齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その5。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その5。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


美術探検

「美術作品」を読みとるのではなく、「美術」を見る/知る=鑑賞は個人が各自の体験(知っていること)を存分に使って積極的に作品の中に出かける「表現」になる。

日常の常識でいっぱいの毎日の中に、美術作品によって非日常がするりと入ってきて、ふと自分の今日までを振り返る。自分の個人的な体験の点検と再構築が起こって、これまでの世界が広がる。
各自の世界観が知らないうちに拡大される喜びが、美術を鑑賞する楽しさと目的である。

表現行為としての鑑賞

本物を見るということは、何を見ることなのか。

「鑑賞を表現行為として行う」には、作品と対峙したときに
①作家の想いを含め、描いた人のことは忘れる。
②美術館にあることを含め、権威にまつわることは忘れる。
③キャプションを含め、作品を巡って「字で書いてあること」は忘れる。
→それによって、初めてそこにある作品を「注意深く丁寧に見る」ことができる。

自分で見て「その人自身」が「作品から読み取れることだけ」を使って「自分のお話」を「組み立てる」作業の結果、各自が持っている世界観が自然い拡大するという状況が起こる。そのことを「鑑賞」という。

★鑑賞のアートワークで押さるべきこと。

ものを見て判断する場合に、依るべき基準として使うことができるのは、その時その人の脳に既に保存されている記憶又は試験だけ。
鑑賞するときに使えるのは、その人が既に知っていることだけ。
その時彼らに教えることができるのは「既に持っているモノの使い方」だけ。

=伝えるべきは新しい見方ではなく、見ているものから読みとる方法と、それをもとに、自分が既に持っている情報をどのようにそこに絡めて使うか、というような部分。(←いかにアドバイスするか)

すでに知っていることを縦横に使ってみることによって、もっと知るべき(知りたい)方向と深さが自ずと見えてくる。
無意識に「知らされる」のではなく、意識的に「知る」。

美術はそのほとんどが「見る人の目の問題」である。
自分のために、様々なものを丁寧に注意深く見よう。
それが好きだという感覚は、個人でしか決められない。又は自分で決めなくてはいけないコト。
自分で決めるということは具体的に何をどうすることなのか、その点検に美術は使える。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


その1

その2

その3

その4

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その4。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その4。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


制作しない、しかし美術

(学校教育が苦手とする)個人を自立させる、または個人が自主的に健全な人格を形成できるようにする、という部分を担う。

美術は非日常とか認識の拡大とか、まず確固たる常識と日常が出来上がっていることが、理解の基本に深く関わり、かつ個人の美意識の上に成立する。

美術的な活動=丁寧に、くわしく、深く見る。の場面で使われるのは「美術的な視点」。近代の自立した市民的視点。私たちが、これまでの美術の歴史を通して獲得してきたものは、感性と過去性とかのような曖昧なものを肯定する基礎となるもの。すなわち「一人一人違っていて、一人一人がそこから見ていることを肯定することができる」というもの。

美術作品の鑑賞は、表現教育の大切なひとつ。=見ることを通した自我の形成、美意識の組み立て。=個人の美意識の形成。

個人が(象徴的な意味で)立ち止まって、よく考え、自分で周りを見ながら決める。決めたことを、自分以外の人の見方など気にしないで、自分の責任と覚悟の上で、みんなに見てもらえるよう努力してみる。というような美術・表現の基本的な姿勢。

美術(Fine Art)は哲学的で内省的で専門的で広範囲に各自の人生や世界観に深く関わる部分を含む、総合的でかつ個別な概念である。基本的に美術は、人間の大人のための仕事、活動なのだ。

一人一人の「体験」を、人間としての「経験」に積み重ねる手伝いが美術にはできる。私の感動は私の感動で、その感動は伝えられない。でも感動というものがあるということ、そして、その感覚はこうすれば磨くことができる、は伝えられる。

描けるのは、頭の中に見えるモノだけ、を自覚できる大人になろう。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


