お弁当スタートから1週間。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

お弁当スタートから1週間。

息子が高校生になったタイミングでスタートした、毎日のお弁当作り。本人が「自分で作る」と宣言したので、わたしは見守り・アドバイス・お手伝いに徹して、1週間が過ぎました。今のところ、頑張って継続しています。

そもそもなぜ彼が自分で作ると言い出したのか、その言葉が当たり前のようにスラっと口から出てきた背景を考えてみたところ、ふたつのことが思い当たりました。

「むなかた自炊塾」「弁当の日」です。

「むなかた自炊塾」は、九州大学持続可能な社会のための決断科学大学院プログラムの比良松道一先生(2021年4月現在)が代表を務める活動グループ。比良松先生は、九州大学での「自炊塾」の取り組みからスタートし、全国各地で食育に関連する講演をなさっています。むなかた自炊塾は、九州大学での取り組みを地域に生かした、いわばスピンオフ版でした。

むなかた自炊塾に息子が参加していたのは、小学校高学年の2年間ほど。最初は親子で参加したものの、親が忙しくて参加できなくなると、息子一人で参加するようになりました。大人に混じってエプロンと三角巾をつけ、先生の講義を聞いたり、生産者の方々の生の声を聞いたり、プロの料理人の話を聞いたり、皆で調理実習をして食べたり。さまざまな「食に関わるプロ」と一緒にご飯を作り食べる時間は、ありがたい機会であったと思います。

「食べることは生きること」を学ぶ場。食に関する大切な知恵や知識を教えていただいていました。ただそれよりも、子ども一人で参加していた彼を周りの皆さんが気にかけてくださり、温かい思い出がたくさんできたことこそが、「自炊塾」での一番大きな糧になったのだと思います。準備から後片付けまでの流れのなかで、「人とのかかわり」こそが、宝物になったのではないでしょうか。

一方「弁当の日」は、香川県の小学校で竹下和男校長(当時)が、子どもたちに「くらしの時間」を取り戻したほうがよいと考えて2001年にスタートした活動。子どもが自分でお弁当を作って学校に持ってくるという取り組みです。映画にもなっているので、ご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね。 この活動に共感した地方自治体に「弁当の日」が広がり、ここ福津市でも息子が小学校在学中に弁当の日が導入されました。

この取り組みのおかげで、小学校高学年の頃から、年に1回は「自分でメニューを考え、食材の買い物から弁当作りまでを行う」機会を持つことができました。一緒に買い物に行くことで、自分が考えたメニューをそのまま実現しようとしたら、材料費が思いのほかかかることに気づいたり、思った食材が無い場合は代用できるものを探すことなど、少しづつ知恵をつけていくことができました。

これらの経験があって「お弁当を自分で作る」につながったのだと思います。高校生活の朝は早く、勉強と部活とでいっぱいいっぱいになりそうなところ、どこまで頑張れるかな、と楽しく見守っているところです^^

25分集中、5分休憩。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

25分集中、5分休憩。

先日読んだ『オードリー・タン 天才IT相7つの顔』(文藝春秋)に書いてあった、時間管理術。天才にはなれないけれど、行動様式を真似することで得られるものがあるかもしれないと思うのは甘いでしょうか(笑)。これならわたしにも試せそう!と思ったのが「25分集中、5分休憩」の仕事パターン。今まさに、タイマーで計りつつ書いています。

2セットで1時間になる計算。そういえば高校あたりでは、50分の授業に10分休憩という時間割ですから、人の集中力を考えたときに、理にかなうものなのかもしれませんね。わたしは仕事で切羽詰まった締め切りに追われることがあまり無いので、時間の使い方が緩くなっていることは大いに考えられます。

時間を区切って考えることをストレスにせず、ゲーム感覚で楽しむことができれば、そして習慣化できれば、知的生産性を上げていくことができるかもしれません。25分に1つ、なんらかの成果を出して、積み上げていくイメージ…うまくいくと良いですが。

