと思うか(意味)」を自分で導き出します。「受け取る→言葉に置き換える→意味を導く」という手順ですね。受け取る器官が、リスニングは耳であり、美術鑑賞は目であり。

美術鑑賞と英語のリスニングとの大きな違いは、英語の場合は、音と結びつけられる言葉にも意味にも一般的に共通理解される「正解(おおよその)」があるのに対して、美術鑑賞から導き出される意味には決まった正解は無く、すべての解は鑑賞者それぞれのなかにあるということ。

いずれも、最初の段階「何と聞こえるか」あるいは「何が見えるか」で、雑念(文字情報)を入れずにそのままに受け取ることが重要です。そして一見簡単そうにみえる「そのままに受け取る」ことも、それができる耳や目を手に入れるのには、繰り返しの訓練が役に立つということも共通点。思いがけず英語学習の手順に美術鑑賞教育との共通点を発見したところでした。

読書『人間であることをやめるな』(講談社)半藤一利

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『人間であることをやめるな』(講談社)半藤一利

いつものカメリア図書館「新刊コーナー」で手に取った一冊です。「新刊コーナー」は、ジャンルにとらわれずアンテナに響くものを見つけることが出来るので、わたしにとっては、視野を広げるのに最適な場所になっています。読書傾向が偏りがちなのは当たり前のこととしても、「たまにはこんなのいかが?」と無言でプレゼンしてくれるのが、新刊コーナーです。

半藤一利さん。恥ずかしながら「お名前だけは聞いたことがある」というぐらいでした。映画『日本の一番長い日』(2015年)の原作者、昭和史研究の第一人者にして「歴史探偵」。今年の初めに亡くなられたのですね。著書を読むのは初めてで、読後、もっと早く手にする機会が無かったものかと自問しました。でも、本との出会いはタイミング。わたしにとっては、今がその時ということですね。

本書は2021年4月初版。亡くなったのが1月でしたから、その後に刊行されたことになります。2009年から2015年の間に初出された文章の中から、「墨子と竜馬と」「明治の将星のリアリズム―名言『坂の上の雲』」「石橋湛山と言論の自由」「昭和天皇の懊悩と歴史探偵の眼」「人間であることをやめるな」が収録されています。

図書館で手に取ったときには「なんとなく」でしたが、読んでみて、わたしにとって今まさに読むべき本であったとわかり、驚きました。久しぶりに「本に呼ばれた」と、感じました。ここ最近の読書で再三考えさせられている「時代は進んでも、同じ失敗を繰り返す」わたしたちへの警鐘に他ならない文章の数々です。

同じ過ちを繰り返すのは、歴史を直視せず、事実を知ろうとせず、そこから学ぶことを怠ってきたからに他ならないということ。そもそも為政者によってそれぞれの時代の「記録」がきちんとなされてこなかった(不都合なことは隠蔽された)傲慢・怠慢。そして明治期以降の短い期間にも、同じこと(失敗)が繰り返され続けているという驚愕。著者の言う「リアリズムとは無縁の、想像的楽観主義」による政治…。

「リアリズムとは無縁の、想像的楽観主義」。もう、今まさに、というところですね。先日読み終わった山崎豊子さんの『運命の人』しかり、 「ペン」で警鐘を鳴らし続けている人たちがいた(いる)ことに力を得る一方で、それでも世の中が「空気」に押し切られてしまう怖さ弱さを思います。

上の写真は、ご近所の津屋崎浜から大峰山方面を仰いだところ。大峰山の山頂には「東郷公園」「東郷神社」があります。「東郷」は、東郷平八郎のこと。司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』に出てくる日本海海戦ゆかりのスポットです。わたしは「なぜここに?」が理解できなかったのですが、日本海海戦がこの岬の沖で行われたことから、東郷平八郎の信奉者らにより大正時代に建設運動が起こり、昭和初めに完成したということです。

