カラスはトンビより強いけれど、カモメより弱い。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

カラスはトンビより強いけれど、カモメより弱い。

なにか哲学的な考察を期待できそうなタイトルですが、文字のままの内容です。上の写真は、ウォーキングコースの津屋崎浜。砂浜にはさまざまな足跡が残っています。目につくのは(わかるのは)、人、犬、鳥の足跡。人の足跡も大小形さまざまならば、犬の足跡も鳥の足跡も多種多様。たくさんの生き物がこの浜辺にお世話になっていることがわかります。

津屋崎に住むようになって知った「意外なこと」のひとつに、「カラスはトンビよりも強い」があります。時折トンビとカラスが空中戦をしているのを見かけるのですが、ほとんどの場合カラスが優勢なのです。トンビ1羽に対し、2羽以上のカラスが包囲して他所に追いやっている図。カラスは団体戦をするのですね。体格的には遜色のない両者でも、多勢に無勢。

ところが対カモメになると、相手がカモメ1羽でも、カラスはそう易々とは近づかないのです。浜辺で、カモメ1羽に対して複数のカラスが遠巻きにして様子をうかがっている図が、よく見られます。カモメが水陸空を境目なく動けるのに対し、カラスは「水」に入っていけませんから、そこにまずハンデがありますね。

さらにじっくり見てみると、概してカモメの体格の良さはカラスに勝っているようです。もちろん個体差はありますが。まるまるとして、どっしりとしていて、胎が座っているように見えます。そういう相手に対しては、カラスも挑んでいかないのですね。両者が争っている図は見たことがありません。

そんなわけで、今のところ冬の津屋崎浜で一番幅を利かせているのは、カモメのようです。カモメは渡りなので一年中ここにいるわけではなく、季節限定の番長とでもいったところでしょうか。カラスとしては、冬はちょっぴり我慢の季節なのかもしれません。人間関係ならぬ鳥間関係(!?)を眺めつつ、思わずニヤニヤしてしまう浜辺のウォーキングです。

大峰山を歩いていたら、ヤブツバキを見つけました。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

大峰山を歩いていたら、ヤブツバキを見つけました。

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昨秋から始めた山歩き海歩きは、悪天候の日を除いて週3ペースで続いています。毎日歩けたら一番良いのは重々承知しつつ、まあ、好い感じといえるのではないでしょうか。先日は、津屋崎浜でアイルランドの国鳥に出会った話をアップしたので、本日は山編。よく言われることではありますが、ウォーキングの効用は運動不足解消だけではないですね。ふだんから馴染みの生活圏内であっても、歩くたびに景色は変わり、視界が広がり、世界が広がります。

ウォーキングするようになってすぐに気づいたことのひとつが、「山歩きは視線が上に向かい、海歩きは視線が下に向かう」でした。これはわたしだけのことなのかもしれませんが、山を歩いていると「(木々に)囲まれている」状態になるため、より広い空間を求めて視線が上に向かうのです。実はこれは都会に行った時も同じで、都心のビル群のなかを歩いていると、知らず知らずのうちに視線が上方向に向かいます。

さて、ヤブツバキ。

↑これです↑。お!と思い、斜面をよじ登って、花に寄って撮ったら…↓ピンぼけ写真になってしまいましたが↓。

ヤブツバキ

ヤブツバキの、この、花が少し小さめなのが好きです。山里で見つける野生のものは「花が少し小さめ」で、野菊や野バラなどもそうなのですが「小さくて・色が濃くて・群生している」のが、生命力の強さを感じます。

実はウォーキングの途中に「立ち止まって写真を撮る」ことは、とても少ないです。どちらかというと、何かに集中しているときに中断する(=写真を撮る)のは、好きではなく。ウォーキングもしかり、歩いている途中で立ち止まりたくないタイプなのです。そんなわたしが立ち止まって、スマホを取り出して写真を撮るときは、よほど琴線に触れたときなのかもしれません。