そういえば『オードリー・タン 天才IT相7つの顔』(文藝春秋)では、「習慣化する」ことの効用も説かれていました。新しいことを学ぶときの秘訣は「新しい習慣を作る」ことを習慣にすることだということです。それによると、新しい習慣を身につけるには一般的に2か月かかり、2か月かかるとしても、1年で6つの新しい習慣を作ることができるはずだと。そう思うと、ちょっぴり楽観的な希望が湧いてきます。

以前読んだ某書で、ブログ記事は15分以内で1本書けるようになるといいね!という提案がありましたが、わたしはどうしても15分以上かかります。この機会に25分を基準にできるといいな、と思っています。さてちょうどタイマーのアラームが鳴りました。25分でブログ1本、まずは成功です^^

カモメ→ツバメ、そしてアオイガイ。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

カモメ→ツバメ、そしてアオイガイ。

いつもの夕方散歩は、海へ。この1週間は、雨が降ったり仕事が重なったりで歩く時間があまりとれませんでしたので、「今日こそは歩くぞ!」と決めていました。空を見上げれば低い雲が悩ましく、山方面はあきらめ、念のため傘を持って海方面へ。

雨を含んだ砂浜は、乾いてサラサラの時よりも、固くなって足がとられず歩きやすいのです。機嫌よく歩を進めていくと、ピュンピュンとツバメの姿。ああ、もうそんな季節ね、と思いながら足元を見れば、葵貝(アオイガイ)が転がっていました。潮の引いた砂浜に取り残された葵貝は、この季節の風物詩。上の写真はその葵貝を主役にした、藤吉憲典の陶箱。下は実物の写真。造形といい色合いといい、美しいですよね。

アオイガイ

貝殻のように見えるこのなかには、本来ならば蛸(タコ)がいます。浜に打ち上がっているときには、貝殻だけになっていますが。タコが粘液を出して自分で作る保護殻だそうで、蛸貝(タコガイ)とも呼ばれます。数年前に一度だけ「中身入り」の状態で打ち上がっているのを見つけたことがあります。半透明の、これまた美しいタコでした。

ともあれ、思いがけない落としもの発見。薄くて壊れやすい殻なので、破損のない状態で見つけるのはラッキー!なのです。目視チェックしたところ、ほぼ完品。用心深く拾って持ち帰りました。右手にアオイガイ、左手に傘。いつもは手ぶらウォーキングなのですが、荷物の多い帰り道となりました。雨は結局降りませんでした(笑)

実は今日の海散歩は、歩き始めからなにか「いつもと違う」感じがしていたのですが、家に到着してから、その理由が突然わかりました。それは、浜でツバメの姿を見たからでも、アオイガイをみつけたからでもなく、「カモメが居なかった」こと。人が歩いていてもギリギリまで動こうとしない、ふてぶてしい態度がご愛嬌のカモメの皆さんの姿がありませんでした。季節の移り変わりを感じた海散歩でした。

読書『オードリー・タン 天才IT相7つの顔』(文藝春秋)

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読書『オードリー・タン 天才IT相7つの顔』(文藝春秋)

写真は「オードリー=鳳」に敬意を表して、鳳凰文様の珈琲碗皿(藤吉憲典)。

昨年コロナ禍での台湾政府の素早い防疫戦略に関する報道のなかでお名前を知ってから、あちらこちらでその名前とエピソードを目にするようになり、気になっていたオードリー・タンさん。彼女に関する本が図書館の新刊書に入ったと聞いて、「オードリー・タン」とついた書籍に片っ端から貸し出し予約を入れていました。予約からひと月ほどで最初に順番が回ってきたのが本書。

読み進めるほどに、どんどんその人物の魅力に引き込まれていきました。インタビューでの受け答えをはじめとして、彼女の発する「ことば」に内包される視野の広さと温かさ。天才であるだけでなく、精神的な豊かさが基盤にあるからこそ、世の中を動かす行動を実現できるのだろうと感じました。

