読書『忘却についての一般論』(白水社)ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ/木下眞穂訳

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『忘却についての一般論』(白水社)ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ/木下眞穂訳

図書館で出会わなかったら、ずっと縁が無かったかも、な本。これまたカメリアステージ図書館の新刊紹介棚でたまたま見つけ、タイトルと表紙の雰囲気に釣られて、手に取りました。

舞台はアフリカ、長年ポルトガル支配下にあったというアンゴラです。まず「アンゴラってどこ?」、次に「ポルトガルの位置は?」と世界地図の確認からスタートしました。アンゴラを舞台にした小説を読むのが初めてなら、ポルトガル語圏の小説自体、これまでに読んだことがあるのかしらと頭に浮かびません。海外の小説も日本語訳されたものを読むのが当たり前になっていて、元の言語が何かというところに、あまり意識が向いていなかったことに気づきました。翻訳者の方々にあらためて感謝です。

世界地図

最初に「この物語はあくまでもフィクションです」と強調されるほどに、物語誕生を促した「ほんとうのこと」「残されているもの」へのイメージが湧きたちました。

奴隷貿易の「輸出国」であったというアンゴラの、ポルトガル支配(植民地主義)からの脱却と独立のための闘争、そして東西冷戦の代理戦争でもある内戦を背景とした物語。アンゴラに移住した主人公のポルトガル人女性が、独立戦争と内戦の騒動にパニックをおこして自主的にマンションに籠城し、誰に知られることもなく愛犬とともに30年ほど自給自足で生き抜くというストーリーです。

主人公が紡ぎだす言葉が詩となって、物語全体を不思議な雰囲気で包んでいます。本・文字を読むこと、言葉を生み出し書き残すことが、極限状態においてどれほど生きる糧となるのか、考えさせられました。「お話」や「歌」が、人を安心させ勇気づける力を持つことも。

決して昔ばなしではなく、1970年代から現代にかけて、つまりわたし自身の生きてきた時代と重なっていることに、衝撃を感じました。同時に、「訳者あとがき」に「ときに無情で残酷な場面もありながら、ユーモアと温かみが全編にしみわたる」と書いてあるとおりの読後感でした。ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ氏の書いた本を、もっと読んでみたいと思います。どんどん和訳されると嬉しいな、と。

読書『課題解決のための専門図書館ガイドブック』(読書工房)専門図書館協議会私立図書館小委員会編

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『課題解決のための専門図書館ガイドブック』(読書工房)専門図書館協議会私立図書館小委員会編

昨年末ごろだったと思いますが「このところ、カメリアステージ図書館の新刊選書がツボにハマっています(笑)」とブログに書いたことがありました。そのラッキーが、現在進行形で、続いています。本書もその一冊。

「専門図書館」なんて魅力的な響きでしょう。別に調べ物があるわけでもないのに、思わず手に取りました。わたしの人生のなかで専門図書館にお世話になったのは、学生時代に論文を書くのに資料取り寄せで使ったぐらい。公開専門図書館で最も有名なのは、国立国会図書館ではないでしょうか。蔵書から必要ページをコピーして送ってくれるサービスに助けられた記憶が鮮明です。

上の写真は目次ページ。ずらりと並んだ図書館名を見れば、解決すべき課題がさしあたりなくても、無条件にワクワクしてきます。本書をつくるにあたり、全国の専門図書館171館が、協力の呼びかけに応じてくださったそうです。ということは、もっとたくさんの公開専門図書館が、全国にあるということですね。

「実務的な専門図書館名鑑」として制作された本書。図書館自体の情報もさることながら、読み物ページも充実しています。そのひとつが「レファレンス事例」の紹介。図書館員さんのプロフェッショナルな仕事ぶりが伝わってきます。「調査支援」も図書館員の方々の重要な仕事のひとつ。「図書館という頭脳をいかに自分の味方につけるか」を考えたとき、わたしはまだまだ図書館を使いこなしていないなぁ、と実感しました。

