読書『ええじゃないか』(中央公論新社)谷津矢車 著

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『ええじゃないか』(中央公論新社)谷津矢車

いつものカメリアステージ図書館新刊棚、なんとなく手に取った一冊です。先日読んだ『ヘルンとセツ』が大政奉還後の明治維新の話なら、本書はその大政奉還前夜の幕末の混乱期のお話。意図せずして、その時代の市井の空気を垣間見る二冊を、立て続けに読むことになりました。上の写真は、読了後のイメージ。

幕末から明治維新の時代について、歴史に名前の残る方々の物語はたくさんありますが、わたしが読んだこの2冊は、登場人物が地べたに生きる人々であった(たとえそれが武家・旧武家の人物であっても)という点で、これまで認識していたものと大きく異なって見えました。

「ええじゃないか」の騒動については日本史の授業でも習いましたが、それを引き起こした時代の空気がどういうものであったのか、本書を読んで初めて分かったような気がしました。著者がnoteで「歴史の波に洗われて忘却されてしまった人々がその担い手」と書いておられましたが、まさにそのことが、近代史における「ええじゃないか」の特異性を物語っているのだと思いました。フィクションですから、諸説あるうちのひとつを根拠とした物語であるというのはもちろんですが。

政治に対して市民が「声を上げる」「行動を起こす」ことは、民主化された現代においては権利として法律上認められているとされているものの、実際にそれを通そうとするにはたいへんな労力がかかるものであり、結局は声を上げない人が多数だと思います。「ええじゃないか」はそうした権利が認められない時代にあって、何かを具体的に求めるというよりは、「もう今の政治にはうんざりだ」という気分が形になったものに思えました。

そのような「気分」に対しては、身分や立場を超えて共感できるものがあり、だからこそあらゆる人を巻き込んでいったのだろうし、先導する者が居ない不気味さがあったのだろうと思います。変化のスピードが速すぎて、いろいろなことが起こり過ぎて、自分の力ではどうにもできないことが多く無力感を感じる今の時代も、もしかしたらそんな気分が生まれ、カタチになる素地が十分に出来上がっているのではないかと思いました。現代の「ええじゃないか」は、どのような形で生まれるのだろうか、と。

著者の谷津矢車氏は、歴史もの・時代小説を専門とする小説家とのこと。わたしは今回初めて著書を読みましたが、登場人物それぞれに対する愛情を感じるストーリー展開が、読了後に温かい気持ちを残してくれました。他の著作も読んでみたいな、と。谷津矢車氏ご本人がnoteで情報発信をなさっていますが、その文体から伝わってくるふんわりとした感じも、好感を持てました。

『ええじゃないか』(中央公論新社)谷津矢車