藤吉憲典《古典とアート》展。岡山和気のギャラリー栂さんで。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

藤吉憲典《古典とアート》展。岡山和気のギャラリー栂さんで。

9月20日(月祝)が初日です。昨日、栂さんから案内状が届きました。オーナー栂さんの思いが伝わってくるような素敵な案内状で、昨今の状況のなか機会をいただけることに、あらためて作り手ともども感謝している次第です。

今回の展覧会の内容については、栂さんが「器でもアートでも、藤吉さんにお任せします!」とおっしゃってくださいました。せっかくだからどちらもお持ちしようとDM用の作品もいろいろ取り混ぜてお送りしていたところ、このような案内状になりました。

タイトルは「 磁器作家 藤吉憲典《古典とアート》展 」。7月のNHK BSプレミアム『美の壺「青と白の粋 染付の器」』放映後としては、藤吉の最初の個展ということで、栂さんがなにかと心配りしてくださったことがわかります。

ギャラリー栂 (とが)
〒709-0431 岡山県和気郡和気町清水288-1
電話0869-92-9817

磁器作家 藤吉憲典《古典とアート》展

会期:2021年9月20日(月祝)-10月3日(日)
※9月27日(月)休み
営業時間:11時~17時

会期中、9月27日(月)だけお休みが入っています。どうぞお間違いの無いよう、ご注意ください。また、全国的にコロナ禍の感染拡大が続いておりますので、ご来場は無理をなさらないようお願いいたします。ご来場の際には、マスク着用をはじめとした感染防止マナーをお守りくださいね。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その3。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その3。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


美術を使い込んでいくために

美術はもう終わったんではないかと言われたことがあった。でも終わらなかった。
美術は常識を点検し、無理やり世界を広げるのが、仕事。
美術が無くなるとき、それは常識が無くなったのに、それに誰も気付かなくなったときで、それって私たち人間の世界の終わりなんじゃないだろうか。
そうならないために、みんな美術館に行こう。

美術は、全ての人間が全部一人一人違うということを基礎に、人間全体の世界観を拡大してゆくということが、存在の意義である。

一人一人違う人間は、一人一人違う生活経験を組み立ててゆく。その生活経験の積み重ねで、その時のその人の世界観(自分を取り巻く状況とのつじつま合わせ)や人生観(自分の内側で起こっていることのつじつま合わせ)が、一人一人個別に、その人の中に出来上がって行く。まずこの状態が肯定的に、社会の基礎として存在しないと私たちが今知っていると感じている美術は始まらない。

なぜなら美術は、その個人の世界観や人生観を表現したものだからである。
そこに表出されたものが、全く違うということこそが、私たちの美術がここまでかけてやっと獲得してきたものであって、私が今ここにいる、ということの証明なのだ。

今ここに私がいる。そして私はこのように私の世界を見ている。
ただそれだけを自覚して真摯に描いて(表現して)いるかどうかだけが、問われる。

そこにあるのは私が知っている世界ではなく、それを描いた人が見ている世界だ。ということを肯定する。

その人が真摯に描いた世界観を、こちらも真摯に見る。ことを通して私たちは自分の世界観と人生観を点検し、修正し、どのような形であれ理解することによって、自分の世界の見方を拡大してゆく。

肯定された「一人一人違う世界の見方」が集まって初めて私たち一人一人の世界観はより豊かに広がっていく。
このことは練習しなければいけないし、いくら練習しても終わることはない。

みんな一人一人違うということを尊重して大切に想う。美術はそのまったく基礎にあるものの見方を訓練するもの。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その2。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その2。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