読書『わたしの好きな季語』(NHK出版)川上弘美

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『わたしの好きな季語』(NHK出版)川上弘美

川上弘美さんと言えば『センセイの鞄』。考えてみたら、ちゃんと読んだのはこの一冊だけでした。著書は読んでいないもの、新聞や雑誌などで時折見かける川上弘美さんの文章は、やわらかそうに見えながら独特のほの暗さがあり、それが自然であざとくないのが好きだなぁ、と感じていました。

春・夏・秋・冬・新年に分けて、俳句の季語を紹介しているエッセイ。もとは雑誌に連載されていたのですね。言葉の選び方が楽しくあるいは美しく、さすが言葉を生業にする人だなぁ、と思いました。上の写真は、冬の季語「探梅(たんばい)」にちなみ、梅に鶯の描かれた蕎麦猪口(染錦梅に鶯文蕎麦猪口 藤吉憲典)。

本書のなかでしばしば登場する「歳時記」。その素晴らしさをあらためて感じました。我が家にも分厚い歳時記辞典があります。俳句を読む人には季語を知るための歳時記。わたしにとっては、もっぱらやきものの文様の意味をより深く知るための辞典です。歳時記を引くたびに日本の四季の美しさや、それを言葉に残してきた人々の感性に感謝の念が沸いてくる、不思議な書物です。

川上弘美さんの『わたしの好きな季語』は、俳句を嗜む人ではなくとも、その文章自体が面白く読める一冊でした。

肥前磁器の美:藤吉憲典の器「染付栄螺型香炉(そめつけ さざえがた こうろ)」

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

肥前磁器の美:藤吉憲典の器「染付栄螺型香炉(そめつけ さざえがた こうろ)」

磁器作家・藤吉憲典がつくる肥前磁器の美しさを伝えるシリーズ。「美しさ」には「用途の美」を含みます。使い勝手の良さも含めて「美しい」と言えるもの。そこにこそ、江戸時代から400年続く肥前磁器の価値があると思っています。

「肥前磁器(ひぜんじき)」という呼び方は、まだまだ一般的ではありません。「有田焼」とか「古伊万里」といった方が、わかりやすくイメージできると思います。肥前磁器とは、有田焼、伊万里、鍋島などと呼ばれる、北部九州地方(肥前地域)で作られてきた磁器の総称です。地域的には現在の佐賀県・長崎県あたり。

肥前磁器の伝統は「写し」の文化によって受け継がれてきています。朝鮮半島から伝わった技術でスタートした磁器制作は、中国磁器に学び真似ることにより、その技術やデザインを発展させてきました。写しによる文化の継承は、江戸時代から現代にいたるまで続いています。

染付栄螺型香炉 藤吉憲典
染付栄螺型香炉 藤吉憲典

「コピー」が質を劣化させながらの表層的な真似であるのに対して、「写し」はオリジナルを超える良いものを生み出そうとする行為。写し継がれることによって、現代に生きています。現代作家・藤吉憲典が作るものも八割方は「写し」あるいは「写しを発展させたもの」です。

染付栄螺型香炉(小) 藤吉憲典

「香炉」自体は、現代の生活のなかで「ふだん使うもの」ではないかもしれません。ただ「蓋付きの器」として考えれば、それは食の器にもなり、大切なものを入れる箱にもなります。そもそも名前は便宜上つけられるものですから、名前にとらわれず用途に生かすことこそが、「見立て」の文化の面白さ。

今回ご紹介している栄螺型の香炉も「本や美術館で見たことがある!」という方があるのではないでしょうか。肥前磁器の収集で知られる戸栗美術館(渋谷区松濤)のサイトでも、江戸時代(17世紀後半)の貝型の蓋物が紹介されています。時代により、作り手により、どのように変わるのかを楽しむことができるのも、肥前磁器の魅力です。