読書『教養としての腕時計選び』(光文社新書)篠田哲生 著

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読書『教養としての腕時計選び』(光文社新書)篠田哲生 著

久しぶりに腕時計を購入した途端に、このタイトルが目に飛び込んできました。「30代からの腕時計選び」のための教養的腕時計読本です。上の写真は目次ページですが、ここを見るだけでもワクワクしませんか?著者的には「30代以上の男性」に宛てて書いたもののようですが、女性にもお勧めできる本です。

語られているのは「高級腕時計」の世界。自分が所有しているものとは懸け離れていますが、それこそ「教養的知識」のひとつとして面白く読みました。暦・時間・時計の歴史、デザイン・芸術的な側面、鑑賞対象としての腕時計の見方、技術とそれを支える人々の話…。ラグジュアリーな存在としての位置づけ(価値づけ)はアートに通じるところも多く、「所有する人の人生を豊かにする」役割の大きさを思いました。

先日書いたブログ「長~く使う。腕時計。」にも書いたのですが、わたしは30年近く使っている腕時計があり、全然高いものではなかったにも関わらず、メンテナンスすればまだまだ使えるという時計屋さんのお墨付きをいただいています。本書で知ったのですが、「オーバーホール」というのですね。高級腕時計の世界では、3-5年ごとの定期的なメンテナンスがお勧めされているということでした。

「30代以上の男性」に宛てて書いたものであろう『教養としての腕時計選び』(光文社新書)。これを大人の女性向けに書いたら、ジュエリーの要素が入ってきて、これまた読み応えのある一冊になるでしょうね。さらにゴージャスな世界観が広がりそうです。どなたかが書いてくださるといいなぁと楽しみにしています。

2021年 藤吉憲典展覧会予定。

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2021年 藤吉憲典展覧会予定。

今年度の展覧会予定が出そろいました。国内は、奇数年に開催してくださっている東京・西麻布の桃居さんと、約3年ぶりの岡山・和気町のギャラリー栂さん。現在のところ、作家在廊日設定予定です。11月には福岡市内で、初の商的ではない展覧会を計画しています。

(2021年1月30日更新)

海外はまだ渡航の目途がつかない状態ですが、ロンドンのギャラリーが積極的に企画展を計画してくれています。英国も昨年から度々のロックダウンで、ギャラリーでの展覧会も柔軟な対応を求められる状況が続いています。そんな今こそアートの力を!ですね。藤吉憲典もできる限り作品参加してまいります。

まだ開催日詳細が調整中のものが多いですが、決定次第ご案内いたします。フェイスブック、インスタグラムでのお知らせが一番早いと思いますので、よかったらフォローしてくださいね♪

藤吉憲典公式フェイスブックページ https://www.facebook.com/KensukeFujiyoshi

藤吉憲典公式インスタグラム https://www.instagram.com/ceramicartist_kensukefujiyoshi/

読書『忘却についての一般論』(白水社)ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ/木下眞穂訳

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読書『忘却についての一般論』(白水社)ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ/木下眞穂訳

図書館で出会わなかったら、ずっと縁が無かったかも、な本。これまたカメリアステージ図書館の新刊紹介棚でたまたま見つけ、タイトルと表紙の雰囲気に釣られて、手に取りました。

舞台はアフリカ、長年ポルトガル支配下にあったというアンゴラです。まず「アンゴラってどこ?」、次に「ポルトガルの位置は?」と世界地図の確認からスタートしました。アンゴラを舞台にした小説を読むのが初めてなら、ポルトガル語圏の小説自体、これまでに読んだことがあるのかしらと頭に浮かびません。海外の小説も日本語訳されたものを読むのが当たり前になっていて、元の言語が何かというところに、あまり意識が向いていなかったことに気づきました。翻訳者の方々にあらためて感謝です。