オードリー・タンその人の凄さもさることながら、そういう人が政府の要員として活躍できる環境のある台湾政府のオープンさが目を引きました。ただ、青く見える隣の芝生は、決して無いものねだりではないと思わせる記述が、希望を感じさせてくれました。


かつて台湾の多くの若者は、(中略)国に失望し、「台湾政治に無関心」になった。次に、政治に関心を示す若者を嘲笑するような時代があった。そして今、若者が政治に参加し、国に関心を示すことは、「最初からそうだった」ように当たり前のことだ。

(『オードリー・タン 天才IT相7つの顔』(文藝春秋)より)


それを実現するカギは「情報の可視化」。どうして情報の可視化が進むと、市民が政治に失望することなく参加できるようになるのか。その重要性を字面だけでなく理解するためにも、市民たるわたしたちが知っておくべきことが、たくさん書いてありました。国・地方自治で政治や教育を担う人たちにも、ぜったいに読んで欲しい本です。

巻末付録がまた秀逸です。「Q&A 唐鳳召喚 オードリーに聞いてみよう!」とするインタビューと、「特別付録 台湾 新型ウィルスとの戦い」と題したレポートがついていて、それらが実に読み応えのあるものでした。ウィルス防疫戦略が国防のひとつとして重大だという共通認識を持って着々と整備してきた台湾。「中国もWHOも信じない」という言葉には、政府の市民を守る覚悟が感じられました。

Q&Aインタビューでは、ネットに関するオードリーの基本的な見解が心に残りました。いわく、情報をダウンロードするばかりでなく、アップロードすること、そのバランスが大切だということ。情報をアップロードすることは、インターネットへの貢献につながるということ。アップロードするということはすなわちクリエイティブであれ、ということだと。あくまでも「人」が中心にあってのネットだということが、しっかりと伝わってきました。

質実剛健(しつじつごうけん)自彊不息(じきょうやまず)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

質実剛健(しつじつごうけん)自彊不息(じきょうやまず)

高校入学式でのこと。「校長先生のお話」は大人になるとなかなか聞く機会のないもので、最近はこの手の式典に参加するときの楽しみのひとつになっています。生意気盛りの学生時代には素直に聞けなかった「お話」にも、大人となった今なら耳を傾けることができる面白さ。もちろん先生は、生徒たちに向かって話をしているのですが。

さて校長先生のお話は、「質実剛健 自彊不息」の解釈を中心に、端的でわかりやすいものでした。緊張しているであろう新入生に対する温かい心遣いが感じられるお話で、好感度高く。昨年来この手の式典での「お話」は、冗長さを避け、いかに短時間で気持ちを伝えられるかが問われているように思います。

「質実剛健」を手元の辞書(『国語辞典』集文館刊)で引くと、「質実(しつじつ)」は飾り気がなくまじめなこと、「剛健(ごうけん)」は強くたくましいこと、とありました。各地で校訓としてよく使われているようです。不器用でも己を信じて愚直に進んで行けばよい、という印象を受けました。

「自彊不息」は易経のことばとされています。手元にあった『中国の思想〔VII〕易経』(徳間書店)を開いてみると、易の六十四卦の一つ目「乾為天(けんいてん)」の解説のなかに、「自強不息」を見つけることができました。「きょう」の字が違いますが、これは訳す際にどの字を使ったかの違いでしょう。「乾為天」は「陽」が重なる万物のスタートとなる縁起の良い卦です。

「自強不息」の解説に、「天の運行は剛健積極、一瞬もやむことがない。君子はこの卦象を見て、一瞬も気をゆるめぬよう努め励むのである。」とありました。

これらはその前後に漢文が続いているのなかの一部を抜き出しているので、この解説から意訳して解釈しないことには、意味がつかめません。このあたりが、言葉の使い方の難しさですね。同じフレーズも、前後の文脈によって、どう理解すべきか(理解されるか)が変わってきます。ここでは先の「質実剛健」と組み合わせて、「まじめに、信念を持って、コツコツと努力し続けることの勧め」と理解しました。

