読書『名画小説』(河出書房新社)深水黎一郎

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

読書『名画小説』(河出書房新社)深水黎一郎

新刊棚で表紙に描かれた美術館の雰囲気に惹かれて手を取った一冊。タイトルも作者も存じませんでしたが、大正解でした。上の写真は、その表紙の画から連想した、ロンドンナショナルギャラリー。

タイトルの『名画小説』は、「名画についての小説」ではなく、「名画から連想してできた小説」を意味しています。13の短編=13の名画が題材となっている、短編集。短編ながら、いずれも一筋縄ではいかないストーリー展開に引き込まれ、一気に読みました。

絵画に描かれているものからイメージを読みとり、自らの言葉で「お話」を紡ぎあげていく手法は、アートエデュケーションのプログラム「対話型鑑賞法」でやっていることとつながります。もちろん「お話」をつくっているのがプロの小説家で、「本」としてたくさんの人に読んでもらう前提で書いているというのは、大きな違いではありますが。

それぞれに絵画から導き出されている13の短編にあふれているのは、まさに著者独特の世界観です。こんなふうに作品(小説)化するところまで昇華できると、絵画鑑賞の楽しみもさぞかし大きいことでしょう。そういえば子どもの頃は、絵画からそのような空想世界のお話を導き出していたことを思い出しました。この感覚は、今後のアートエデュケーションプログラムに生かせそうです。

ひとつだけ難を言えば、カタカナ語、とくに固有名詞の多くを漢字表記にしているため、フリガナはついているものの読みにくいというところでしょうか。それもまた敢えてのことでしょう。読み飛ばしたくなるところを、読み飛ばすと訳が分からなくなりますのでグッと我慢して(笑)読み続けました。

深水黎一郎さんの本はこれまで読んだことがありませんでしたが、独特の世界観に俄然興味が湧いてきました。このように、偶然見つけた本からの著者との出会いは、とても嬉しいです。遡って読んでみようと思います。

次の展覧会は「磁器作家 藤吉憲典の挑戦 古伊万里の変遷と未来 古典からアートへ」。

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次の展覧会は「磁器作家 藤吉憲典の挑戦 古伊万里の変遷と未来 古典からアートへ」。

先月「11月は福岡アジア美術館で展覧会。」と書いていましたが、早くも会期まであとひと月ちょっととなりました。

11月の福岡アジア美術館での展覧会は、初めての花祭窯の自主開催です。昨年の春、コロナ禍下の自粛生活がスタートし「先が見通し難くなった」ときに、「この先の飛躍に備えて、今自分たちのするべきこと」を突き詰めて考えました。その結果たどりついた結論が、「一度おさらいをする」こと。ちょうど来年は創業から25周年ということもあり、これまでの仕事を並べ直してみることにしたのでした。

「これまでの仕事」とは言っても、25年の間に作ったものはすでに販売されていて、ほとんど手元に残っていません。なので、これまでにつくったモノそのものを並べるのではなく、これまでにやってきたことを今やったらどうなるか?と、写し直すことで「おさらい」するものです。

チラシの第一弾は完成し、ポスター、展覧会冊子などの制作物を作りこんでいるところです。先日ブログにアップした「肥前磁器作家の仕事」を取り巻く仕事でもご紹介したように、ふだんからお世話になっているお取引先の方々にもご協力いただき、心強い味方が増えてきました。周りの人を巻き込んで仕事をするのは得意とは言えませんが、皆さんのおかげで、少しづつ形が見えてきているところです。

福岡アジア美術館のサイトでも、展覧会予告がスタートしました。「藤吉憲典の挑戦」を紹介するこの展覧会の開催もまた、わたしたちにとって、大きな挑戦のひとつです。頑張ります。下の画像は、告知用チラシ。クリックすると拡大版で見ることができます。

古伊万里の変遷と未来 古典からアートへ磁器作家藤吉憲典の挑戦
古伊万里の変遷と未来 古典からアートへ 磁器作家 藤吉憲典の挑戦

「肥前磁器作家の仕事」を取り巻く仕事。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

「肥前磁器作家の仕事」を取り巻く仕事。

11月に開催する福岡アジア美術館での展覧会準備を進めています。藤吉憲典の仕事を並べ直す展覧会。すなわち肥前磁器(古伊万里)の歴史をおさらいし、今度の展開を考えていくものです。生業としてお世話になっている「肥前磁器」の歴史や仕事、やきもの(磁器)そのものへの感謝を伝える機会にもなれば、と全体の構成を考えています。