小学生と中学生のための「美術って本当のところ、どうなんですか?」

「作ること(描くこと)」は、美術の中の一番大切な部分ではない。上手に描けるとか絵は苦手とかは、美術を楽しんだり考えたりするときには、ほとんど関係ない。

本当は学校でするべき美術って、実は「見ることの楽しみ」を練習すること。

今座っているところから窓が見えるか?そこから外を見る。その窓から外に見える物を5分間で30個「言葉」で書き出してみる。

大きくなるにつれ、生活の体験が増えるにしたがって、どんどん見える物(意識できるもの)が増えてきて、見える物が増えること自体が楽しくなってきて、今の私たちがいる。

自分が知っていることだけが、描ける。頭の中で「見える物」を言葉で書いていくと、その組み合わせで「描ける物」が見える物を超えて増えていく。

言葉で書けるものを「飽きずに丁寧に」を描いていくと、絵は知らないうちに上手に見えてくる。「見える物を書く言葉」を増やす作業/努力をしてこなかった人も、絵を上手く描けない人になってしまうことが多い。

絵を描く作業は運動神経である。だから本当に上手い絵を描きたい人は、運動神経を研ぎ澄まさなければならない。自分の運動神経を隅々まできちんとコントロールしてやるぞ、という想い。自分の中の世界の見え方を、自分自身で意識的に運動神経に変えてみる作業。

「見てるか?」の点検

目で見ているものは、目で見えている映像を、脳が見えていると思っているので、見えている。
見て描く作業の時、実際に描いているときに見ているものはどこにある?

私たちはよく「見た」「ちゃんと見た」という。でも本当に見えているのは、目の外側にあるものでは無く、目で見て、脳に記憶してあると信じている物だったりする。

私たちが普通見ていると思っている物は、目の外側ではなく目の内側にあるものであることに気づこう。

絵を見ることは、それを描いた人の内側をのぞきこむことなのだということがわかると、自分以外の人が描いた絵を見る楽しみ、そしてあなたがあなたの絵を描く楽しみは一気に広がらないか?そうか、自分の頭の中に、こういう風に写っていたんだ、と。

どう見て良いのかわからない絵を見るときには、絵を「よく」見るしかない。何が見える?自分が既に分かっている/知っていることを使って「見て分かること」を増やす。

見えることだけで、頭の中にお話が湧いてきて、続いていく。
今、頭の中でおこっていることが、本当の「鑑賞」。作者の想いを読みとるのではない。作品を使って、あなたの世界が広がっていくのが鑑賞。それができるのが良い絵。

描いた人の気持なんか、あまり気にしなくても良いから、もし自分がこれを描くとしたら、何をどうやってどうするか、実際の気持ちになって見直してみよう。

美術作品を見ることが感動と結びついている活動だというならば、美術館はもっとうるさい所になって良い。
感動したら声を出してみる。
上手かろうが下手だろうが、感動するのであれば、実はどっちでもいい。

私たちは、自分で考えて、何がかっこいいのかを、皆が各自考えなければいけない世界に生きている。
かっこいいはみんな違う。同じ人でも10代のときと50歳のときとでは違う。でも私たちは、みんな一緒に生きている。

美術館には、好きな絵嫌いな絵、いろんな絵が飾ってある。飾ってある絵が全部違うことが大切。全部違うものを全部大切にとってある/とっておけることが大切。

いろんな考え方のいろんな世界を見る。本当のところ、美術館をみんなで作る楽しみは、そこにある。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


その1はこちら

読書『コラージュ入門』(一麦出版社)藤掛明著

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『コラージュ入門』(一麦出版社)藤掛明著

わたしがコラージュをアートエデュケーションのひとつとして取り入れるきっかけとなった、学芸員技術研修会の「美術館でコラージュ療法」講座。そのとき指導をしてくださった、聖学院大学心理福祉学部心理福祉学科教授・藤掛明先生の新刊です。

思いがけず藤掛先生からメッセージをいただいたのは先週のこと。当ブログ「ふじゆりスタイル」を読んでくださったようで、わたしが美術的アプローチでコラージュを(細々とではありますが)継続していることを、喜んでくださいました。直々に応援をいただき、モチベーションアップ。