半藤一利さんはもちろん、墨子、司馬遼太郎、石橋湛山と、これまで自分にとって距離のあった人物に対して、興味の沸いてくる読書となりました。司馬遼太郎さんは、いつかはと思いながら、まだ全く手についていませんでしたから、今からがタイミングということでしょう。ほんとうに、読んでいないものばかりです。少しづつ、手に取っていこうと思います。

読書『運命の人』(文春文庫)山崎豊子-後半(3・4巻)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『運命の人』(文春文庫)山崎豊子-後半(3・4巻)

数日前に、読書『運命の人』前半をアップしましたが、その後半です。前半の感想の最後に「エンディングに向かってドキドキ」などと書いておりましたが、それどころではありませんでした。本書では「国家権力とジャーナリズムの戦い」ひとつを主題としていたのではなく、「沖縄問題」そのものをさらに深く追求していくことが、もうひとつの大きな主題であったのだと気づかされました。

わたしが読んだのは文庫版。「文庫版のためのあとがき」を山崎豊子さん自身が手がけており、そのなかに、この本に対する思いがはっきりと書かれています。いわく「通常より早い文庫化をお願いしたのは、私の方からだった。一人でも多くの読者に読んで欲しいと、願ったからである。」(『運命の人』(文春文庫)「文庫版のためのあとがき」より)。

この「あとがき」を読んでさらに、本書への並々ならぬ思いを感じました。ちょっと探してみたところ、文芸春秋社のサイトに、本書についての山崎豊子さんへのインタビューが載っていました。そのなかで「これが最後の作品だという気持ちをこめて書き上げました」とおっしゃっています。

「沖縄の基地の統廃合には、日本の外交、防衛のありようが集約されている。再び取り返しのつかない不幸な事故が起きない前に、国民一人一人が真摯に考えて欲しい、というのが私の切なる願いであり、拙著がその万分の一でも役立てば幸せである。」 (『運命の人』(文春文庫)「文庫版のためのあとがき」より)。

わたしは本書がいつ書かれたのかを知らずに手に取りましたが、読み終わって、これが最近の著書であったことを知り、現在の日本の状態を憂う著者の思いの結晶であることがわかりました。まぎれもなくわたしにとっては、真摯に考えるきっかけとなる一冊(4巻)です。「ペンは剣よりも強し」の言葉が思い出され、ペンを手に取る人の責任感・使命感を強く感じた読書でした。

読書『運命の人』(文春文庫)山崎豊子-前半(1・2巻)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『運命の人』(文春文庫)山崎豊子-前半(1・2巻)

約半年ぶりの山崎豊子さん。前回の「勝手に山崎豊子祭り」では、大阪船場商人の生きざまを感じさせる本を読んでいました。できるだけ冊数の少ないものから…とスタートしたところ、初期の作品になっていました。今回はちょっと大作に手を伸ばしてみようと思っています。まず手に取ったのが、大作のなかでも比較的冊数の少ない本書『運命の人』、文庫で4巻です。現在2巻まで読み終わり、折り返し地点。

「国家権力とジャーナリズムの戦い」と銘打たれたストーリー。政治家・官僚とメディア。自分たちの生活がいかに振り回されているかを痛感するここ一年半を経て、思いがけずタイムリーな読書となりました。さまざまな課題・場面において、今も実際に、国の政治において似たようなことが起こっているのだろうことがイメージ出来て、背筋が寒くなります。このところ「時代は進んでも、同じ失敗を繰り返す」ことを考えさせられる本に立て続けに出会っていますが、本書もまたそのひとつです。

日本の近現代史を知る上でも、興味深い読書となっています。本書での事件の背景にある沖縄返還は、1972年。自分に置き換えると3歳の時です。ストーリーを追いながら、自分がいかに、生まれ育った時代のことを学ばずに生きてきたかを思います。近現代史、ちゃんと学ばないといけませんね。小説はもちろん事実そのものではありませんが、事実を下敷きにした、書き手の目を通した「その時代」を読むことができると思っています。そういう意味でも山崎豊子さんの本は、わたしにとって時間がかかっても必ず読んでおくべき本に位置づけられると感じています。

『運命の人』読書は後半2巻に入ります。エンディングに向かってドキドキが大きくなっています。