そのなかで 「『肥前磁器作家の仕事』を取り巻く仕事」を紹介したいよね、となったのは、自然な流れでした。いつもお世話になっている原材料やさんを中心に協力依頼。ふだん自分たちの仕事がどう使われて、どのように見られているのかを知る機会があまりないということで、皆さん喜んでご協力くださいました。

陶土やさん、釉薬やさん、呉須絵具やさん、赤絵具やさん、筆などの道具やさんなどなど。磁器作家の仕事のモトをご覧いただくコーナーを設けることで、ふだんギャラリーさんで開催していただく展覧会とは違ったアプローチを取り入れるのも、自主開催をする意味のひとつかな、と。準備しながら、どんどんワクワクしています^^

古伊万里の変遷と未来 古典からアートへ磁器作家藤吉憲典の挑戦

アートフェアアジア福岡2021を見て参りました。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

アートフェアアジア福岡2021を見て参りました。

6回目となるアートフェアアジア福岡。昨年は中止になりましたので、2年ぶりの開催となりました。今年は初めて無料での開催です。会場も博多阪急に集約されました。平日を含み5日間の開催も、これまでの最長。時節柄、感染対策を考慮しての柔軟な変更だったのだと思います。その結果、いろんな方が足を運びやすくなったのではないでしょうか。

わたしも「これならお伺いできるかな」と考えた一人。博多阪急さんなら駅を降りてすぐだし、人込みを避けるべく平日午前中にお伺いしてまいりました。いつものように、まずはサッと一回り。「いいな」とアンテナに響く一角をみつけて、じっくり見ていたところ、親しげに近づいてくるお顔を発見。マスクをしているので、近くに来ないとどなたかわからずにいましたが、みぞえギャラリーの若き女性ギャラリストさんでした。

近況ご挨拶をして気が付けば、わたしが立ち止まっていたのは、みぞえギャラリーさんのブース。ブース名(ギャラリー名)を見ず、ひたすら作品だけを見ていたので、どこの出展かを意識していませんでしたが、「これがいい」と思う感覚が近いギャラリーさんであることを再確認しました。今回のアートフェアアジア福岡では、事務局として中心的役割を果たしておられます。

ずっと見ていた作品について、その作家さんについてのお話をタイミングよく伺うことができました。文字情報無しで気に入った作品をよく見た後に、背景情報を聴くことができると、作品の楽しみがさらに広がります。わたしはどちらかというと、鑑賞に文字情報は必要ないと考える方なのですが、じっくり鑑賞した後に情報を加えていくことで、鑑賞が深まるのもまたひとつの楽しみ方です。

現代日本のアートシーンを垣間見ることのできる空間です。各ブースにはそれぞれギャラリストさんがおられますので、作品や作家さんについてのお話を聞くことができるのも、嬉しい機会です。博多阪急7Fイベントホール『ミューズ』と8F催場にて、9月26日(日)まで開催。

アートフェアアジア福岡2021

11月は福岡アジア美術館で展覧会。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

11月は福岡アジア美術館で展覧会。

気が付けば会期初日までに2か月を切っていて、ちょっと焦っています。というのも、11月の福岡アジア美術館での展覧会は、初めての花祭窯の自主開催なのです。写真は、急ピッチで制作に取り掛かっている、告知ツールのひとつ。

そもそものはじまりは、昨年のこと。コロナ禍でいろいろなことが見通し難くなりました。花祭窯として独立以来これまでも、2011年東日本での地震、2016年熊本での地震など、己の無力を突き付けられるニュースがあるたびに、「わたしたちは、日々自分たちのするべき仕事をコツコツと続けていくしかない」という想いに至っていました。

昨年の春、最初の自粛生活がスタートし「先が見通し難くなった」ときにも、その先に進むために、「今、自分たちのするべき仕事」は何かを突き詰めて考えました。その結果「一度おさらいをする」ことにたどりついたのでした。ちょうど来年は創業から25周年ということもあり、これまでの仕事を並べ直してみることに。

藤吉憲典の仕事を並べ直すことは、そのまま、肥前磁器(古伊万里)の歴史をおさらいし、今度の展開を考えていくことにつながります。そこで「肥前磁器の歴史を、藤吉憲典の『写し』でご覧いただく」という形をとることにしました。公開することで、ずっとお世話になっている「肥前磁器」の歴史や仕事、やきもの(磁器)そのものに、興味を持ってくださる人が増えたら、少しは恩返しになるかもしれない、という想いもあり。