世界地図

最初に「この物語はあくまでもフィクションです」と強調されるほどに、物語誕生を促した「ほんとうのこと」「残されているもの」へのイメージが湧きたちました。

奴隷貿易の「輸出国」であったというアンゴラの、ポルトガル支配(植民地主義)からの脱却と独立のための闘争、そして東西冷戦の代理戦争でもある内戦を背景とした物語。アンゴラに移住した主人公のポルトガル人女性が、独立戦争と内戦の騒動にパニックをおこして自主的にマンションに籠城し、誰に知られることもなく愛犬とともに30年ほど自給自足で生き抜くというストーリーです。

主人公が紡ぎだす言葉が詩となって、物語全体を不思議な雰囲気で包んでいます。本・文字を読むこと、言葉を生み出し書き残すことが、極限状態においてどれほど生きる糧となるのか、考えさせられました。「お話」や「歌」が、人を安心させ勇気づける力を持つことも。

決して昔ばなしではなく、1970年代から現代にかけて、つまりわたし自身の生きてきた時代と重なっていることに、衝撃を感じました。同時に、「訳者あとがき」に「ときに無情で残酷な場面もありながら、ユーモアと温かみが全編にしみわたる」と書いてあるとおりの読後感でした。ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ氏の書いた本を、もっと読んでみたいと思います。どんどん和訳されると嬉しいな、と。

読書『課題解決のための専門図書館ガイドブック』(読書工房)専門図書館協議会私立図書館小委員会編

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読書『課題解決のための専門図書館ガイドブック』(読書工房)専門図書館協議会私立図書館小委員会編

昨年末ごろだったと思いますが「このところ、カメリアステージ図書館の新刊選書がツボにハマっています(笑)」とブログに書いたことがありました。そのラッキーが、現在進行形で、続いています。本書もその一冊。

「専門図書館」なんて魅力的な響きでしょう。別に調べ物があるわけでもないのに、思わず手に取りました。わたしの人生のなかで専門図書館にお世話になったのは、学生時代に論文を書くのに資料取り寄せで使ったぐらい。公開専門図書館で最も有名なのは、国立国会図書館ではないでしょうか。蔵書から必要ページをコピーして送ってくれるサービスに助けられた記憶が鮮明です。

上の写真は目次ページ。ずらりと並んだ図書館名を見れば、解決すべき課題がさしあたりなくても、無条件にワクワクしてきます。本書をつくるにあたり、全国の専門図書館171館が、協力の呼びかけに応じてくださったそうです。ということは、もっとたくさんの公開専門図書館が、全国にあるということですね。

「実務的な専門図書館名鑑」として制作された本書。図書館自体の情報もさることながら、読み物ページも充実しています。そのひとつが「レファレンス事例」の紹介。図書館員さんのプロフェッショナルな仕事ぶりが伝わってきます。「調査支援」も図書館員の方々の重要な仕事のひとつ。「図書館という頭脳をいかに自分の味方につけるか」を考えたとき、わたしはまだまだ図書館を使いこなしていないなぁ、と実感しました。

読書『わたしの好きな季語』(NHK出版)川上弘美

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読書『わたしの好きな季語』(NHK出版)川上弘美

川上弘美さんと言えば『センセイの鞄』。考えてみたら、ちゃんと読んだのはこの一冊だけでした。著書は読んでいないもの、新聞や雑誌などで時折見かける川上弘美さんの文章は、やわらかそうに見えながら独特のほの暗さがあり、それが自然であざとくないのが好きだなぁ、と感じていました。

春・夏・秋・冬・新年に分けて、俳句の季語を紹介しているエッセイ。もとは雑誌に連載されていたのですね。言葉の選び方が楽しくあるいは美しく、さすが言葉を生業にする人だなぁ、と思いました。上の写真は、冬の季語「探梅(たんばい)」にちなみ、梅に鶯の描かれた蕎麦猪口(染錦梅に鶯文蕎麦猪口 藤吉憲典)。