カブトガニが教えてくれること。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

カブトガニが教えてくれること。

昨日はミヤコチドリ、今日はカブトガニで、浜辺情報ブログと化しておりますが(笑)。これも自然豊かな津屋崎の恩恵ゆえ。佐賀にいたときは、メールマガジンやニュースレターに、鳥や木や花など里山の自然の話題ばかり書いていたように思います。

さてカブトガニ。「浜に打ち上がってた」と、ダンナがカブトガニの亡骸を持って帰ってきました。そういえば2012年に津屋崎に移転してきて驚いたことのひとつは、カブトガニの産卵地がここにあるということでした。当時、友人から聞いた話に触発されたことをブログにも書いています。それまでにも一度だけ、佐賀県唐津の海岸でカブトガニを見たことがありましたが、「古代そのまま」という感じの姿に、言いようのない感銘を受けたものでした。

カブトガニ

今でこそ見慣れたその姿ですが、それでも造形の妙に感嘆します。そして彼らを育む干潟の豊かさを思います。干潟はカブトガニだけでなく、たくさんの生物の生きる場所です。干潟の景色の面白さ、そこに生きるものの美しさと、その危機。津屋崎での生活が長くなるにつれ、カブトガニを見るときに感じる思いは、単純な感動ではなく自然環境への危機感も含むものになってきています。

芸術家であるダンナは常々「自然の生み出す造形や色彩の美しさにはかなわない」と言います。同時に「だからこそ、人の手が生み出せる造形や色彩の美しさを追求し続けたい」とも。創造の場において、日常的に五感を通じて自然から受け取っているものが、積み重なって大きな糧となるのだとわかります。自然環境を維持していくことは、美学的にも重要なことなのだと、カブトガニを写真に撮りつつあらためて考えたのでした。

津屋崎浜を歩いていたら、アイルランドの国鳥に出会いました。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

津屋崎浜を歩いていたら、アイルランドの国鳥に出会いました。

昨年の晩秋から続けているウォーキング。あいにく毎日とは参りませんが、週3回くらいのペースで続いています。気持ちに余裕があって、天気が悪くないときは山コース。そうでないときは海コース。体力強化という意味では、山コースの方が効きそうですが、どちらにもそれぞれの面白さがあります。

昨日は海へ。いつものように浜辺をぐるりと、津屋崎浜→宮地浜→福間海岸方面へと進み、福間海岸に入るところで折り返し。前日に風が強かったからか、今日の浜にはウマヅラハギ(カワハギの一種)がところどころに上がっていました。毎年1月から2月頃には、浜に打ちあがってくることがあるのですが、この冬は特に多いような気がします。砂浜に横たわる魚。ややシュールな絵面ですが、たびたび目にするうちに慣れてきました。

カモメやチドリもたくさんいます。カモメは人馴れしているとまでは言わないまでも、散歩者があっても、なかなか飛び立ちません。ジーっとこちらを睨みつつ「できれば動かないで済ませたい」とでも思っているかのよう。カモメのなかでも、すぐに飛び立つ者、歩いてかわそうとする者、動かない者といろいろです。

チドリは比較的すぐに飛び立ちます。藤吉憲典のやきものには「波千鳥」の文様がたびたび描かれます。肥前磁器の文様としては江戸時代から続く人気の古典柄のひとつ。浜で見かけるチドリは、小さな個体の群れもあれば、カモメとサイズが変わらないような大きなものもあります。一見、大きいものは文様のチドリからはイメージが離れているのですが、群れで飛び立つ姿を見ると「ああ、チドリだ!」と感じます。

「文様のチドリは小さい方だろうな」などと思いながら歩いていたら、背後から「ミヤコドリですよ!」と大きな声をかけられました。不意を突かれて「えっ!」と振り向くと、「あそこに4羽いるあれ、ミヤコチドリっていうんです」と、少し離れて平行に歩いていたおじさん。わたしが歩きながらずっと鳥の姿を追っていたのに気が付いて、声をかけてくださったようです。というわけで、大きなチドリが「ミヤコチドリ」であることを知りました。