通常、藤吉憲典の展覧会は、ギャラリー(コマーシャルギャラリー)さんが主催してくださる、販売がメインの展覧会です。その機会をいただくおかげで、生業としての陶芸家が成り立っています。それに対して今回は、まったくの非営利での自主開催。開催には少なからぬ金額が掛かります。入場料は無料ですので、売上はありません。これをコストではなく投資として昇華できるものにしなければなりません。

古伊万里の変遷と未来 古典からアートへ
磁器作家 藤吉憲典の挑戦

スタートは昨年の春ですが、その後はふだんの仕事をしながら、どう組み立てたらよいかを隙間で考えてきました。気が付けば会期まで2か月弱。やっとこさ中心に据えて取り組みはじめています。初日は1の並びが縁起の良い11月11日。ここに向かって全力投球です。

古伊万里の変遷と未来 古典からアートへ磁器作家藤吉憲典の挑戦

毎日のブログのモトは、どこから拾ってくるのか。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

毎日のブログのモトはどこから拾ってくるのか。

おかげさまで、土日祝日を除いてほぼ毎日「ふじゆりスタイル」の記事を書くことが出来ています。ときには日曜日以外毎日書いている月もあり、「よくそんなに書けるね」と声をかけていただくことが増えてきました。

とはいえ「ブログ」との付き合いは「書き始めては頓挫し」の繰り返しでした。淡々と書けるようになってきたのは、ほんのここ数年です。

わたしの場合、「ブログを書き続ける」という点で、お手本となる存在がありました。「展活Times」を平日毎日更新し続ける、展示会活用アドバイザー大島節子さん。東大阪にある、什器レンタル会社さんの社長さんです。わたしよりかなりお若いのですが、家業を継いで社長になられてから、事業存続を探るなかでご自身の天職を作り上げて来られた、すごい方です。これからの時代、自分にとっての天職は作り上げていくべきものなのだと、彼女の活躍を拝見するたびに思います。

この方が書くブログは、徹底して「お客様に役立つ情報」を意識しておられるのがすごいです。それでいて、とても自然体。わたしは彼女をお手本にしていると言いながら、「どなたかの役に立つ情報」を意識して書き続けようとすると頓挫する、を繰り返してきました。実際にやろうとして、さらに彼女のすごさがわかります。どうやらそのスタンスはわたしには無理なので、「自然体」だけでも倣おうと開き直り(笑)、徹底して「自分が読みたいこと」を「自分のために」書くことにしました。

「自分が読みたいこと」を「自分のために」書く となると、自由で気軽です。ノンジャンルな文書の集まりになって、まとまらなさそうですが、そこには「わたし自身の興味関心」という一定の方向性が生まれます。自分のための備忘録ですから、一番の読者は、わたし自身。実際のところ、何か思い出したいことがあったり、調べたいことがあるときに「ふじゆりブログ」内でキーワード検索をかけると、答えやヒントが出てくることが多々。かなり役に立っています。

「何を書こうか」がパッと浮かばないときには、スマホで撮った写真を振り返ってみます。わたしは、仕事に使う以外ではあまりスマホで写真を撮らない方ですが、それでも自分がそのとき「あ!」と思ったものを撮っているものです。その写真からブログテーマを引っ張ってきて、文章化する。これが案外便利な「ブログネタ」になっています。そしてもうひとつ、わたしには強い味方「読書記録」があります。常日頃から本はなにかと読んでいるので、そのなかからピックアップしてブログを書けばよいというわけです。

書くことが見つからないときはこれ!という頼り先(わたしの場合、スマホで撮った写真と、読書)を一つ二つ持っているだけで、ブログを毎日書くのに、それほど困らないようになりました。あとは「自分のために書く」という気軽さ、そしてももと文章を書くのが好きな方だということですね。

そんなわけで、執筆の仕事も募集中ですので、お気軽にご相談くださいませ^^

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その5。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その5。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


美術探検

「美術作品」を読みとるのではなく、「美術」を見る/知る=鑑賞は個人が各自の体験(知っていること)を存分に使って積極的に作品の中に出かける「表現」になる。

日常の常識でいっぱいの毎日の中に、美術作品によって非日常がするりと入ってきて、ふと自分の今日までを振り返る。自分の個人的な体験の点検と再構築が起こって、これまでの世界が広がる。
各自の世界観が知らないうちに拡大される喜びが、美術を鑑賞する楽しさと目的である。

表現行為としての鑑賞

本物を見るということは、何を見ることなのか。

「鑑賞を表現行為として行う」には、作品と対峙したときに
①作家の想いを含め、描いた人のことは忘れる。
②美術館にあることを含め、権威にまつわることは忘れる。
③キャプションを含め、作品を巡って「字で書いてあること」は忘れる。
→それによって、初めてそこにある作品を「注意深く丁寧に見る」ことができる。