本書のなかでしばしば登場する「歳時記」。その素晴らしさをあらためて感じました。我が家にも分厚い歳時記辞典があります。俳句を読む人には季語を知るための歳時記。わたしにとっては、もっぱらやきものの文様の意味をより深く知るための辞典です。歳時記を引くたびに日本の四季の美しさや、それを言葉に残してきた人々の感性に感謝の念が沸いてくる、不思議な書物です。

川上弘美さんの『わたしの好きな季語』は、俳句を嗜む人ではなくとも、その文章自体が面白く読める一冊でした。

肥前磁器の美:藤吉憲典の器「染付栄螺型香炉(そめつけ さざえがた こうろ)」

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肥前磁器の美:藤吉憲典の器「染付栄螺型香炉(そめつけ さざえがた こうろ)」

磁器作家・藤吉憲典がつくる肥前磁器の美しさを伝えるシリーズ。「美しさ」には「用途の美」を含みます。使い勝手の良さも含めて「美しい」と言えるもの。そこにこそ、江戸時代から400年続く肥前磁器の価値があると思っています。

「肥前磁器(ひぜんじき)」という呼び方は、まだまだ一般的ではありません。「有田焼」とか「古伊万里」といった方が、わかりやすくイメージできると思います。肥前磁器とは、有田焼、伊万里、鍋島などと呼ばれる、北部九州地方(肥前地域)で作られてきた磁器の総称です。地域的には現在の佐賀県・長崎県あたり。

肥前磁器の伝統は「写し」の文化によって受け継がれてきています。朝鮮半島から伝わった技術でスタートした磁器制作は、中国磁器に学び真似ることにより、その技術やデザインを発展させてきました。写しによる文化の継承は、江戸時代から現代にいたるまで続いています。

染付栄螺型香炉 藤吉憲典
染付栄螺型香炉 藤吉憲典

「コピー」が質を劣化させながらの表層的な真似であるのに対して、「写し」はオリジナルを超える良いものを生み出そうとする行為。写し継がれることによって、現代に生きています。現代作家・藤吉憲典が作るものも八割方は「写し」あるいは「写しを発展させたもの」です。

染付栄螺型香炉(小) 藤吉憲典

「香炉」自体は、現代の生活のなかで「ふだん使うもの」ではないかもしれません。ただ「蓋付きの器」として考えれば、それは食の器にもなり、大切なものを入れる箱にもなります。そもそも名前は便宜上つけられるものですから、名前にとらわれず用途に生かすことこそが、「見立て」の文化の面白さ。

今回ご紹介している栄螺型の香炉も「本や美術館で見たことがある!」という方があるのではないでしょうか。肥前磁器の収集で知られる戸栗美術館(渋谷区松濤)のサイトでも、江戸時代(17世紀後半)の貝型の蓋物が紹介されています。時代により、作り手により、どのように変わるのかを楽しむことができるのも、肥前磁器の魅力です。

カブトガニが教えてくれること。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

カブトガニが教えてくれること。

昨日はミヤコチドリ、今日はカブトガニで、浜辺情報ブログと化しておりますが(笑)。これも自然豊かな津屋崎の恩恵ゆえ。佐賀にいたときは、メールマガジンやニュースレターに、鳥や木や花など里山の自然の話題ばかり書いていたように思います。

さてカブトガニ。「浜に打ち上がってた」と、ダンナがカブトガニの亡骸を持って帰ってきました。そういえば2012年に津屋崎に移転してきて驚いたことのひとつは、カブトガニの産卵地がここにあるということでした。当時、友人から聞いた話に触発されたことをブログにも書いています。それまでにも一度だけ、佐賀県唐津の海岸でカブトガニを見たことがありましたが、「古代そのまま」という感じの姿に、言いようのない感銘を受けたものでした。

カブトガニ

今でこそ見慣れたその姿ですが、それでも造形の妙に感嘆します。そして彼らを育む干潟の豊かさを思います。干潟はカブトガニだけでなく、たくさんの生物の生きる場所です。干潟の景色の面白さ、そこに生きるものの美しさと、その危機。津屋崎での生活が長くなるにつれ、カブトガニを見るときに感じる思いは、単純な感動ではなく自然環境への危機感も含むものになってきています。