校長先生のお話では、さらに「人それぞれにタイミングやペースがあるのだから、すぐに結果を求めるものでは無い。焦らずコツコツと取り組めば、いずれ結果が伴う」という意味合いを含めてくださっていました。このニュアンスが付加されることによって、とても温かみのある言葉として響いてきました。

この機会に、少し前に読みかけてそのままだった『易経』を、読み直してみようと思います^^

花祭窯の四月の庭。

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花祭窯の四月の庭。

花祭窯の小さな露地にも、色とりどりの花が咲いています。今朝は久しぶりにやさしい雨音が聞こえています。雨もまた、植物たちへの自然の恵み。この季節は紫色のバリエーションが多いな、と思います。上の写真は、毎年勝手にツルを伸ばし、可愛らしい花を咲かせてくれるヒメツルニチニチソウ。

冬の間まばらになっていたカバープランツ(地被植物)が、元気に伸びはじめました。多年草のジュウニヒトエは、毎年高貴な紫色を見せてくれます。

ヤマブキの黄色がお日さまに映えています。この春はこれまでで一番花がたくさんついていて、まだしばらく楽しめそうです。

ハギもじわじわと咲きはじめました。ちょっと早いかな、という気もしますが^^

スズランに似た可憐な白い花は、アマドコロというのですね。何年も気になっていましたが、ずっとガーデナーさんに聞きそびれていて、やっと名前を探し当てました(笑)

シランもつぼみがたくさんついてきました。満開になるのは5月頃かな。

最後はおまけで、毎年楽しみなご近所さんの藤棚。今年は2週間くらい早いかな、と。

読書『アンジェリク 緋色の旗』(講談社)藤本ひとみ

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読書『アンジェリク 緋色の旗』(講談社)藤本ひとみ

まだまだ続きます、一人で勝手に「藤本ひとみ祭り」(笑)。『マリリン・モンローという女』『シャネル CHANEL』『皇妃エリザベート』『王妃マリー・アントワネット<青春の光と影>』『王妃マリー・アントワネット<華やかな悲劇のすべて>』に続いては、『アンジェリク』。

フランス革命の時代を「国王側」から描いたのが『マリー・アントワネット』なら、同じ革命を「国王ではないもの」の側から描いたひとつが『アンジェリク』。この国・この時代に対する著者の熱い思い入れが伝わってきます。別の視点から描かれた同時代のストーリーを続けて読むことで、点が線につながる感じとでも言いましょうか、世界史に疎いわたしも、少しは理解が深まったような気がします。

「国王ではないもの」とは、さまざまな階層の貴族であり、経済力をつけたブルジョワジーであり、労働者であり、農民であり、そのどこにも入れない者たちであり。上から目線の『マリー・アントワネット』の物語とは一転して、『アンジェリク』は地を這うような人間臭さのあふれるストーリーでした。

そのなかに秘められた「どう生きるのか」の問いが、この本の主題であったように、わたしには感じられました。主人公アンジェリクがなんども自問する「仕事がなくては食べていけない。食べていけないということは、生きていけないということだった。だが、この仕事でいいのだろうか。これを選んでいいのか。この道を歩いていって本当にいいのだろうか。」の思い。これが中心にあったと感じました。

一人で勝手に「藤本ひとみ祭り」、まだしばらく続きそうです^^

いろいろと動き出している、卯月(うづき)。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

いろいろと動き出している、卯月(うづき)。

卯月八日は、お釈迦様のお誕生日「花祭り」でした。花祭窯の窯名は、創業地の通称「花祭」からいただいたもので、お釈迦様の誕生日とは関係が無いのですが、あやかっておめでたい気分になるので、毎年嬉しくなります。創業時に窯の名前を考えていたときには、実は「花祭り」の意味を知らなかったのですから、不思議なものですね。

お釈迦様のお誕生日としての花祭りは、インドから中国を経て日本に伝わってきた仏教行事として知られていますが、もともと「卯月八日(うづきようか)」は日本の農村部にとって大切な節目だったようです。『和のしきたり』(日本文芸社 新谷尚紀著)によると、万物が生長に向かって動き出す月で、農事をスタートする大切な節目として、日本各地で豊作と無病息災を祈る行事がさまざまに行われてきました。