自分で見て「その人自身」が「作品から読み取れることだけ」を使って「自分のお話」を「組み立てる」作業の結果、各自が持っている世界観が自然い拡大するという状況が起こる。そのことを「鑑賞」という。

★鑑賞のアートワークで押さるべきこと。

ものを見て判断する場合に、依るべき基準として使うことができるのは、その時その人の脳に既に保存されている記憶又は試験だけ。
鑑賞するときに使えるのは、その人が既に知っていることだけ。
その時彼らに教えることができるのは「既に持っているモノの使い方」だけ。

=伝えるべきは新しい見方ではなく、見ているものから読みとる方法と、それをもとに、自分が既に持っている情報をどのようにそこに絡めて使うか、というような部分。(←いかにアドバイスするか)

すでに知っていることを縦横に使ってみることによって、もっと知るべき(知りたい)方向と深さが自ずと見えてくる。
無意識に「知らされる」のではなく、意識的に「知る」。

美術はそのほとんどが「見る人の目の問題」である。
自分のために、様々なものを丁寧に注意深く見よう。
それが好きだという感覚は、個人でしか決められない。又は自分で決めなくてはいけないコト。
自分で決めるということは具体的に何をどうすることなのか、その点検に美術は使える。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


その1

その2

その3

その4

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その4。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その4。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


制作しない、しかし美術

(学校教育が苦手とする)個人を自立させる、または個人が自主的に健全な人格を形成できるようにする、という部分を担う。

美術は非日常とか認識の拡大とか、まず確固たる常識と日常が出来上がっていることが、理解の基本に深く関わり、かつ個人の美意識の上に成立する。

美術的な活動=丁寧に、くわしく、深く見る。の場面で使われるのは「美術的な視点」。近代の自立した市民的視点。私たちが、これまでの美術の歴史を通して獲得してきたものは、感性と過去性とかのような曖昧なものを肯定する基礎となるもの。すなわち「一人一人違っていて、一人一人がそこから見ていることを肯定することができる」というもの。

美術作品の鑑賞は、表現教育の大切なひとつ。=見ることを通した自我の形成、美意識の組み立て。=個人の美意識の形成。

個人が(象徴的な意味で)立ち止まって、よく考え、自分で周りを見ながら決める。決めたことを、自分以外の人の見方など気にしないで、自分の責任と覚悟の上で、みんなに見てもらえるよう努力してみる。というような美術・表現の基本的な姿勢。

美術(Fine Art)は哲学的で内省的で専門的で広範囲に各自の人生や世界観に深く関わる部分を含む、総合的でかつ個別な概念である。基本的に美術は、人間の大人のための仕事、活動なのだ。

一人一人の「体験」を、人間としての「経験」に積み重ねる手伝いが美術にはできる。私の感動は私の感動で、その感動は伝えられない。でも感動というものがあるということ、そして、その感覚はこうすれば磨くことができる、は伝えられる。

描けるのは、頭の中に見えるモノだけ、を自覚できる大人になろう。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その3。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その3。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


美術を使い込んでいくために

美術はもう終わったんではないかと言われたことがあった。でも終わらなかった。
美術は常識を点検し、無理やり世界を広げるのが、仕事。
美術が無くなるとき、それは常識が無くなったのに、それに誰も気付かなくなったときで、それって私たち人間の世界の終わりなんじゃないだろうか。
そうならないために、みんな美術館に行こう。

美術は、全ての人間が全部一人一人違うということを基礎に、人間全体の世界観を拡大してゆくということが、存在の意義である。

一人一人違う人間は、一人一人違う生活経験を組み立ててゆく。その生活経験の積み重ねで、その時のその人の世界観(自分を取り巻く状況とのつじつま合わせ)や人生観(自分の内側で起こっていることのつじつま合わせ)が、一人一人個別に、その人の中に出来上がって行く。まずこの状態が肯定的に、社会の基礎として存在しないと私たちが今知っていると感じている美術は始まらない。

なぜなら美術は、その個人の世界観や人生観を表現したものだからである。
そこに表出されたものが、全く違うということこそが、私たちの美術がここまでかけてやっと獲得してきたものであって、私が今ここにいる、ということの証明なのだ。

