中国ドラマを見て考えた、お酒と芸術のこと。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

中国ドラマを見て考えた、お酒と芸術のこと。

昨年あるいは一昨年前あたりからだったと思いますが、ダンナが「中国ドラマ」にはまっています。福岡ローカルのTV局で夕方5時からの1時間が「中国ドラマ枠」になっていて、日中の仕事を終えてから晩酌までの、ちょうどよいリラックスタイムになっているようです。初めて見たのは「三国志」のドラマでした。登場する諸葛孔明が、ビジュアル的にも頭脳の切れ具合も素晴らしい男前で、晩御飯の用意をしながらわたしもついついテレビを覗いていました。

三国志のあとも、中国の史実をもとにしたものや、時代がまったくわからない架空の歴史ものや、登場人物がタイムワープするものなど、当たり外れはありながらも、中国ドラマが続いています。もう7-8本観ているのではないでしょうか。わたしはずっと見ているわけではありませんが、台所に立っているとテレビの音が聞こえます。いずれも字幕で音声は中国語のままなので、意味は分からずともだんだん中国語が聞き取れるようになってきたような気もします(笑)。

さて何本も観ていると、中国ドラマならではの共通点というのが、いくつか見えてきました。そのなかのひとつが「酒と漢詩」。

  • 悲しいことが起こる→やけになって酒を呑む→酔っぱらって漢詩を詠む
  • 嬉しいことが起こる→楽しくて酒を呑む→酔っぱらって漢詩を詠む

つまり、何かあると「酒を呑んで、酔っぱらって、漢詩を詠む」のです。ドラマの中で読まれる漢詩は、昔から詠み継がれている名人の詩であったり、あるいはその番組のセリフ用に作られた詩であったりするようです。いずれにしても、音を聞けば韻を踏んで美しく響き、字幕で意味を見れば自然や季節を取り入れた情緒あふれる内容であり、思わず聴き入ります。

つい先日読んだ『名画の生まれるとき 美術の力II』のなかに、「酒と美術」なる目次があり、洋の東西で、「酒と美術」の解釈が大きく異なることを考えていたところでもありました。

中国では「酒を呑んで酔っ払い、さまざまな制約が精神から取り除かれることで、芸術的な才能が花開く」的な考え方が古くからあるようです。そういえば中国ドラマに登場する「名人」や「達人」は、酒の入った徳利を持った姿で登場することが少なからず。日本でもまた、酒は芸事の力になるという考え方があったというか、芸術家が酒に溺れても大目に見られるような風潮が古くからあったのは、中国と近いものがありそうです。対して西洋美術の世界では、酒に溺れることは破滅的でおろかな行為であり、まったく褒められるものではないという捉え方だということが、『名画の生まれるとき』のなかで述べられていました。これは文化的・宗教的な考え方の違いが大きいのかな、と思います。

わたし自身は、芸術家の酒呑みを肯定するものでも否定するものでもありませんが、溺れるのは言外。身近にいる酒呑みアーティストに対しては、「ほどほどにしましょう」と言いたいところです(笑)。