さて本書、芸術療法のスペシャリストとして仕事をしてこられた藤掛先生の著書でありながら「コラージュ療法入門」ではなく、あえて「療法」を外して『コラージュ入門』となっています。まずここに大きな意図、すなわち、治療や更生に導くことを目的とした臨床的コラージュの枠を出て、より自由なコラージュ活用の場が広がっていくことへの期待を感じました。

医療・福祉の分野では近年「予防医学」や「健康寿命」という言葉をよく聞きます。「コラージュ療法」に対する「美術的コラージュ」は、ちょうどそんな(予防的な)位置づけにもなりうるのではないかと思いました。ここ数年、学芸員技術研修会で学んできたことのひとつは、医療・福祉へのアプローチとしての、美術・美術館の可能性を探るものです。心身ともに健康を保つための方法として、美術・美術館はどのように役立つのか、という視点。わたしにとって「コラージュ」活用は「対話型美術鑑賞法」と並んで、最も使い勝手の良い「美術の使い方」です。

本書を読み終えての第一の感想は、まさに入門書であり、手元に置いて原点確認するのに最適な本であるということ。読みながら、3年前に学んだ講座内容がまざまざと思い出されました。基本的に必要なことは、この一冊に入っていると言えるのではないでしょうか。自分がファシリテーターとなってコラージュの講座をする際に、もしも迷いが出たらここに戻れば良い。そんな本です。

具体的には、まず実際の運営にあたっての実務的な方法と、その方法が選ばれる理由が、わかりやすく示してあります。また、そうした方法を推奨するに至った背景となるストーリーや事例、エビデンスがいくつも挙げられているので、納得して用いることができます。ここに挙げられている方法に沿って、その時々の状況に合わせて応用(先生の言葉では「変法」)してゆけば、いろいろなパターンでコラージュを活用できることが理解できます。

美術的アプローチでのコラージュに強い味方となる一冊を得ることができました。より活動領域を広げることが出来そうです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その1。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その1。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しているのですが、前回読んだのがちょうど一年前でした。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


その光景を見るときに起こるだろう、一人一人まったく違っていて、しかし、人間という種としては、多くの部分で共通もする、広く多様で深い複雑な心の動きの総合が「美」と名付けられた。

美しいも汚いも、上手いも下手も、ビックリするところまで行きついたものに、私たちは驚き、感嘆して見つめる。

人間はみんな違うのだから、一人一人の美ももちろん違う。
しかし私たちは同時に皆人間で、あるものには共通して心を動かすことができる。

ほんの200年程前までは、世界中に本物の王様がいて、私たちの美をその人が決めてくれていた。でも私たちはそういうシステムはやめて、美はみんながそれぞれ決めていいことになっている。

表現は大きく拡大しても、心が動くことは、私たちに共通して未だに起こる。美術館はそのきっかけとなったビックリを描きとめたものをとって置き、後々いつでも誰でも確認できる場所として機能し、存在する。

美術を使おう

小さい人たちが描いている絵は(中略)彼らの世界の見え方を、見えた通りに描いているだけ。彼らの絵に描いてある世界の方が、彼らにとっては正しい。

物をつくる実際の作業は、その人の運動神経と密接に関係する。速い遅い、丁寧雑は、個人の資質なのである。走るのが速い遅いと同じように練習で何とかなる部分と、練習ではどうしようもないところがある。作る/造形する部分は、ごく個人的なのである。でも、納得するまで制作にあなたの時間をかけることは、推奨される。

私たちは、どこの目で、何を見ていた/見ている のだろう。見えている物を見えているように描く、目と手の運動の練習。
見えていると思っている物を、再度点検する。思い込みは、本人が思っているよりも遥かに強く、見ることに影響を与えている。
上手に描くことのまえに、丁寧に、見えるように見ることに気づく練習。

美術館に出かけ「人間はこれまでに何を見てきたのか」を見に行く。作品の意味を知るのではなく、そこに描いてあることを素直に見ることができる視点に支えられると、個人の中の美術の理解は劇的に変化する。