今ここに私がいる。そして私はこのように私の世界を見ている。
ただそれだけを自覚して真摯に描いて(表現して)いるかどうかだけが、問われる。

そこにあるのは私が知っている世界ではなく、それを描いた人が見ている世界だ。ということを肯定する。

その人が真摯に描いた世界観を、こちらも真摯に見る。ことを通して私たちは自分の世界観と人生観を点検し、修正し、どのような形であれ理解することによって、自分の世界の見方を拡大してゆく。

肯定された「一人一人違う世界の見方」が集まって初めて私たち一人一人の世界観はより豊かに広がっていく。
このことは練習しなければいけないし、いくら練習しても終わることはない。

みんな一人一人違うということを尊重して大切に想う。美術はそのまったく基礎にあるものの見方を訓練するもの。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その2。

こんにちは。花祭窯おかみ/アートエデュケーターふじゆりです。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)個人的要約、その2。

アートエデュケーターとしてのわたしの原点となる本です。ことあるごとに読み直しています。個人的に「ここ大切」な部分を、あらためて要約(基本的には本書より抜粋、部分的に言葉遣いをわかりやすいよう変更、ごく稀に括弧で内容補足)。


小学生と中学生のための「美術って本当のところ、どうなんですか?」

「作ること(描くこと)」は、美術の中の一番大切な部分ではない。上手に描けるとか絵は苦手とかは、美術を楽しんだり考えたりするときには、ほとんど関係ない。

本当は学校でするべき美術って、実は「見ることの楽しみ」を練習すること。

今座っているところから窓が見えるか?そこから外を見る。その窓から外に見える物を5分間で30個「言葉」で書き出してみる。

大きくなるにつれ、生活の体験が増えるにしたがって、どんどん見える物(意識できるもの)が増えてきて、見える物が増えること自体が楽しくなってきて、今の私たちがいる。

自分が知っていることだけが、描ける。頭の中で「見える物」を言葉で書いていくと、その組み合わせで「描ける物」が見える物を超えて増えていく。

言葉で書けるものを「飽きずに丁寧に」を描いていくと、絵は知らないうちに上手に見えてくる。「見える物を書く言葉」を増やす作業/努力をしてこなかった人も、絵を上手く描けない人になってしまうことが多い。

絵を描く作業は運動神経である。だから本当に上手い絵を描きたい人は、運動神経を研ぎ澄まさなければならない。自分の運動神経を隅々まできちんとコントロールしてやるぞ、という想い。自分の中の世界の見え方を、自分自身で意識的に運動神経に変えてみる作業。

「見てるか?」の点検

目で見ているものは、目で見えている映像を、脳が見えていると思っているので、見えている。
見て描く作業の時、実際に描いているときに見ているものはどこにある?

私たちはよく「見た」「ちゃんと見た」という。でも本当に見えているのは、目の外側にあるものでは無く、目で見て、脳に記憶してあると信じている物だったりする。

私たちが普通見ていると思っている物は、目の外側ではなく目の内側にあるものであることに気づこう。

絵を見ることは、それを描いた人の内側をのぞきこむことなのだということがわかると、自分以外の人が描いた絵を見る楽しみ、そしてあなたがあなたの絵を描く楽しみは一気に広がらないか?そうか、自分の頭の中に、こういう風に写っていたんだ、と。

どう見て良いのかわからない絵を見るときには、絵を「よく」見るしかない。何が見える?自分が既に分かっている/知っていることを使って「見て分かること」を増やす。

見えることだけで、頭の中にお話が湧いてきて、続いていく。
今、頭の中でおこっていることが、本当の「鑑賞」。作者の想いを読みとるのではない。作品を使って、あなたの世界が広がっていくのが鑑賞。それができるのが良い絵。

描いた人の気持なんか、あまり気にしなくても良いから、もし自分がこれを描くとしたら、何をどうやってどうするか、実際の気持ちになって見直してみよう。

美術作品を見ることが感動と結びついている活動だというならば、美術館はもっとうるさい所になって良い。
感動したら声を出してみる。
上手かろうが下手だろうが、感動するのであれば、実はどっちでもいい。

私たちは、自分で考えて、何がかっこいいのかを、皆が各自考えなければいけない世界に生きている。
かっこいいはみんな違う。同じ人でも10代のときと50歳のときとでは違う。でも私たちは、みんな一緒に生きている。

美術館には、好きな絵嫌いな絵、いろんな絵が飾ってある。飾ってある絵が全部違うことが大切。全部違うものを全部大切にとってある/とっておけることが大切。

いろんな考え方のいろんな世界を見る。本当のところ、美術館をみんなで作る楽しみは、そこにある。

齋正弘先生の『大きな羊の見つけ方 「使える」美術の話』(仙台文庫)より


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