芸術家であるダンナは常々「自然の生み出す造形や色彩の美しさにはかなわない」と言います。同時に「だからこそ、人の手が生み出せる造形や色彩の美しさを追求し続けたい」とも。創造の場において、日常的に五感を通じて自然から受け取っているものが、積み重なって大きな糧となるのだとわかります。自然環境を維持していくことは、美学的にも重要なことなのだと、カブトガニを写真に撮りつつあらためて考えたのでした。

津屋崎浜を歩いていたら、アイルランドの国鳥に出会いました。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

津屋崎浜を歩いていたら、アイルランドの国鳥に出会いました。

昨年の晩秋から続けているウォーキング。あいにく毎日とは参りませんが、週3回くらいのペースで続いています。気持ちに余裕があって、天気が悪くないときは山コース。そうでないときは海コース。体力強化という意味では、山コースの方が効きそうですが、どちらにもそれぞれの面白さがあります。

昨日は海へ。いつものように浜辺をぐるりと、津屋崎浜→宮地浜→福間海岸方面へと進み、福間海岸に入るところで折り返し。前日に風が強かったからか、今日の浜にはウマヅラハギ(カワハギの一種)がところどころに上がっていました。毎年1月から2月頃には、浜に打ちあがってくることがあるのですが、この冬は特に多いような気がします。砂浜に横たわる魚。ややシュールな絵面ですが、たびたび目にするうちに慣れてきました。

カモメやチドリもたくさんいます。カモメは人馴れしているとまでは言わないまでも、散歩者があっても、なかなか飛び立ちません。ジーっとこちらを睨みつつ「できれば動かないで済ませたい」とでも思っているかのよう。カモメのなかでも、すぐに飛び立つ者、歩いてかわそうとする者、動かない者といろいろです。

チドリは比較的すぐに飛び立ちます。藤吉憲典のやきものには「波千鳥」の文様がたびたび描かれます。肥前磁器の文様としては江戸時代から続く人気の古典柄のひとつ。浜で見かけるチドリは、小さな個体の群れもあれば、カモメとサイズが変わらないような大きなものもあります。一見、大きいものは文様のチドリからはイメージが離れているのですが、群れで飛び立つ姿を見ると「ああ、チドリだ!」と感じます。

「文様のチドリは小さい方だろうな」などと思いながら歩いていたら、背後から「ミヤコドリですよ!」と大きな声をかけられました。不意を突かれて「えっ!」と振り向くと、「あそこに4羽いるあれ、ミヤコチドリっていうんです」と、少し離れて平行に歩いていたおじさん。わたしが歩きながらずっと鳥の姿を追っていたのに気が付いて、声をかけてくださったようです。というわけで、大きなチドリが「ミヤコチドリ」であることを知りました。

「ミヤコチドリですか…最近よくこの辺りにいますよね」と答えると「実はここ4-5年ずっと来ていなかったんですが、この冬久しぶりに帰ってきてくれました」と。さらに「個体数が少なくて、保護の対象なんです。」「アイルランドの国鳥なんですよ!」と、畳みかけるおじさん。「えっ、アイルランドですか!?」思わずこちらも大きな声で問い返していました(笑)

津屋崎には、地域の自然や歴史文化・史跡などについて知識が豊富な方がたくさんいらっしゃって、こちらが興味を示せば、惜しげなくいろいろと教えてくださいます。とてもありがたく、皆さんのシビックプライドをひしひしと感じ、嬉しくなる瞬間です。

さてお話を聞いて、一瞬「アイルランドから津屋崎まで飛んできたミヤコチドリ」を連想してしまいましたが、そういうわけではありません。でも渡り鳥ですから、どこか海の向こうから飛んできているのは事実ですよね。アイルランド、英国に渡航できるようになったら足を延ばしたいなと妄想しつつ、鳥には国境も関係ないのよね、と思ったのでした。