作家の思いなんか、端から無視していいのだ。でも丁寧に、注意深く、描いてあるものを見ていき、自分の思いをめぐらせれば、同じ人類が描いたものだから、自ずと描いた人の想いも見えてくる。それだけでなく自分の想いも、その(作家の)想いを感ずることで広がっていく。作家の想いを超えて、あなたの想いを広げてくれるのが、良い絵。本当の意味の鑑賞。

10才未満の、毎日がほとんど非日常である小さい人たちと、非日常の楽しみである美術。を楽しむには、どのような工夫をしなければならないか。美術の目を生活の中で使う練習。見える物だけでなく、見えない物にも、目を配って見る。見えない物だけで、見えることを実験してみる。小さい頃に美術を学ぶということは、上手に絵が描けるとか工作ができるとは別に、「トトロ(見えない物の存在)はいる」と思える想いを持つことができる子供になること。

何かをなすための作業ではなく、そのこと自体を楽しむ。

物を意識的にきちんと壊してみるという作業が、生活の中からなくなっている。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


その2、以降に続く。

読書『ネーミング全史』(日本経済新聞社)岩永嘉弘著

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『ネーミング全史』(日本経済新聞社)岩永嘉弘著

商品・サービスに「わかりやすい名前を付ける」必要に迫られて、たくさん借りてきた「ネーミング」に関する本のなかで、特に面白かった2冊の一冊。もう一冊は昨日のブログで紹介した『ネーミングの言語学』(開拓社/窪薗晴夫著)でした。

学術的な研究書を一般にも読みやすく編み直したのが『ネーミングの言語学』なら、こちらはマーケティング戦略としてのネーミングの歴史をそのまま生きてこられたような、コピーライターのパイオニアによるビジネス書です。タイトルにある「全史」の文字にうなずける内容でした。

サブタイトルに「商品名が主役に躍り出た」とあるように、(ヒット)商品名によって歴史を振り返ることができる内容となっています。商品名から時代の空気感が伝わってきます。わたしは経済学部出身で、学生時代特に好きだった経営学の科目に「商品学」というものがあるのですが、その「商品学」のテキストとして使えそうな本です。

ヒット商品の歴史を、商品名誕生の背景から振り返るという意味では、単純に楽しく、そして一定の世代以上では懐かしく読める本です。そのうえ巻末には、優れたネーミングを生むための発想チャートなど、ネーミング作成法・手順も載っていて、実務的にすぐに役立てられるように、という著者の意図も伝わってくる本です。

学術的アプローチの『ネーミングの言語学』とマーケティング的アプローチの『ネーミング全史』、どちらも実務のためになり面白い本でした。

読書『ネーミングの言語学』(開拓社)窪薗晴夫著

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『ネーミングの言語学』(開拓社)窪薗晴夫著

商品・サービスに「わかりやすい名前を付ける」必要に迫られて、「ネーミング」に関する本を図書館で物色。いつもお世話になっているカメリア図書館は臨時休館中ですので、正しくは図書館ウェブサイトの「蔵書検索」で探しました。ウェブから予約を入れて、福津市図書館の窓口に受け取りに行けば借りることができますので、このサービスをフル活用しています。

何冊も借りてきたなかで、特にこれは面白い!と思ったのが、『ネーミング全史』(日本経済新聞社/岩永嘉弘著)と、本書『ネーミングの言語学』の2冊でした。で、本日は後者をご紹介。本書は開拓社から出ている「言語・文化選書」の第8巻で、このシリーズでは、日本語・英語をはじめとした言語文化についての様々な研究を、平易で読みやすいものにするのが目的となっているようです。

用途的に必要だったのは、マーケティング視点で書かれた本であったはずなのに、「言語構造・規則」を考察した学術的アプローチの本書にハマってしまいました。「韻を踏む」と言う、その「韻」なかでも単語の先頭に来る「頭韻」について、これでもかというほど用例が示され解説されています。本書の前半はすべてこの「頭韻」の考察。続く後半では「語順とリズム」、最後に「日本語の命名と言語構造」と続きます。語順とリズムについても用例多数。