さて動き出しているのは、農事だけではなさそうです。日本では新年度が4月スタートなので、このタイミングで動き出すものもいろいろとあるのでしょう。花祭窯でも、新たに楽しみな打診をいくつかいただいています。創業以来ずっとチャレンジの連続ですが、何歳になってもその機会をいただけることが、とてもありがたいです。ひとつひとつの機会を大切にし、育てていきたいと思う今日この頃です。

フリートークでブレスト。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

フリートークでブレスト。

使い勝手の気軽さが気に入って、このところよく使っている「Zoomでのよろず相談」。特に実務レベルの課題をピンポイントで専門家に聞くことができて便利です。先日新たに「知りたいこと」が出てきたので、「福岡県よろず支援拠点」に問い合わせ。取り次いだ係の方が「それなら○○さんが全般的にお詳しいです!」とおススメしてくださいました。聞けば相談スケジュールもすぐに埋まりがちとのことで、それは人気が高いのだろうと、細かく調べずにその方に頼むことにいたしました。

さて相談日、話をはじめてすぐに、実はそれほどその分野にお詳しくなさそうだということがわかってきました(笑)。でもとても聞き上手。こちらが話すことを上手に整理してくださいます。意見を交わしつつ必要な情報を画面共有で一緒に調べていくことができそうでしたので、当初の課題解決にはこだわらず、フリートークで考えを深めていくことに方針変更。結果、もともと持っていた課題の根本的解決には至らなかったものの、別のアプローチの可能性が広がり、これはこれで充実した1時間となりました。

さて相談時間が終わりというときになって「実はわたしの専門は…」と切り出されたので、思わず笑いました。思いがけない展開ではありましたが、結果オーライ。なるほどこういう使い方もできるのかもと、「よろず相談」の使い方の幅が広がりそうに思いました。もちろん、専門家の方がどれだけ柔軟に対応してくださるかによると思いますが。ともあれ、今回もお世話になりました^^

映画『アンナ・カレーニナ』の美術に感動。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

映画『アンナ・カレーニナ』の美術に感動。

「読んでいなかった名作を」シリーズで『アンナ・カレーニナ』を読んだのは、昨年初めのことでした。ずいぶん前に読んだような気がしていましたが、まだ1年ちょっとしか経っていませんでした。古くはグレタ・ガルボ、ヴィヴィアン・リー、ソフィー・マルソー、その他にもいろいろと映像化されていますが、今回私が見たのは2012年の米英合作版。

新潮文庫上・中・下巻で合計2000ページ越えの超大作。どうしたら2時間ほどの映画に収まるのだろうとドキドキしましたが、余計な心配でした(笑)ストーリーに必要な要所をきちんと抑えていたからなのでしょう、無理に端折った感じはせず、引き込まれました。

舞台を思わせる場面展開、美術の使い方、そして美しい映像。ヴィジュアル的に、とても満足感のある映画でした。わたしが特に目を惹かれたのが、機関車の象徴的な使い方と、舞踏会での艶やかなダンスシーン。そういえば、アンナとヴロンスキーの出会いのシーンにはじまり、アンナが自死に至るまで、重要なシーンは機関車とともにあったのだと、映画を見てあらためて思いました。

また舞踏会での社交ダンスシーンが、とても印象的でした。舞踏会のシーンはいろいろな映画で目にしますが、「踊り自体」に釘付けになったのは、初めてだだったような気がします。特に手の動きが、とても不思議で美しい動きでした。そして、このシーンに込められたたくさんの意味。セリフで冗長に語らせなくてもこれだけ伝えることができるのだと、感嘆しました。

さかのぼって過去に映画化されたものを見てみたいと思った半面、本作がとてもよかったので、そのイメージを保つには、別のアンナ・カレーニナは観ない方がいいかもしれませんね。そう思わせるくらいのインパクトでした。映画館で見たかった映画です。