「ミヤコチドリですか…最近よくこの辺りにいますよね」と答えると「実はここ4-5年ずっと来ていなかったんですが、この冬久しぶりに帰ってきてくれました」と。さらに「個体数が少なくて、保護の対象なんです。」「アイルランドの国鳥なんですよ!」と、畳みかけるおじさん。「えっ、アイルランドですか!?」思わずこちらも大きな声で問い返していました(笑)

津屋崎には、地域の自然や歴史文化・史跡などについて知識が豊富な方がたくさんいらっしゃって、こちらが興味を示せば、惜しげなくいろいろと教えてくださいます。とてもありがたく、皆さんのシビックプライドをひしひしと感じ、嬉しくなる瞬間です。

さてお話を聞いて、一瞬「アイルランドから津屋崎まで飛んできたミヤコチドリ」を連想してしまいましたが、そういうわけではありません。でも渡り鳥ですから、どこか海の向こうから飛んできているのは事実ですよね。アイルランド、英国に渡航できるようになったら足を延ばしたいなと妄想しつつ、鳥には国境も関係ないのよね、と思ったのでした。

「体験」と「本」の相互補完。ローマの強烈なインパクトを思い出しました。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

「体験」と「本」の相互補完。ローマの強烈なインパクトを思い出しました。

読書記録で塩野七生さんの『小説 イタリア・ルネッサンス』(新潮文庫)シリーズについて書いていたら、一度だけ行ったことのあるローマで受けた強烈なインパクトを思い出しました。

大学生の卒業旅行で行った「ロンドン・ローマ・パリ三都市格安ツアー」が、わたしの初めての海外旅行でした。バイト代をはたいての貧乏旅行。三都市を巡るとはいえ、各都市2泊づつの電撃ツアー。ツアーと名前はついていても、添乗員さんはなく現地ガイドさんがところどころにいるだけという、貧乏学生向けの格安パックでした。

それでも初めての海外、それも欧州行きというのは、嬉しくて嬉しくて、見るものがすべて新鮮で、テンション上がりっぱなしの緊張しっぱなし。ロンドンの街や人のシックなカッコよさに惚れ惚れし、パリの街中の汚さ(イメージとのギャップ)に幻滅し、そして全く次元の異なる空間であるローマにショックを受けたのでした。

たった2泊づつ。それも都市から都市への移動時間を含んでのことですから、主な観光地に駆け足で行っただけ、という感じです。でもローマに入ったときのショックは、今でも鮮明です。まず空港から中心部への車中で感じた「景色の異次元さ」。当時1992年の「現代」のなかに古代がそのまま生きている感じでした。あるいは古代のなかに現代が立ち現れているという感じでしょうか。

その感覚をこれまではただ「すごい!」としか言えずにおりました。それがどういうものであったのか、『小説 イタリア・ルネッサンス 3 ローマ』(新潮文庫)を読んで、少しわかったように思いました。主人公のセリフ「ローマでは、古代を思わないでは生きていく意味が無いような感じさえするのです」に集約されているのかもしれません。

この本のなかではミケランジェロも登場しています。主人公の口を借りて描かれるミケランジェロを通して、芸術家にとってのローマを考えることができました。曰く「古いものを知ることこそが、新しいものの創造につながるということなのだろう」。またミケランジェロがローマを仕事の場に選んだ理由として、祖国フィレンツェの経済的衰退だけでなく、ローマには「ローマでしか思いつかない、ローマでしか実現できないアイデア」が生まれる環境があり「彼の考えを刺激し実現するには、古代を持たないフィレンツェは小さすぎ、一面的すぎた」ためであろうと書いています。(『小説 イタリア・ルネッサンス 3 ローマ』より一部引用)。