読み終わってみれば、韻や語順とリズムが与えるイメージへの理解が深まり、大きな収穫でした。ネーミングにあたり、マーケティング目線の強い本の方が、直接的に参考になるのではないかと思っていましたが、さにあらず。構造や規則(パターン)を知ることで、より本質的な理解に近づいていくことは、これから言語と付き合っていくうえで、底力になると思いました。このうえで、マーケティング視点でのネーミングを知ることが大切ですね。ということで、明日に続きます^^

緊急事態宣言下の図書館活用術(福津市限定ですが)。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

緊急事態宣言下の図書館活用術(福津市限定ですが)。

現在、福岡県は新型コロナウイルス感染症対策として何度目かの緊急事態宣言下です。公立の図書館も有無を言わさず臨時休館。昨年春に初めて休館が決まったときには、休館直前に駆け込み、顔見知りの司書さんと「仕方がないこととはいえ、残念ですね、なんだか悔しいですね…」という気持ちを共有したのでした。

この一年以上を経て「またか…」とあきらめの気持ちもありつつ、でも図書館も、制限のあるなか、できる範囲でその役割を果たそうと頑張ってくれています。こういう時だからこそ、図書館にできること。そのひとつが「臨時休館中の、予約による貸し出し受付」です。カメリアステージ図書館の新着情報に掲載されています。

手順は次の通りです。

  1. 電話またはWebで貸し出し希望の本・DVDなどをオーダー
    Webでは図書館のトップページから蔵書検索ができます。
  2. ご希望の本やDVDの貸出準備が整ったら、図書館から電話やメールで連絡が来ます。
  3. 福津市立図書館の受付に「利用カード」を持っていき貸出手続き。

この方法ならば、図書館の受付にサッと行って、借りて、サッと帰ってくることができます。ただ、窓口が市役所横の市立図書館だけなので、遠方の方は使い勝手が悪いかもしれません。わたしはこの方法で、何回も本を借りています。ウェブでの予約に慣れている人は、すぐに使えると思います。慣れない人はまずは図書館に電話をして確認してみるといいですね。

「本のタイトルがわからない」時には、関連するキーワードをピックアップして蔵書検索、または電話で相談して、司書さんに探して選んでもらうと良いでしょう。図書館司書さんは、いわば本の世界の水先案内人。そのためのプロでいらっしゃるのですから、遠慮なく問い合わせましょう♪

↓こちらに図書館のサイトから本文一部転載↓


福津市立図書館・カメリアステージ図書館臨時休館中(8/7~9/12)のサービスについて
(カメリアステージ図書館サイト「新着情報」より)

Web・電話での予約受付(市立図書館・カメリアステージ図書館)
★貸出中だけでなく、棚にある本も予約できます!(在架予約)

〇Web予約・・・利用カード番号とパスワードが必要(パスワード申請は電話でも受付可)
〇電話予約の受付時間と休止日

 福津市立図書館  受付時間10:00~18:00 

          休止日8/10、8/16、8/23、8/26、8/30、9/6

 カメリアステージ図書館  受付時間10:00~18:00 

              休止日8/10、8/17、8/24、8/25、8/31、9/7

〇予約時間によっては、取り込みやご連絡が翌日以降になる場合がありますので、必ず状態をご確認のうえご来館ください。

臨時窓口の開設(市立図書館のみ)
〇予約本などの貸出・・・臨時休館中もWeb予約や電話予約をして借りられます。

〇本などの返却・・・CD・DVDなどや市外の図書館から取り寄せた本の返却も受け付けます。

〇利用登録・・・新規登録・再発行・パスワード申請など受け付けます。

〇開設時間・・・10:00~18:00 

〇休止日・・・8/10、8/16、8/23、8/26、8/30、9/6

本棚はご覧いただくことができません。ご了承ください。

(カメリアステージ図書館サイト「新着情報」より)