花を生けるたびに、いつも思うこと。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

花を生けるたびに、いつも思うこと。

昨日の紫陽花に続いて、本日も花の話。わたしがお花を習っていたのは、ほんの三年間ほど、それも15年以上も前のことです。でも何年経っても、花を生けるたびに「先生だったらなんとおっしゃるかな」と思います。今日のこの百合を見たら「思い切りが悪い」「落とさない方がもったいないということもあるのよ」とおっしゃるに違いありません。

百合

30歳を過ぎたころ、窯元おかみの仕事柄必要を感じて、お茶とお花を習い始めました。当時、お花を教えてくれるところは近くになかったのですが、お茶室でご一緒していた華道お家元の先生が、お茶のお稽古の前後に指南してくださったのでした。先生のご厚意に甘え、流派に入門することなく、実地で勉強することができました。今考えても、ほんとうに贅沢でありがたいことです。

お茶の日は、お稽古がはじまる1~2時間前にお茶室に入り、床の間の花を用意する先生のお仕事を拝見しながら、いろいろと教えていただきました。毎回、すべての花は先生のお宅の庭で育てているものを使っていました。その日に咲いているもの、その日に一番美しいものを庭で切ってこられるのです。お花を習い始めてから何十年もかけて、茶花として生けたいものを少しづつ増やしていかれたそうです。

「花は野にあるように」という利休の教えがありますが、その言葉を知る前に、わたしは先生に教えていただいていたような気がします。基本の生け方と茶花の生け方、両方を目の前で拝見し、教えていただきながら学んだことは、わたしの財産になっています。花は買ってこなくても、文字通り「身近にある草花」を一輪挿すだけでいいのだということも、先生から教わりました。

「先生だったら、こうおっしゃるだろうな」がわかっていても、未だなかなか修正できない出来の悪い教え子です。でも、花を生けるたびにこのように自分のなかで先生と問答できること自体が、とても嬉しくありがたいのです。