思いがけず、過去の体験と本が補完し合って自分のものになっていく感じを味わっています。旅と読書の醍醐味ですね。

読書『小説 イタリア・ルネッサンス 2 フィレンツェ』『小説 イタリア・ルネッサンス 3 ローマ』(新潮文庫)塩野七生

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『小説 イタリア・ルネッサンス 2 フィレンツェ』『小説 イタリア・ルネッサンス 3 ローマ』(新潮文庫)塩野七生

塩野七生さんといえば『ローマ人の物語』。過去何度か塩野七生作品にチャレンジしましたが、そのたびに途中で挫折していたわたしが、ついに無理なく読み進めることができたのが、本シリーズです。昨年末に読んだ『小説 イタリア・ルネッサンス 1 ヴェネツィア』に続く舞台は、「2 フィレンツェ」そして「3 ローマ」です。

主人公とストーリーの背景にあるものは「1 ヴェネツィア」からそのまま引き継がれています。いわば「続き」だからでしょう、物語にすぐに入りこんでいました。魅力的な登場人物たちの、興味深い人生が中心にあるからこそ、世界史・地理・宗教・美術といった要素の複雑さも鮮やかな彩りとなって迫ってきました。

一番興味をひかれたのは、ヴェネツィア・フィレンツェ・ローマそれぞれの都市の違いの描かれ方でした。とても丁寧に描かれていると感じました。世界史の知識の足りないわたしにとっては、登場人物の心象やセリフを通して伝わってくる三都市の風景、政治、風俗、気質が、ルネッサンス期のかの地の歴史を読み知るのに大きな手助けとなりました。「3 ローマ」ではミケランジェロが登場してきます。物語を通して、当時の政治や宗教の有力者と芸術家との関係、依頼者と芸術家との関係をうかがい知ることができるのも、興味深かったです。

『小説 イタリア・ルネッサンス 1 ヴェネツィア』を読んだ時には「ヴェネツィアに行かねば!」と思い、「2 フィレンツェ」を読めば「やっぱりフィレンツェよね」と思い、「3 ローマ」を読んで「ともあれまずはローマから!」と思わせられました。著者塩野七生さんの、それぞれの場所に対する愛情の深さを感じました。シリーズ三巻まで読んだ今は、まずローマ、そしてフィレンツェ、最後にヴェネツィアに周るのがいいかな、と。そう思うに至った主人公マルコのセリフがありましたので、以下にご紹介。


「わたしの生まれ育ったヴェネツィアは中世・ルネサンス時代の美しさでは無比の都市だが、古代はどこにもありません。フィレンツェも別の美しさながら、中世・ルネサンスの精神が結晶した花の都です。あそこでも、古代は影は落としてはいても、古代は気にしないで生きていかれる。
 しかし、ローマは違います。(中略)ここローマでは、古代を思わないでは生きていく意味が無いような感じさえするのです」

『小説 イタリア・ルネッサンス 3 ローマ』(新潮文庫)塩野七生より


このあとは「4 再び、ヴェネツィア」になります。ヴェネツィアに戻った主人公がどうなるのか、読むのが楽しみです。 

肥前磁器の美:藤吉憲典の器「染付梅散し文小壺」

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

肥前磁器の美:藤吉憲典の器「染付梅散し文小壺」

磁器作家・藤吉憲典がつくる肥前磁器の美しさを伝えるシリーズ。「美しさ」には「用途の美」を含みます。使い勝手の良さも含めて「美しい」と言えるもの。そこにこそ、江戸時代から400年続く肥前磁器の価値があると思っています。

「肥前磁器(ひぜんじき)」という呼び方は、まだまだ一般的ではありません。「有田焼」とか「古伊万里」といった方が、わかりやすくイメージできると思います。肥前磁器とは、有田焼、伊万里、鍋島などと呼ばれる、北部九州地方(肥前地域)で作られてきた磁器の総称です。地域的には現在の佐賀県・長崎県あたり。

下の写真は、藤吉憲典の作った「染付梅散し文小壺」。つくりも絵付も、それぞれは古典に倣ったものですが、このつくりと絵付の組み合わせは全くのオリジナル。古いものを古いままに写すのではなく、組み合わせや創意の足し算で新しいものを生み出すことこそが、現代作家としての仕事の価値だと思います。

染付梅散し文小壺 藤吉憲典
染付梅散し文小壺 藤吉憲典

名前に「小壺」と付けていますが、この形を見て「文琳(ぶんりん)」とピンとくる方も多いと思います。茶道具の一つ、お抹茶を入れる「茶入(ちゃいれ)」に見られる形です。文琳とは、林檎(りんご)の異名(美称)です。ご覧の通り、リンゴのような形をしているから、ですね。

茶道具でお茶を入れる器を「茶入」と呼び、茶葉を入れる大きな壺に対して、お抹茶を入れる小さな壺を「小壺」と呼び、さらにその形によって「茄子(なす)」「瓢箪(ひょうたん)」「肩衝(かたつき)」「文琳(ぶんりん)」「弦付(つるつき)」「大海(たいかい)」「丸壺(まるつぼ)」「鶴首(つるくび)」などの呼び名がついています。

実際にお茶を習う場面、お茶会の場面では、磁器の絵付のついた茶入に出会ったことはほとんどありません。けれども、そもそも「見立て」の道具もまたお茶の楽しさのひとつですから、いろいろなものがあって良いはず…ということで生まれた小壺。

ちなみに茶入の蓋(ふた)は、古いものだと通常「象牙(ぞうげ)」で作られているのですが、本作は「象牙っぽく作った磁器製」です。本作をお買い上げのお客様が「これは面白い!」と一番気に入ってくださったポイントでした。お使いになる方と作り手との間に、こうした遊び心を共有できるのも、お茶をはじめとしたやきものを取り巻く文化への造詣あってこその楽しみです。

読書『仏具とノーベル賞 京都・島津製作所創業伝』(朝日新聞出版)

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『仏具とノーベル賞 京都・島津製作所創業伝』(朝日新聞出版)鵜飼秀徳著

上の写真は、本書に載っている島津製作所と京都、日本、世界のトピックスがわかる年表。

大阪でサラリーマンをしていた時の、わたしの仕事は法人営業職で、毎日会社の経営者の方々にお会いしていました。わたしの担当エリアは大阪府内の企業さんがほとんどでしたが、「京都担当」「神戸担当」「和歌山担当」の同僚と情報交換をしていると、それぞれ独自の土地柄を感じることがよくありました。

京都企業といえば、ワコール、京セラ、村田製作所、オムロン、ローム、島津製作所などの社名が頭に浮かびます。社名は浮かびますが、「ワコール=婦人肌着」「オムロン=体温計」などのほかは、実際にどのような事業をなさっているのか説明できないことがほとんどです。わたしにとっては島津製作所もそのひとつでしたが、この本でその歴史を知ることができました。

幕末から明治維新、二度の世界大戦、そして現代まで、日本の大変換期と重なる島津製作所の歩みを読むことで、日本の近現代史の一側面を垣間見ることができました。仏具制作から始まった事業がノーベル賞受賞者を輩出する企業になるまでの変遷は、変化することによって会社を守り伸ばし続けている老舗の凄みを感じさせるものでした。2025年で創業から150年だそうです。

最終章に載っている、ノーベル賞の田中耕一さんの言葉に共感しました。曰く「独創とは、“無から有を生み出す”と思われているふしがあるが、アイザック・ニュートンの言葉を借りれば『巨人の肩に乗っている(先人の知恵の積み重ねから学べる)』からこそできる、(後略)」(『仏具とノーベル賞 京都・島津製作所創業伝』(朝日新聞出版)鵜飼秀徳著より)。まさに製造業(芸術も含めて!)に関わるすべての人が自覚すべきことだと思います。

次回の京都旅行にまた楽しみが加わりました。